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「尿臭がすごいから芳香剤を買ってこい」劣悪介護施設が家族を罵倒した、ありえない言葉

2021-09-19 15:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

がん闘病中の母親をケアするべく50代独身女性は要介護の父親をある施設に入れた。ところが、これが大ハズレ。父親が失禁していてもズボンや下着を取り替えず、「洗濯では臭いが取れないので、寝具をすべてクリーニングへ」「尿臭がすごいから芳香剤を買って」と命じるなど、気遣いや思いやり、プロ意識のかけらもない言動のオンパレードだった――。
「余命半年」70代母は甲状腺がんのあと、大腸と肺のがんがみつかった
東北地方に住む南野朱里さん(仮名・50代前半・独身)の40代は壮絶なものになった。
父親は短期間に3度の転倒で頭を打つなどして要介護状態となり、会話もおぼつかない。母親は甲状腺がん手術が成功したかと思いきや、直後に大腸がんや肺がんも見つかり、余命半年の宣告を受けた。
ダブル介護に直面した南野さんは、77歳になった父親の施設入所を検討することにした。すでにデイサービスは利用していたが、もともと気難しい性格で、75歳の母親以外の世話をなかなか受け入れない。その母親が大腸と肺のがんで入院するとなると、南野さん一人で父親の介護を自宅でするのは不安だった。
母親が入院するまでに入れる施設を探そうと思い、父親のケアマネジャーに相談すると、「ちょうど小規模多機能ホームに1室空きが出た」という。渡りに船、と南野さんは即入居の申し込みをした。
「苦痛の始まり」要介護の父が入った介護施設は完全なハズレ
「当時の私は、介護施設にはどんな種類があって、どういう違いがあるかなど、全く知らないまま、父に合っているかどうかまで考える余裕もなく、ただ空いている所に入れてしまいました。私は施設が決まり、安心したのですが、それが苦痛に満ちた生活の始まりになるとは、想像もしませんでした」
南野さんが父親に「お母さんががんになって、手術しなきゃいけないの。私一人ではお父さんを看れないから、施設にお願いすることになるからね」と言うと、父親は「いつまでだ?」と訊ねる。南野さんは、「お母さんが良くなるまで」と答えた。
母親は、2018年7月に大腸がんを、9月には肺がんの手術を受けた。「リンパにも転移があり、人工肛門になる可能性もある」と言われていたが、リンパの転移は大腸を多めに摘出することで解決し、人工肛門も免れた。
しかし、術後の傷が痛むらしく、気丈で明るい母もさすがに「痛い痛い」と時々こぼした。肺がんは左右に1つずつの転移があり、当初は両方とも摘出する予定だったが、片方は残し、抗がん剤治療に変更。最初の1週間は入院しての治療だったが、次は通院で3時間。診察や血液検査もあるため、一日病院漬けだ。その後、だんだん3週間に一度、1回30分程度のペースで治療を続けることになった。
「娘さんから言い聞かせて」「尿臭がすごい、芳香剤を買って」
一方、2018年6月に小規模多機能ホームに入所した父親は、介護拒否が激しくなっていた。要介護度は当初の2から3になった父親は、入所してからトイレの失敗が増え、施設の職員がズボンや下着を取り替えようとすると、激しく拒否。入浴に関しても同様だった。
南野さんを困惑させたのは介護施設の職員の対応だった。ことあるごとに「娘さんから言い聞かせて」「尿臭がすごいので、芳香剤を買ってきて」と電話をよこし、ときには、父親本人に電話をさせることまであった。
当時、施設入所が初めてだった南野さんは、言われるままに芳香剤を買ってきて、職員に頭を下げた。
「父は、恥ずかしいという気持ちだけは、最後まで抜けきれずにいて、トイレや入浴は、母が手伝うのさえ嫌がっていました。私も、今なら施設の対応がおかしいとわかりますが、その頃は初めてのことだらけで、全てこちらが悪いんだと思っていました。でも、介護職の友人に聞いたら『何を言ってるのよ、プロの介護職員がそれくらいできないでどうするの』と、あきれ顔。家族に対する気遣いや思いやり、プロ意識のない、何でも家族に頼る施設でした……」
