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壮絶な「いじめの記憶」に苦しむ47歳男性の叫び

2021-09-17 15:30:00 | 日記

下記は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。
今回紹介するのは「家族や親類とも不仲で、友人も恋人もなく、また極度の生活苦にて、毎日死にたいと思いながら生きてる状態です」と編集部にメールをくれた、47歳の男性だ。
次から次へと作業があるときはパニックに
「ニンジン(イチョウ切り)500グラム、ゴボウ(細切り)1.5キロ、ニンジン(角切り)350グラム」――。小さなホワイトボードに、時間割表のように作業工程が書かれている。切った野菜を小分けにする袋が入ったかごには、容量に応じて「100~200グラム用」「200~300グラム用」などと印刷したシールが張られている。
2年前に発達障害と診断されたトモノリさん(仮名、47歳)は食品加工の工場で働き始めた。作業の順番を忘れたり、袋の大きさを間違えたりといったミスが続いたので、以前からアドバイスを受けていた「障害者職業センター」のジョブコーチ(職場適応援助者)と社長に相談したところ、ホワイトボードとシールを用意してくれたのだという。
この連載の一覧はこちら
「キリのいい数字なら大丈夫なのですが、180グラム、250グラムとなった途端、どの袋を使えばいいのか、頭がこんがらがるんです。今お話ししているように冷静に考えればわかるんですよ。でも、次から次へと作業があるときはパニックになってしまうんです。ホワイトボードとシールのおかげでミスが減りました」
生まれも育ちも長野県。祖父の代までは裕福だったが、自営業の父のときに身代が傾いた。戦時中に建てられたという実家は修復もままならず、「今はお化け屋敷のようです」。
高校卒業後は就職したものの、どの仕事も長続きしなかった。電話を受けながらメモを取ることができなかったり、注文の数や種類をたびたび間違えたりしたからだ。自分でも「効率が悪い、手が遅い」という自覚がある。失敗を挽回しようと焦るほどミスを重ねた。
「やる気あんのか」「遊び半分で仕事してんのか」「お前じゃ務まらないから辞めろ」――。そう罵倒されるたび、泣きながら帰ったという。「自分には知的障害があるんだとずっと思ってきました」とトモノリさんは振り返る。
クビになるたび、しばらくの間ひきこもり状態になるという繰り返し。なんとかしなければと数年前に保健師に相談したところ、社会福祉協議会の就労支援担当の相談員とつながることができた。この相談員の勧めで精神科を受診、ADHD(注意欠陥多動性障害)であることがわかったのだという。その後は障害者枠で現在の会社にパートとして就職。今もジョブコーチが毎月会社を訪れ、社長を交えた3者面談を続けている。
月収はコロナ前は15万円ほどだったが、現在はシフトカットされて10万円ほど。正直、暮らしていくには厳しい水準だが、トモノリさんは「転職しても今以上の環境は望めないと思います。社長は『慌てなくていい。落ち着いて行動すればミスは減るから』と言ってくれる。(社協の)相談員もジョブコーチも理解のある人たちに恵まれました」と感謝する。
本連載で取材してきた中でも、理想的な形で「公助」の支援を受けたケースに見えた。しかし、トモノリさんは昨年来、編集部に何通もの悲痛なメールを送ってきた。
「毎日死にたいと思いながら生きています」「いつ死のうかと、それだけ考えながら通勤しています」「この無間地獄から抜け出したいですが、どうにもなりません」――。
かつての職場でつらい経験はしたが、現在の仕事に大きな不満はないはずだ。ではなぜこんなメールを? あらためて話を聞くと、希死念慮の発端は子ども時代の壮絶ないじめの記憶にあった。
ナイフを突きつけられ、汚水を飲まされた
小学校高学年のころから、クラスの同級生に背中や腹、ふくらはぎをこぶしで殴られたり、飛び蹴りを食らったりするようになった。「(加害者は)元気がいいとされている男子10人くらい。殴られるかどうかは彼らの気分次第。『あいつは頭悪いし、弱いし、何をしてもいいんだ』という雰囲気でした」とトモノリさん。
学校からの帰り道、果物ナイフを突きつけられ、側溝にたまった汚水を無理やり飲まされたこともある。翌日、「あいつんちは貧乏だから、泥水だって飲むんだ」と吹聴された。
ランドセルを持たされたり、掃除当番を押し付けられたりするのは当たり前。一度だけ担任の教師に「なんでお前ばっかり掃除をしてるんだ?」と言われたことがあるが、報復が怖くて「いいんです」と答えることしかできなかった。教師がそれ以上事情を聞いてくることはなかったという。
中でも中学校まで続いた給食の時間はひどかった。
「ミートボールとか、鶏のから揚げとか、デザートのプリンとか、子どもが好きそうなメニューはおよそ食べた記憶がありません。『お前にはもったいない』とみんな持っていかれるんです。『やめなよ』と言ってくれる女子もいましたが、お構いなしでしたね。給食はいつも余り物を食べていました。夕方になるとおなかがすいて仕方がありませんでした」