施設の職員は、父親の介護拒否がひどいからと言って、父親が失禁していてもズボンや下着を取り替えようとはしない。南野さんと母親が週に1回面会に行くと、いつも部屋は尿臭がきつく、「洗濯では臭いが取れないので、寝具をすべてクリーニングへ出してください」と施設での洗濯を断られてしまう。南野さんが着替えを頼んでも、「無理やりやると虐待になる」と言って取り合わなかった。
小規模多機能ホームの職員の対応に苦慮した南野さんは、別の施設を探し始め、母親のケアマネジャーから「評判が良い」と聞いたところを見学したうえで申し込み、空きが出るのを待った。
2019年3月末、母親のケアと小規模多機能ホームの対応に追われ、南野さんは悩んだ末にパートを辞職することにした。
やむなく移った有料老人ホームもハズレ「退去してください」
4月には、申し込んだうちの1つの有料老人ホームに空きが出たので、そちらへ父親を移すことに。ところが、その施設もハズレ。小規模多機能ホーム同様かそれ以上に、父親に関する苦情を南野さんに言ってくる施設だった。
「母ががんになったため、自宅で看ることができないから預けていると事情をわかっているはずなのに、入所翌日から毎日のように施設から苦情の電話がかかってきて、その度に施設へ飛んで行かされていました。こちらが何かを言うと必ず反論され、最後には『うちではもう看られないので退所してください』と言われました。介護のプロとしての責任や仕事を放棄しているように見え、心ない職員の対応は理解に苦しみました」
父親は、「いつまでここにいればいいんだ!」「家に帰りたい!」「俺は一人で何でもできる!」と繰り返す。それは施設の職員に対しても同じようで、父親がそう言って暴れると、施設の職員は「すぐに来てなだめてください」と電話をよこした。
「父がこういうことをしたとか、言うことを聞かないとかを私たち家族に伝えて来るのですが、父がそうなるには、その前段階があると思うのです。その説明は一切せず、自分たちが父からされたことでこちらを責められても、家族としてはただ謝るしかありません」
やはりこの施設でも「家族から言い聞かせてください」と言われた。
父親は小規模多機能ホームにいた頃より状態がさらに悪くなり、要介護4になった上、些細なことで興奮し、手がつけられなくなっていた。そして3週間目には、施設側から「退去してください」と言われる。「次が決まっていない」と伝えても、施設側は、「ここまで症状が進んでいるとは、情報不足だった」と言って取り付く島もない。これには普段温厚なケアマネジャーも「情報があるなしの問題ではない!」と憤慨。何とか次が見つかるまで時間をもらうことができたが、施設探しは難航した。
困り果てた南野さんは、父親が以前、脊髄梗塞になったときから10年近く世話になっている主治医に相談。主治医は、母親ががんの治療中であることも把握している。「3カ月間の入院中に、次の施設などを探してくださいね」と断った上で、主治医は同じ病院の精神科の受診を勧め、父親を精神科へ連れて行くと、その日のうちに入院となった。
大腿骨骨折の母親「お父さん、私、こんなんなっちゃったわ〜」
精神病院に入院した父親は、まずは薬で興奮状態を抑えられた。面会に行くと、寝ていることが多くなり、南野さんは「これで良かったのか」と不安になる。しかし徐々に父親は落ち着きを取り戻してきた。
いずれもハズレだった小規模多機能ホームと有料老人ホームでは、衛生状態も良くなかったことが、この入院で発覚。医師や看護師、病院のソーシャルワーカーにこれまでの経緯を話すと、「そんなことはありえない」と一様にびっくりされた。
2019年6月。自宅で寝ていた母親が、起き上がるときにバランスを崩し、後ろに倒れ、そのまま起き上がれなくなる。ちょうど南野さんが不在だったため、母親は携帯電話で南野さんに連絡。急いで帰ると、母親は横たわったままで動けず、痛みも訴える。南野さんが救急車を呼ぶと、運良く父親が入院している病院へ運ばれた。そこは母親が定期的に抗がん剤治療を受けている病院だったので、都合が良かった。母親は大腿骨を骨折しており、そのまま入院になる。