中学では、柔道部に強制的に入部させられた。同級生3人に囲まれ「逆らうとどうなるかわかってるのか」と脅され、入部届に名前を書かされたのだという。案の定、部室の掃除や道着の持ち運びをやらされ、顧問の目が届かないところで技をかける実験台にされた。
いじめに加わる生徒の数は増える一方で、いさめてくれる女子生徒は次第にいなくなった。いじめられる原因にあえて言及するとすれば「僕が鈍くて、何をするのも遅い子どもだったからではないでしょうか」とトモノリさんは言う。いずれもADHDの特性と関係があったと思われる。
教師に「学校に行きたくない」と訴えたこともあるが、そのたびに「(いじめた側は)元気のあるやつらだから。(トモノリさんのことが)憎くてやってるわけじゃない。こんなことくらいで学校に行きたくないなんて、これからどうするつもりだ」と逆に説教された。
「誰も助けてくれませんでした。傍観してるだけ。僕が教室で殴られていても、みんな笑って見てるだけ。僕の代わりに先生に言ってくれる人もいなかった。あのころはクラスの全員を憎んでいました」
自殺を試みたら父親から殴られた
トモノリさんは中学3年生のときに自殺を試みたことがある。ノートの切れ端に「僕は死にます」と書いたメモを黒板に張り付けて近くの裏山にのぼった。そのまま飢え死にしようと思ったのだという。“遺書”を残したのでちょっとした騒ぎになったが、結局その日のうちに教師に見つかった。帰宅後、父親からは「いじめられるお前に原因がある。こんなことをして楽しいか」と殴られたという。
この自殺未遂後、トモノリさんが欠席している間にクラスでは話し合いが行われた。その様子を後になって人づてに聞いたところ、同級生たちは「(トモノリさんが)いじめだと勝手に思い込んでいるだけ」「遊んでいるように見えました」と言い、誰一人いじめを認める者はなかった。
それから卒業までは、殴る蹴るの暴力は減ったが、今度は無視をされるようになった。夏のキャンプやスキー教室では生徒同士でグループをつくるのだが、トモノリさんは「お前、誰だっけ」「お前は1人でもいいよな」と言われてのけ者にされた。結局こうした課外授業では、トモノリさんは教師と行動をともにしたという。
「助けてくれる人が誰もいなかった」。トモノリさんはそう何度も繰り返した。
これがトモノリさんの子ども時代の思い出だ。子どものやったこととはいえ反吐がでる。
いじめられた記憶はその後もトモノリさんの人生に暗い影を落とし続けた。高校卒業後の就職先は、いずれも通勤に1時間近くかかる隣町にある会社を選んだ。「狭い町ですから。同級生にばったり会うのが怖かったんです」。
ひきこもり状態になったときに精神科を受診したところ、対人恐怖症とうつ病と診断された。発達障害の典型的な二次障害だが、原因はあきらかに子ども時代のいじめである。
特に対人恐怖症の症状は深刻だ。人の多いところでは、めまいと立ちくらみがして、恐怖心からその場にしゃがみこんでしまう。電車やバスに乗れないのはもちろん、車も込み合う時間帯は運転できない。「反対車線に止まっている車の運転手の視線が怖い」のだという。今も通勤には車が必要だが、ラッシュ時を避けるため、工場には定時より1時間ほど早く出勤している。
免許の更新手続きも、社協での相談も、込み合っている時間帯は建物に入ることさえできない。コンビニもすいている店舗を探して1、2時間うろうろすることも珍しくない。「店内にお客さんが1人、2人なら大丈夫ですが、5人以上いるとダメです。人が減った瞬間に慌てて(入店して)買い物をします。自分でもこんな生活をいつまで続けるのかと思うと情けなくて……」。
炭酸飲料を一気に飲んで夕食を抜く
父親はすでに亡くなり、年金暮らしの母親と同居している。家計はつねに厳しいので、食事を1日1食にすることもある。そんなときは500ミリリットルの炭酸飲料を一気に飲んで腹を膨らませて夕食を抜く。築80年近くたっている家は雨漏りがひどいが、修復する余裕はない。せっかく発達障害と診断されたのに、病院代を払えないので処方薬も服用できていない。虫歯も放置したままで、奥歯を中心に歯はボロボロだという。
近所にはトモノリさんをいじめた人たちの家もある。「彼らは普通に就職して、普通に結婚をして。家が新築になったり、車がファミリーカーに変わったりするのを見るたび、なんで僕だけがと、やりきれない気持ちになります」。
本当は誰も自分を知らない場所で再スタートしたい。しかし、お金もなく、対人恐怖症という爆弾を抱えていてはそれも難しい。トモノリさんが「何もないんです、僕には」とつぶやいた。友達も、思い出も、恋人も、救いも、希望も、未来も、何もないのだ、と。
トモノリさんが編集部にメールを送った理由をあらためて説明する。
「今はたしかに比較的恵まれた状態にいます。でも、それでもなおつねに死にたいと考えながら毎日を生きています。そのことを知ってほしかった」
いじめたことも忘れ、何食わぬ顔で生きているかつての同級生たち。これはトモノリさんから彼らへのメッセージなのかもれない。
藤田 和恵 : ジャーナリスト


77歳現役アナ・遠藤泰子 30年以上続くラジオ番組、再々婚した認知症の夫のこと

2021-09-17 13:30:00 | 日記
下記はAERAdotからの借用(コピー)です   お詫び:少し古い記事です。

朝のラジオニュース番組「森本毅郎・スタンバイ!」は、30年近く同時間帯聴取率1位を独走してきた。番組が始まった1990年からアシスタントを務めるフリーアナウンサーの遠藤泰子さんは、現在77歳。今も毎朝、東京・赤坂にあるTBSのスタジオでニュースを読む。「日本一のニュースの読み手」と森本さんが信頼を寄せる遠藤さんは、どのように75歳を折り返したのか。

*  *  *
「74歳のとき、股関節神経症が悪化しました。杖にすがって歩くほどで、健康なら2、3分で行けるところにそろそろと10分かかるんです。ごく当たり前の動作ができないことが悔しくて」

 マイクの前では大きく見えるが、実は小柄。滑舌のよい低めの声はラジオのままに艶(つや)やかだ。

「体にメスを入れるのが怖くてありとあらゆる民間療法を試しましたが、75歳の暮れに思い切って手術しました。全身麻酔は初めてです。手術翌日には痛みが取れて、1カ月後には杖なしで歩けるように。当たり前に歩けるって本当にありがたいですね。

 足の病気なので声には影響ないと思っていましたが、あとで友人から『手術したらマイクを通して聴く声が変わったわよ』と言われました」

 番組は月~金、朝6時半に始まる。遠藤さんの平日は規則正しい。

「3時半起床、21時半就寝の生活はすっかり体内時計に刻まれています。24時間が「スタンバイ!」を中心に回っているんです。4時半過ぎに家を出て、5時に赤坂のTBSに入ります。新聞12紙に目を通してから本番です。

 番組終了後は軽食をつまみながらスタッフと反省会。コロナ禍の今は終わったらまっすぐ家に帰ってずっと家の中にいます。滅入りませんか?と聞かれますが、一人っ子だからか一人で時間を過ごすのは苦になりません。家の中をせっせと片付けたりしていると時間はあっという間に経ちますね。夕方は17時半から食事をして19時にお風呂。21時半にはベッドに入ります。お酒も平日はビール1杯まで。会食の予定も入れません。その分、金土に楽しんでいましたが、コロナで遠ざかりました」