父親に、母親が骨折して同じ病院に入院したことを告げると、それまでぼーっとしていることが多かった父親が、「会いに行きたい」とハッキリ言う。南野さんはすぐに看護師の了承を得て、父親を車椅子に乗せた。
母親の病室を訪れると、「あらお父さん、私、こんなんなっちゃったわ〜」と母親。すると父親は、何も言わず、ただポロポロと涙を流した。それは南野さんにとって、初めて見る父親の涙だった。
父親が精神科へ入院している間に、南野さんは施設探しを進めていた。パンフレットを取り寄せ、問い合わせをし、10カ所以上見学。しかし、入居の可否を尋ねた施設からは音沙汰なし。南野さんは内心焦っていた。
そんな中、2つ上の姉夫婦とケアマネジャーを交えて話し合いの場が持たれた。
南野さんが、「父にとって一番いい施設はどんなタイプになるんでしょうか?」と訊ねると、ケアマネジャーは、「特養かグループホームなのですが、現状、空きがありません」と顔を曇らせる。すると、「多少金額がかかっても構いませんので、空きがあるところを探していただけませんか?」と姉が言った。
3つ目に選んだ施設は…これが良心的な最高の施設
その翌日の昼、ケアマネジャーから電話が入る。どうやらケアマネジャーは、朝から事業所の職員総出であらゆる施設の空き情報を片っ端から調べてくれていたところ、グループホームで1カ所だけ空きがあることが判明。「これからすぐに2人で見学に行きましょう!」と連絡をくれたのだ。
そこは片道1時間ほど。ケアマネジャーは、父親や南野さんたち家族の状況を説明する資料や、必要な書類などをそろえて万全の態勢を整え、車で迎えに来てくれた。地図を頼りにグループホームへ向かう道すがら、南野さんはケアマネジャーが尽力してくれた経緯を知った。
「私にはこんなに頼もしい味方がいる。このとき初めて、自分の大変さばかりに目が行き、自分だけがつらいと思っていたことを恥じました……」
到着すると、すでに施設は夕食前の忙しい時間帯。それでも職員たちは快く受け入れ、隅々まで見学させてくれた。そのうえで、これまで小規模多機能ホームや有料老人ホームでの経緯を話すと、
「大丈夫ですよ。ここでは過去にこちらから出て行ってくれと言ったことはありません。利用者さんに叩かれたり、壁に穴を開けられたりということはありましたが、介護施設では日常茶飯事。うちでは職員も利用者さんも、怪我人が出ないように最善を尽くします。出て行けと言われても、困ってしまいますよね?」
優しく語りかけられ、南野さんは必死に涙をこらえた。それでも、
「いろいろな方が入居されていますが、私たち職員も学ばせていただいています。日々、すべてが学びです」
とダメ押しされると、もう涙は止まらなかった。2019年7月上旬、78歳の父親はグループホームへの入所が決まった。
「死因は肺炎の疑い」父親は78歳で静かに息を引き取った
同じ7月末、骨折で入院していた母親が退院。要支援1と認定された母親は、8月からデイサービスへ行き始めた。
父親に良いグループホームが見つかり、母親もデイサービスに楽しそうに通ってくれる状況に安堵し、夏の疲れが出たのか、南野さんは体調を崩した。病院を受診し、点滴を打ち、薬を飲んで安静にしているにもかかわらず、その日の夜には39度を超える高熱を出し、布団から出られなくなる。このときばかりは立場が逆転し、母親はまだ思うようには歩けない足で、買物や食事の支度などを代わってくれた。
車で片道1時間ほどの距離にある父親のグループホームへは、父親の受診日に合わせて会いに行った。南野さんは、だんだん表情がなくなっていく父親の様子が気がかりだったが、いつも受診が終わる頃には表情が戻り、嬉しそうに母親と話す父親を見ると安心した。
敬老の日に行われた施設での敬老会では、父親は代表挨拶をこなし、「朱里も踊ってきたら?」と久しぶりに南野さんの名前を呼び、楽しそうだった。
「以前、小規模多機能ホームにいた頃、父は『誰も自分を必要としていない。誰もかまってもくれない』と寂しそうに言っていました。『家に帰りたい』と言って聞かず、大喧嘩になったこともありましたが、グループホームに移ってからは、暴れることもなくなり、介護拒否もありません。当時は私自身がいっぱいいっぱいになっていましたが、父が一番大変な思いをしていたんだなあと、申し訳ない気持ちになりました」
2019年10月初旬。父親は突然体調を崩し、施設から病院を受診。点滴などの処置をしてもらったが、その後は食事も摂らずに横になっていた。何度か職員が様子を見に巡回していたが、深夜に呼吸が止まっていることに気づき、病院へ救急搬送されたが、死亡が確認された。78歳だった。
「深夜に連絡をもらい、急いで施設に到着すると、父の身体はまだほんのり温かく、顔は微笑んでいるように穏やかでした。死因は肺炎の疑いとなっていましたが、眠るように静かに亡くなったようです」
父と母のW介護「何度も消えてしまいたいと思いました」
グループホームに移る前、父親はポツリと「お母さんの言う通りになった。もう動けなくなったから、家には帰れないな……」とこぼしたことがあった。
「父はずっと、身体が不自由になった自分を認められずにいました。いつも『俺は何でもできる!』と言って私たちを困らせました。ろくにリハビリをせず、母に頼りっきりで、自分は何もしなかったことから出た後悔の言葉だったと思います。頼りの母もがんになり、嫌でも誰かのお世話にならないと生きていけなくなった状況を、ようやく自分の中で受け入れた瞬間だったのでしょう」
施設の職員の対応が最悪だった小規模多機能ホームと有料老人ホームを父親が利用していた約2年間は、南野さんにとってもつらい期間だった。
「父は言うことを聞いてくれない、施設はひどい対応、毎日施設から電話が来て、父の苦情処理に追われ、仕事を辞めたのに自分の時間は全くない。そして母のがん治療……。父は、一番介護をしている私に怒りをぶつけてきました。それがとても悲しく、つらかった。何度も消えてしまいたいと思いました」
抗がん剤治療で母親が急激に衰える中、実姉ががんで死去
2019年12月。76歳の母親は、抗がん剤治療の副作用が強く出て、味覚障害のため食欲がなくなり、皮膚が真っ赤になって皮がむけ始める。精神的にも落ち込み、一日に何度も転倒を繰り返すようになった。
だんだん寝つきも悪くなり、全く眠れなくなったため、病院で睡眠薬を出してもらう。母親が眠れないときに付き合っていた南野さんも眠れなくなってしまい、母娘そろって睡眠薬を服用するようになった。
父親が亡くなってから、かれこれ2カ月ほど姉から全く連絡がなかった。母親が抗がん剤の副作用で起き上がれない状態になり、母娘そろって不眠になっているというのに、連絡さえよこさない姉に南野さんは憤慨。すると母親は、「きっと仕事が大変なのよ」と姉をかばう。これにはさすがに南野さんも腹が立ち、母親に怒りをぶつけてしまう。
その翌日、音信不通になっている姉に違和感を抱き、母親が電話をかけた。すると姉はその日のうちに夫婦で実家を訪れ、約10年前に乳がんになり、左胸を全切除し、ホルモン療法を続けていたが、7〜8年再発していなかったため、心配をかけたくなくて言わなかったと話した。しかし2019年6月に再発がわかり、すでに肝臓と骨に転移していることを告白した。
「姉はウイッグを取ると髪の毛がなく、話の内容からも、もう余命幾ばくもないということがわかりました。今なら、がんだったから、父親が寝たきりになった際に『金銭的な援助しかできない』と言ったのかなとわかりますが、当時は全く知らなかったため、言葉を失いました」
2020年1月。前月には家の中ではかろうじて歩けていた母親が、ほとんど歩けなくなっていた。食欲はなくやせ細り、睡眠導入剤なしでもひたすら眠り続ける。
不安で落ち潰されそうになった南野さんは、主治医に相談。すると精神科を紹介され、10日には、母親の精神科への入院が決まった。
後日、「検査の結果、抗がん剤治療の副作用によるストレスで、急激に衰えはしましたが、認知症ではありません。リハビリすれば、歩けるようにはなります」と医師から説明がある。南野さんは最悪の事態を想定していたが、胸をなでおろした。
抗がん剤治療を休止し、味覚を取り戻してきた母親は、毎日のように携帯電話で南野さんを呼び出す。お喋りも復活し、話すことはほぼ食べ物の話。しかし糖尿病のある母親は、食べたいものを自由に食べられない。それでも南野さんにとっては嬉しい悲鳴状態だった。