番組が取り上げるのは日々のニュースや社会問題。リスナーの側に立った森本さんの問題意識と大いなる批判精神は、小学生からシニアまで幅広いファンに支持される。

 硬派だがあたたかい森本さんと遠藤さんの前向きな朗らかさが絶妙に調和する2時間だ。

 そのスタジオも、コロナ禍の影響を受けた。

「密を避けるために森本さんは赤坂の事務所からリモート出演です。私はスタジオのマイクの前が好きで、コロナ禍も毎朝赤坂のTBSに通っています。

 そう、発熱恐怖症にもなりました。コロナに感染していなくても発熱すると局舎に入れませんので、熱を出すのが怖くて。

 でも普段からのどの痛みとか目がゴロゴロするとか、ちょっとしたことでもすぐに病院に行くようにしています。自分の体調のせいで急にピンチヒッターをお願いするような事態は避けたいので、体の変調に気をつけるのはもう習い性です。

 10年ぐらい前から記憶力が気になり始めました。SDGsとかサブスクといったカタカナの新しい言葉は、スマホの中に一覧表をつくって時折見返しています。歯の問題も避けられません。削るなどで少しでも歯の状態が変化すると舌の動きに影響してしまいます。例えばラ行が発音しにくくなるなどしたら、家で声に出して繰り返し練習しています」

「日本一のニュースリーダー」「存在感があるのに存在感を出さない」。森本さんの遠藤さん評だ。信頼は厚い。遠藤さんにとって「スタンバイ!」はどういう存在なのか。

「50歳になる直前、肩こりがひどい時期がありました。マッサージを頼んだ施術師の女性が『苦手なものやイヤなものを取り除いていくことも大事かもしれませんね』と言ってくれたひと言が心に残りました。その時から少しずつ、気の進まない仕事は無理して受けない、苦手な人とはなるべく会わない、また、身の回りにはボールペンひとつでも気に入ったものを置くようにしてみたんです。そしたら確かに気分が楽になりました。大事な分岐点だったように思います。そう考えると改めて、30年以上続けている『スタンバイ!』がつくづく好きなんだと思います。

森本さんは歩く受信機かと思うくらいニュースの動きを常に把握していらっしゃる方。24時に休まれて4時起きだそうですが、寝ている間にもふと目が覚めるとCNNにチャンネルを合わせたりされるほどです。誰よりも勉強されるので、森本さんについていこうと、チームには緊張感があります。それは31年間、変わりません。一人ひとりが真剣に参加している、それが『スタンバイ!』の魅力です」

 31年の間には、プライベートではいい日もあれば、悪い日もあった。

「69歳で入籍しました。30代と50代で離婚を経験していまして、再々婚。立教大学放送研究会の4歳先輩です。50代後半からのおつきあいでした。ところが間もなく主人が認知症に。4年ほど家で介護しましたが、大きな体を抱えたりする動作で股関節の症状が悪化。周囲から共倒れになるわよと心配され、自宅から歩いて数分の介護施設に預けることにしました。3年前のことです。

 今、主人は私のことがわかりません。でも入籍を後悔はしていません。明治生まれの両親はほとんど介護することなく旅立ちましたし、子どもも育てていません。一度はこうして誰かのお世話を、という運命かなと思います。

 人生は晴れの日ばかりではありませんよね。でも、仕事を辞めようと思ったことは一度もありません。曇りや雨の日も、マイクの前に座るとスイッチが入ります。アナウンスの仕事が好きなんですね。こうして55年、やってきました」

 4月、番組は32年目に入った。

「私がアナウンサーとして終わるのはこの番組と決めています。

 今は一日一日が愛おしい。マイクの前に座っている時、ふと我に返って、ああ、幸せだなあと思う瞬間があります。今日、番組が終わったとしても『ああ、やり切った』と言えるように。そんな思いでニュースを読んでいます」

(ノンフィクションライター・三宅玲子)
 
 