3月に母親は無事退院したが、姉は脳へのがんの転移が発覚。4月に入ると、義兄が姉の様子をメールで伝えてくるようになった。母親は、姉に会いに行きたい一心で歩行のリハビリに取り組んだが、世の中はコロナ禍で面会許可がなかなか下りない。
仮に許可が下りても、がんで弱っている姉に会いに行くことははばかられた。南野さんは、「コロナが収束したら会いに来てね」と姉が言っていたという、義兄からの伝言を母に伝えた。
4月末、乳がんのため姉は死去。50代半ばだった。
さらに8月。義兄(姉の夫)も職場で倒れ、そのまま死亡。死因ははっきりせず、「循環器系疾患疑い」と死亡診断書には書いてあった。
たったひとりのW介護を支えてくれた恩人とは
南野さんは、父親の仏壇に毎日手を合わせる。この仏壇を買いに行ったのが、母親と姉と3人でした最後の外出だった。
現在母親は、経過が良好なため、抗がん剤治療は行っていない。糖尿病の通院は欠かせないが、つえがあれば歩けるまでに回復。南野さんは約3年前にパートも辞めてからは、かねて夢だった絵手紙教室を実家で開き、2人の生徒を教えている。
10年以上も両親の介護をひとりで続けてきた南野さんだが、感謝したい人も多いという。
「これまで母の弟夫婦には、父が卓球で倒れた頃から随分お世話になりました。私は車の運転ができないので、叔父が病院までの送迎を手伝ってくれて、本当にありがたかったです。そして、母のケアマネジャーさんにはとても救われました。私の愚痴や相談を気が済むまで聞いてくれて、最後には必ず、『大丈夫だから』『何とかなるから』と励ましてくれました」
最もつらいとき、南野さんは、「自分ばかりがつらい」「自分は一人で頑張っている」と思い込んでいた。しかしケアマネジャーは、「一人じゃない。みんなが助けてくれているから今がある」と教え諭してくれた。
「介護は、介護者が一人きりでは破綻します。人は一人では生きていけないし、必ず誰かにお世話になって生きています。それを冷静に理解できていれば、『一人で介護しよう』とは思わないのではないかと思います。私は初めから、『一人で』とは思っていませんでしたが、それでも精神的に追い詰められました」

筆者はこれまで30例以上、ダブルケアやシングル介護の当事者を取材してきたが、いずれのケースもキーパーソンに負担が偏っていた。南野さんの場合は姉が介護を拒否したわけではなく、南野さんの生活費や実家のリフォーム代を負担するなど協力的だったが、やはり主に介護を担う人にかかる身体的・精神的負担を分散しなければ、最悪の場合は総倒れとなり、家族全員が不幸な末路をたどりかねない。
南野さんはこう話す。
「私の経験上、親が介護者の言うことを聞かない場合が一番困りますね。特に父親に多く、介護している母親の方が先に倒れそうなケースをよく見ます。友人の両親もそのケースで、私は、知っている限りの知識を伝えたり、良い病院や施設を教えたりしていますが、やはり家庭環境が違うと、別の家庭環境で育った者がアドバイスしても、なかなか聞き入れてはくれません。なので、私は友人の話をずっと聞いています。私自身、ケアマネジャーさんに聞いていただいたおかげで、何とか持ちこたえられましたから。電話で4時間話した友人は、とてもスッキリした様子でした」
もちろん、話を聞いてもらうだけでは状況は変わらない。それでも、日頃から積み重なった悩みや愚痴を吐き出せる開放感や、それを受け入れてくれる仲間がいる、「一人じゃない」という安心感が、常に不安やストレス、プレッシャーに晒されている介護者を救うのかもしれない。
「根本的な解決ではないかもしれませんが、(介護のキーマンとなる)相手が『また頑張ろう』と思えるかどうかが、大事ではないかと思います」
旦木 瑞穂ライター・グラフィックデザイナー


「余命1カ月の小学生の娘にプリンを食べさせたい」医師が危険を承知で母の願いを許したワケ

2021-09-19 13:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

大切な人の死期が近づいたとき、周りの人はどういう行動を取るべきだろうか。大阪大学大学院の村上靖彦教授は「治療も大事だが、残された時間でその人の好みや望みを話し合うことが重要だ。それらを尊重することで、奇跡的な延命につながることもある」という――。
※本稿は、村上靖彦『ケアとは何か』(中公新書)の一部を再編集したものです。
寝たきりになってもオロナミンCを飲んでいた祖母
終末期医療に限らず、〈小さな願い〉は人生のかけがえない価値である。日々の〈小さな願い〉の積み重ねが、その人自身を形作る。そこでは、医療の規範に縛られない柔軟性が求められる。以下でいくつか具体例を見ていきたい。
願い事は、しばしば体の快適さや五感に関わる。たとえば「これを食べたい」という望みは誰しも基本的な欲求として持っているもので、それだけに大事な望みである。私の祖母は亡くなる直前、寝たきりになってからも甘いものを好んで食べていた。固形物を口から食べられなくなっても、オロナミンCをいつも飲んでいた。もともと食べることが好きで、私も子どものころはいろいろなお店に連れていってもらったものだ。そうした飲食へのこだわりは、最後まで変わらなかった。
持ち込み食があふれる病室で「食べれるっていいなー」
次の語りは、HCU(高度治療室)に勤める若手看護師が、初めて看取りを経験した場面を語ったものである。私のゼミ生だった岡部まやさんの修士論文から引用する(「急性期領域の若手看護師がもつ死生観に関する現象学的考察」、〔…〕は中略を表す)。
【Bさん】その次の日に一般病棟いって亡くなったんですけど、〔…〕なんか〔心臓のお薬〕もうめちゃくちゃな量いってて。〔…〕で、なんかもう先生も治す治す、みたいな感じではなくって。ある程度ひろーい感じで見れる人だったので。「本人がどうしたいかだよねあとは」っていう感じだったので、「どうしたいですか?」って。
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「どこそこのプリンが食べたいんよー」っていう話とか。「生ものなんやけど、お寿司が食べたくってー」っていう話とかしてて、『病院でお寿司かあ』って思ったんですけど。先生にいったら、「こっそりやったらええんちゃう」みたいな話になって。ははは。
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「家族さんに自己責任で持ってきてもらいねー」って感じで、結局、次の日かなんかに食べてはったみたいで。「何飲んでもいいの」っていわれたって言ってて、部屋にDCM〔拡張型心筋症〕の人にはありえないぐらい持ち込み食がぶわーって置いてあって。本人もそれがすごい満足してて。「食べたいもん食べれたー、食べれるっていいなあー」みたいな。
〈小さな願い〉と悪化リスクとの天秤
食べることは「〈からだ〉とは何か」という問いに直結する。一連の食べる動作や、美味しいという感覚、それらすべてが本人にとっての〈からだ〉となる。それゆえ、「大好きなお寿司を食べて満足する」というようなことが、病気による衰弱と医療による制限のなかで失われかけた自分の〈からだ〉を回復する出来事となる。
末期の心臓病で厳格な食事制限を強いられている最中に、プリンや寿司が食べたいという願い事をされたとき、どうするべきか医療者なら悩むだろう。病気を悪化させるリスクだけでなく、衛生管理の問題などもあるかもしれない。つまり、この場合には食べることが医療と対立している。ケアが医療と乖離するケースだ。
しかし、医師も「食べたい」という願いの重要性を経験上理解している。その願いが叶うことで、本人は「食べたいもん食べれたー、食べれるっていいなあー」と大きな満足を得る。
この「満足」というのは、〈からだ〉を再発見する出来事でもある。本人にとっても家族にとっても、人生の最期に悔いを残さないための大事な経験であろう。一見すると些細なことだけれども、こうした願いの充足は生活上の大きな意味を持つ。
もしも「食事制限があるからだめ」「安全を確保できないからだめ」と言って、ルール優先で切り捨ててしまったとしたら、本人にとって大事な願いが叶えられないままになってしまい、当事者が置き去りになったまま亡くなってしまうことになるだろう。
家族に見守られながらの「お食い締め」
「お食い締め」という実践がある。人生の最期にさしかかって、自由にものを食べることがついに難しくなってきたとき、家族に見守られながら、本人がとりわけ食べたいものを食べるという行為だ。先のお寿司の例もその一種といえるだろう。