夫が先に逝ったなら、やっと私の人生がきたと叫びたい

2021-09-17 12:00:00 | 日記

下記は婦人公論.jpからの借用(コピー)です

人生に「もしも」はないけれど、妄想せずにはいられない。この足枷さえなければ、新しい生き方、私だけの場所へ飛び出せるのに。81歳の夫と暮らす田代さんの夢は(「読者体験手記」より)
病を生き延びた夫は、健康を気づかうように
私がまだ40代の頃だったと思う。近所の大金持ちのご主人が病気で亡くなり、その四十九日も済まぬうちに奥さんが家で首を吊って後を追ったのだ。それを人から聞いた私は、なんてもったいないと思った。ご主人は大金を残し、あの世に旅立ったというのに。これからいくらでも自由に生きられるだろうに。
そこへいくと、私と夫は老夫婦になっても狭いアパートで年金を頼りにその日暮らしである。もしあの年、夫が病との闘いに負けて逝っていたなら、今頃私はどうしていただろうと考える。長年、ともに暮らしていたのだからそりゃあ悲しいけど、同時にホッとしていたに違いない。
夫はよほど悪運が強いのか、何回も死線をさまよったが、何ごともなかったかのように平然と生き延びている。さすがに足腰は弱ったが、真夏の暑いさなかも朝晩と散歩に出かけていた。そして近くの公園で鉄棒体操をする。戻ってくると「オイ、西瓜出してくれ」とか「あの高いヨーグルトを二つ持ってこい」とか私に命令する。
扇風機だけが回る部屋はムンムンとしているので、私は化粧もせず、まだら汗の顔で「ハイよ」と夫の注文に応じる。食べ終わった夫は一番風通しのよい場所に移ってしばし居眠り。汗でかゆくなった顎のあたりをボリボリきながら私は夕飯の支度をする。
夫はブロッコリーやトマトが胃がんに効果があると何かの雑誌で知って、毎食それを取り入れるようになった。もう81歳なのだから、そうまでして食事に気をつかわなくてもいいのに。
ちゃぶ台を庭に放り出し、机を新調して
もし夫が先に逝ってくれたら、やっと私の人生がきたよ~、と空に向かって大声を出してしまうだろう。お金はたんまりなくっても、私はもう自由!! どこへでも一人で行くことができるんだ。
まずしたいのは墓参り。両親、兄たち、なんといっても息子の墓前に報告する。おまえの父ちゃんはやっと逝った。これから私のために残りの人生を楽しむよ、と。その後私は夫の物を全部、ゴミ袋にポンポンと放り込んで固く紐でくくるのだ。イヤな思い出しか残っていない夫の物なんてすぐ粗大ゴミに出そう。こんなの引き取れないよと業者の人が言ったなら、お金をたんと出してでも引き取っていただく。
ほーら、この狭い部屋は私のすてきな部屋になる。灰色にくすんだカーテンだって、真っ白なレースに取り換えて。いくら私がカーテンを替えようと言っても、そんな金があるならオレによこせと言った夫。でももう邪魔されない。
並んで食事したちゃぶ台も思い切り庭に投げ捨て、そこへ花の鉢を置く。ほしかった勉強机は新しいのを買おう。子どもの頃から、私の机はきょうだいのお古だったから。今の狭い六畳の部屋でかまわないが、机だけは手に入れたい。いつもちゃぶ台で手紙を書いていると、夫は「ナニさ、文豪ぶって」と恥ずかしくなる暴言を吐くんだもの。
友人たちへの手紙には、「やっとこ一人になれました。これからはいつでも会えます。少しくらい帰りが遅くなっても誰も叱る人なんていません。私の部屋にも遊びに来てくださいね」と書き、ポストに何十通も投函する。
落ち着いたらお茶会を催すつもりだ。気取ってお紅茶と上等なクッキーを用意して。夫への長年の恨みを話して……いいえ、そんな話題、素晴らしいお茶会には似合いません。私は小花模様のロングドレスを着て、みんなにこれからの私の夢を語るのです。集まってくれた友人や妹に「よかったね。これからは貴女の好きなだけ本を読み、手紙を書き、旅行をしてね」と言われるのだ。
友人からのハガキはいつも外国旅行や温泉への旅の思い出をつづったものばかり。私だってたまには旅行をしたい。そして「温泉で羽を伸ばし、旅先でいい男に出会ったわ」とつづるのだ。
旅の記録がまとまったら、出版社に持ち込もう。それを本にしたらスゴク売れて金がわんさか入ってきたりして。そしたらまたみんなを集めてさらに盛大なお茶会をする。高価なカップに馥郁とした紅茶を。
集まった人たちが「やっと貴女はデビューしたのね!」と涙ぐむ。私は今まで苦労を重ねたことはおくびにも出さず、悠然と微笑むのだ。「ありがとう」とみんなのテーブルを回り、「お代わりはいかが?」と優雅に振る舞う。
となれば、この狭い部屋でなく、どこかのマンションにでも移ろうかしら……と思案にくれる。
しかし現実は厳しい。
私も齢76、もうじき喜寿だ。貯金も底をつきかけている。この歳でパートの仕事をもち、1日3時間、月に5万円くらいの収入がある。でも年金とその5万円では、やっとの生活だ。そのうちパートも打ち切られるかもしれない。
どうにか私が元気なうちに夫に逝ってもらいたいのが本音だ。そうとも知らずあの人は気そうな顔をして自分でスーパーまで行き、買ってきたお寿司をパクついている。私は夕べの残りの冷や飯に湯をかけてお茶漬けの予定だというのに。それにしてもなんとさみしい予定だろうか。
それでも私は一人暮らしを諦めぬ。どっちかが先に逝くのであれば、私ではないはずだから。諦めずに体を鍛えて生きてゆく。
パート・76歳