お食い締めを実践してきた言語聴覚士である牧野日和の本から、もうひとつ例を引く(牧野日和『最期まで口から食べるために2』、52頁、〔…〕は中略を表す)。
裕子ちゃんは小学3年生のときに神経難病にかかり、胃ろうを造設し禁食になりました。裕子ちゃんは食べたいと訴えましたが、お母さんは「元気になったら食べようね」とごまかしました。そして、裕子ちゃんはみるみるうちに身体機能が低下。胃ろうのまま約2年間過ごしました。〔…〕裕子ちゃんの身体はやせ細り、全身の筋力が衰え、ぐったりとしています。余命1カ月となり、お母さんは焦りました。「また食べようね」とごまかしたことを罪悪感として背負い続けてきたからです。お母さんは訪れた私に、なんとかして最期に口から食べさせてあげたいと懇願しました。
余命1カ月の娘は奇跡的に生気を取り戻した
裕子ちゃんの「食べたい」という願いは医療的な判断によって妨げられてきた。だが、死が近づいてきたとき、そのことに母親は「罪悪感」を感じる。それゆえ、願いを叶えたいと懇願する。母親の懇願は、子どもが食に対して抱いた〈小さな願い〉が、本質的な重要性を持つとう直感(確信)に由来するのだろう。
誤嚥性肺炎のリスクがある際には、通常はタンパク質を食べることは避ける。「すぐに命を落とすかもしれません」と牧野は母親に告げた。しかし、主治医は母親の熱望に背中を押され、母親が食べさせたいと願った手料理のプリンを食べさせることに決める。続く場面を引用する(同、55頁)。
二口めのプリンも一口め同様、のどの奥にゆっくりと落ちていくのが見えました。しかし、すぐには嚥下反射が起きません。「誤嚥したのでは!」と危惧した瞬間です。裕子ちゃんののどがゴクンと反応しました。様子を見守っていたお母さんは、「食べた、食べた!」と言って号泣しました。そして、「裕子もありがとうって言ってます」と言うのです。その言葉で私は裕子ちゃんを見て、魂が震えました。なんと、無反応、無表情だった裕子ちゃんの頬を大粒の涙が大量に流れていたのです。母の言うように裕子ちゃんは食べたかったのです。
すれ違ってきた親子をつなげた手づくりのプリン
プリンを食べたことで「無反応、無表情だった裕子ちゃんの頬を大粒の涙が大量に流れて」、失いかけていた生気を裕子ちゃんは取り戻す。生気とは〈からだ〉そのものだ。このあと裕子ちゃんは主治医の予想を遥かに超えて10カ月間生きた。「食べる」という〈からだ〉の基本的な快と願いが、生を支えた。
こうした実例は、統計的なエビデンスとは異なる次元で重要な意味を持つ。むしろ、内側から感じられる体感であるがゆえに、その重要性は客観的なデータには現れにくく、個別のライフストーリーを通して見えてくる。
村上靖彦『ケアとは何か』(中公新書)
ここでは、母がつくったプリンを食べるという経験は取り替えようのない個別性を持つ。誤嚥性肺炎のリスクを冒してまで、母がプリンにこだわったことには理由があっただろう。裕子ちゃんの人生と母親との関係全体に関わる何かが背景にある。母親がつくったプリンは、裕子ちゃんが元気だったころの好物だったのかもしれない。〈小さな願い〉は、個別的なものであり、それゆえ必然的に人生のストーリー全体を背負う。
大事なことは、食べたいという裕子ちゃんの願いが叶ったことだけではない。願いを叶えることで、齟齬が生まれていた親子がもう一度つながり合ったということも大きな意味を持つ。本当に裕子ちゃんが「ありがとう」と言おうとしたのかどうか、それはわからない。しかし、涙を流すという応答は、母親によって感謝として受け取られた。このとき、〈出会いの場〉が開かれたといえる。
本当の気持ちをごまかし、避け続けるなかですれ違ってきた母娘が、願いを叶えることにより、コミュニケーションを取りなおしている。食べ物という〈小さな願い〉は、実は親子関係全体の焦点であったのだ。〈からだ〉の肯定が〈出会いの場〉を開き、親子関係を再編成したのである。

村上 靖彦(むらかみ・やすひこ)
大阪大学大学院人間科学研究科 教授