小室圭さん NY就職活動で用いた「経歴書」に虚偽の疑い

2021-09-17 11:00:00 | 日記
下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です。
 
小室圭さん NY就職活動で用いた「経歴書」に虚偽の疑い


篠宮家の長女・眞子さま(29)との結婚問題に関する報道が相次ぐ小室圭さん(29)。年内結婚の前提となっているのが、〈小室圭さんが米NY州の司法試験終了 現地法律事務所で就職へ〉(NHK、7月30日付け)に代表される「就職先が内定し、結婚後の生活基盤が整った」旨の報道だ。だがニューヨークでの就職活動のプロセスを検証したところ、現地の大手法律事務所などに提出されている小室さんの「経歴書」に虚偽の内容が含まれている疑いがあることが「週刊文春」の取材で分かった。就職の目途が立った小室圭さん 
 ある大手事務所に届いた小室さんの経歴書について、同書類を見た人物がこう証言する。
「小室さんの経歴は、国際基督教大学(ICU)に在学中の2012年9月から2013年6月まで、交換留学でUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に通ったとなっています。経歴書には、同じころに電通アメリカでインターンをしていた、とも記されていました。勤務地はカリフォルニアで、マーケティング業務をしたとのことでした」
 電通アメリカは、NYに拠点を構える電通のグループ会社だ。だが、電通グループに小室さんのインターン歴について聞くと、こう回答があった。
「そのような事実は確認できませんでした。また、当時の電通アメリカには、カリフォルニアに事務所は存在しておりません」日本のクラブで友人と遊ぶ小室さん
 さらに、電通幹部にも取材すると、こう首を傾げる。
「学生のインターンは、内定者か、よほどのコネがなければ取らない。電通アメリカの下請けなどで働いていたのを、“盛って”書いているのかもしれません」
 長谷川裕雅弁護士が指摘する。
「とくにアメリカでは一般的にインターン歴を重視する傾向があるので、それを“盛って”書いていたとしたら悪質です。虚偽が発覚して、法律家としての信頼に堪えないと判断した場合、事務所側が解雇する可能性も十分考えられます」フォーダム大での小室さん
 小室さんの代理人を務める上芝直史弁護士に質問状を送ったが、期限までに回答はなかった。
 9月15日(水)16時配信の「週刊文春 電子版」および、9月16日(木)発売の「週刊文春」では、小室さんが経歴書に記した日本のメガバンク勤務時代の表彰歴や、「米国の大手事務所で昨夏インターンが決まったが、コロナでキャンセルになった」旨の説明に関する疑義、そして経歴書の添え書きに記された眞子さまとの関係など、小室さんのNY就活の詳細について、5ページにわたって報じている。
 
追記:上記の事態ですので皇室関係はしばらくお休みさせて頂きます。

眞子さま駆け落ち婚で"母の評価"が逆転、紀子さまと雅子さまの「子育て」シーソーゲーム

2021-09-17 10:00:00 | 日記
下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

秋篠宮家の長女、眞子さまと小室圭さんの結婚報道で、賛否両論の議論が巻き起こっている。その一方で、武蔵大学社会学部教授の千田有紀さんは「眞子さまの結婚騒動が、母である紀子さまの評価にも大きく影響している」という――。
紀子さまの評価がどう変わるのか
4年にわたる眞子さまの婚約騒動に、なんとか結婚というかたちで、目処がつきそうである。とりあえず、ホッとした。
それと同時に私の頭に浮かんできたのは、「この結婚騒動が決着したら、紀子さまの評価はどう変わるのか」という疑問である。
2006年に悠仁さまを出産されてから、紀子さまは「国民が心配している後継ぎ問題を解決した」と、人気がうなぎのぼりだった。「皇室における理想の女性」と褒めたたえられてきたが、眞子さまのこの婚約騒動から「子育てを失敗した」と評価が変わりはじめた。
一方、2019年に今の天皇皇后陛下へと代替わりしてからの雅子さまの華麗な「皇室外交」デビューに、国民は「さすが雅子さま」と舌を巻いた。皇太子妃時代には、「そんなにまでして海外に行きたかったのか」と批判にさらされてきたことなど、まるでなかったかのような評価の変わりようである。
雅子さま人気と紀子さま人気の関係
皇室をめぐる反応で興味深いのは、雅子さまと紀子さまの人気がシーソーゲームのような関係にあることだ。「あなたは雅子さまが好き? それとも紀子さまの方が好き?」と聞くと、とくに私の年代の女性たちは、非常に饒舌になる。そして、雅子さま派、紀子さま派と、女性のなかでは、はっきりと「贔屓ひいき」が分かれる傾向がある。「どちらも好き」という人は、意外に少ない。
おそらく私たちは、このお2人に「女性はいかに生きるべきか」という女性のロールモデルを見出しているのだろう。そもそもこれまで、いち宮家の妃でありながら、紀子さまほどに注目された人はいない。それはまず、紀子さまの結婚の事情が大きく影響している。
「3DKのプリンセス」紀子さま
昭和天皇の喪中という暗い時期に、皇太子の弟が結婚するというニュースは、当時、非常に明るい話題として受け入れられていたように思う。紀子さまが、基本的にはノーメークにも見えるような装いであるとか、実家の川島家にはテレビがないとか、職員宿舎に住んでいらっしゃるとかいうことが、バブルの狂乱の時代のなかでとても新鮮に映った。「キャンパスの恋」で出現した、若く清楚な女性に皆は色めき立ち、「紀子さまスマイル」は皆を虜にした。
戦後、美智子さまが初めて「平民」から皇室に入り、「開かれた皇室」のシンボルとなった。しかし、軽井沢での「テニスコートの恋」は、庶民の生活からはかけ離れた、仰ぎ見るようなものであったし、美智子さまは平民といえども、立派な社長令嬢であった。
それに比較すれば、「3DKのプリンセス」と呼ばれた紀子さまは、本当に私たちと地続きの、庶民と皇室を結ぶ絆だったといえよう。
そうしたなかで、若い夫婦の結婚や子育てのニュースは、テレビや週刊誌をにぎわした。2003年ごろの雅子さまのご静養以降、女性週刊誌の巻頭の皇室ニュースはめっきり減ったが、雅子さまのご結婚までは、女性週刊誌の巻頭は、美智子さまと秋篠宮家の話題で占められていた。当時の皇太子の結婚がなかなか決まらないのは、「紀子さまが完璧すぎるからだ」という報道すらあったと記憶している。
「外務省勤務のキャリアウーマン」雅子さま
難航した「皇太子妃選び」が雅子さまで決着がついたとき、国民からは「こんなすごい人が」とため息が漏れた。皇太子妃の条件として、容姿端麗、皇太子より身長は低いこと、皇太子妃に上司がいるのは不適切であるから就労経験はないこと、外国語が堪能で、楽器が得意で、もちろん親族にも問題のない人、等というものがあった。雅子さまは、外交官だった父親の転勤についていき、海外暮らしも長い。アメリカの名門ハーバード大学を卒業し、東大に学士入学し、英語を初めとする外国語を何か国語も使いこなしている。「こんなすばらしい人が皇太子妃に」と国民は熱狂した。
さらに雅子さまは、外務省に勤務しており、その時点では皇太子妃候補の条件からは外れていたバリバリのキャリアウーマンだった。「雅子さまが皇室に入るのはもったいない、いや、雅子さまなら伝統を変えてくれるのだ」という議論が白熱した。紀子さまに代わって、今度は雅子さまが、皇室における「新しい女性」の象徴となったのである。
明暗を分けた“お世継ぎ”問題
就労経験なく若い時に学生結婚し、子育てに励む紀子さまと、外務省に勤務していたバリバリのキャリアウーマンだった雅子さま。この2人の生き方は正反対に見え、「『女性の生き方』はどうあるべきか」という問題を、それぞれに仮託しやすいのである。
しかし、なによりも雅子さまにとって誤算だったのは、すぐにお子さまに恵まれなかったことだろう。皇室に入っていなければ、「DINKs(共働きで子どもを持たない夫婦)という生き方もある」と言われたかもしれないが、あらためて皇太子妃の役割は、まず子どもを産むことであると気づかされた。それを浮き彫りにしたのが、雅子さまと紀子さまの存在である。
報道から察するに、雅子さまは自分の保身をあまり考えない、のんびりとした方なのだろう。上皇陛下が「(お世継ぎを)国民が待っているからね」とお声がけされたときに、雅子さまが気色ばんだという報道があった。それは一般の女性の偽らざるを本音であるし、端的にいえば、一般社会では「マタハラ」である。
しかし、“お世継ぎ”を産むことは、実は皇室での雅子さまの地歩を固めることにもなる。計算高いひとなら、まずそれを考えるだろう。子どもを望まれながらも、そういう思考法をされない雅子さまは、実に人間らしい方なのだという印象を受ける。
皇室で「男児を生む」ということ
一方、紀子さまは、かつて「どうしたら男の子を産めるのか」と主治医に聞いたと報道されていた(のちに、紀子さまの発言ではなかったと訂正された。が、そういう発言をされたと聞いても、違和感はない)。男児が不在の皇室で、男の子を産むことは、母としての自分の存在を確かにするものである。事実、紀子さまが悠仁さまを産んだことで、再び紀子さまの存在感は増した。
紀子さまが浮き彫りにしたのは、いくら学歴があって華麗な経歴があったとしても、少なくとも皇室のなかでまず女性に求められるのは、男児を産むことだという、身も蓋もない、胸の痛む事実である。
このまま「やっぱり女性の本分は子どもを産むこと」ということで、紀子さまが逃げ切るのかと思いきや、どんでん返しとなったのが、眞子さまの婚約騒動である。
紀子さまの子育て、雅子さまの子育て
「秋篠宮家の子育ての失敗」「このような宮家から、将来の天皇が出せるのか」「紀子さまと悠仁さまとの親子密着」……。婚約騒動によって、眞子さまが学習院大学を進学先に選ばなかったこと(「もし学習院に行っていれば、眞子さまは小室さんと出会わなかったのに」)を含め、紀子さまの子育てがやり玉に挙がった。
それに対して、雅子さまは華麗な皇室外交が評価され、愛子さまがすくすくと育ち、現在学習院大学で日本文学を専攻されていることが評価されている。国民の間では、「ぜひ、愛子天皇を」という待望論も盛り上がる。雅子さまは、2019年の即位の関連行事で、大粒の涙を流されていたが、それすら「人間らしい皇后さま」という評価を受けた。雅子さまが人前で感情を露わにすることは、かつては批判の対象となっていたのに。
つきまとう「母」の役割への評価
女性に期待される、子ども、とくに男児を産むという役割では、紀子さまは圧勝した(断っておくが、不妊は女性の側に原因があるとは限らない)。しかし、子どもを産むことだけが、母の評価の対象ではない。子育てという側面で評価されれば、今度は雅子さまの圧勝のように見える。
良くも悪くも、皇室に入った女性たちは、「母」という役割の評価から逃れられない。それは実は、私たちの年代の女性たちに付きまとってきた評価でもある。だから私たちは、雅子さまや紀子さまの報道に熱狂するのではないか。
こういう話を、私が教えている大学の学生たちにすると、「皇室には関心がなかったからまったく知りませんでした」「おばさんたちは、皇室報道が好きですよね」と言う。彼ら、彼女らは、皇室にはまるで関心を持っていないことがわかる。今の若い世代には、母であることの呪縛や、女はどう生きるべきかというプレッシャーが少ないからなのか。それとも年代が上がればまた、母親であることの圧力に、彼らも直面するのだろうか。

武蔵大学社会学部教授
1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、武蔵大学社会学部教授。