1970年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程満期退学。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。


しんどいなと思ったら、堂々と《家事定年》してもいい。88歳・樋口恵子の〈老い〉の知恵

2021-09-19 12:00:00 | 日記

下記は婦人公論jpオンラインからの借用(コピー)です

昨日できたことが、今日できなくなるのが高齢者。家事が面倒になったらどうすればよいのでしょうか。『老~い、どん!』『老いの福袋』などの著書で、高齢者のリアルをユーモアをもって綴る樋口恵子さんは、何をするにもヨタヨタヘロヘロ=「ヨタヘロ期」まっただ中。ある時、「調理定年」「家事定年」したというが……(構成=篠藤ゆり 撮影=村山玄子)
買い物や料理がしんどくなってきた
私は、いま88歳。気づけば女性の平均寿命を超えました。50代の頃、仲間たちと「高齢社会をよくする女性の会」を結成し、2000年には「介護の社会化」を旗印にした介護保険制度を実現しました。最近では新型コロナウイルスが高齢者の生活に与える影響について、厚生労働省の分科会などで話し合っています。
常に書いたり走り回っている私ですが、後期高齢者になってはじめてわかったことがあります。70代までは元気だったのに、80代になったとたん、昨日できて今日できなくなることが増えてきたのです。
たとえば、買い物から帰宅した時、レジ袋を両手に提げたまま玄関からサッと上がるつもりが、框(かまち)に足をひっかけて派手に転んだことがありました。ある時は公共の和式トイレでしゃがんだあと、どうやっても立ち上がれなくなって……。これは思い出しても泣けてきます。
加齢とともに体力が落ち、体を動かすことが難しくなる──こうした高齢者の運動能力低下について、最近はフレイル(虚弱)、サルコペニア(筋力低下)などの名称がついていますが、何をするにもヨタヨタヘロヘロするので、私は「ヨタヘロ期」と呼んでいます。

85歳以上の女性の約28%が低栄養傾向
昔から掃除は苦手でしたが、料理は得意でした。もともと食いしん坊だったからでしょう。70代までは近所のスーパーやデパ地下でたくさん食材を買って帰り、自分好みの料理をつくって楽しんでいました。
ところが80歳を過ぎた頃から面倒になってきたのです。昔ほど空腹感を覚えないせいもありますが、次第に料理もおっくうに。好きなものを適当につまんでいたら、低栄養との診断を受けてしまいました。厚労省の国民健康・栄養調査によると、85歳以上の女性の約28%が低栄養傾向だそうです。
「良妻賢母」の見本みたいだった同世代の知人女性も、「夫が亡くなったあと、自分一人のために料理をつくるのは面倒」と言っていました。家族のために頑張ってきた方はモチベーションを保つのが難しいのかもしれません。
そこで提案です。定年退職と同様に「調理定年」があっていい。さらに言えば、「家事定年」があってもいいのではないでしょうか。
以前、「女性に調理定年があってもよいのでは」と本に書いたところ、「気がラクになった」という反応がかなりありました。真面目な主婦ほど、宅食サービスを頼んだり、お惣菜を買うことに罪悪感を覚える方が多いようです。
でも、夫は定年退職したのに、妻は80歳を過ぎても家事に縛られているとしたら、ちょっぴり不公平。もちろん家事が日々の張り合いになっているなら問題ありませんし、そういう方を尊敬します。でも「いままで続けてきたから」「私しかやる人がいない」なんて言わずに、主婦業も堂々と定年宣言してよいと思います。
樋口恵子さんの新刊『老いの福袋』中央公論新社
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「シルバー人材」「宅食サービス」を活用
「調理定年」「家事定年」を宣言した私は、人の手を借りることにしました。私は84歳で家を建て替え、娘と同居中ですが、彼女は医師として忙しく働いています。いわば大人が2人、シェアハウスで暮らしているような生活。食事時間も違いますし、家事をすべて娘に任せようとは考えませんでした。
そこで、週に2回、私が自宅で仕事をする日に、「シルバー人材センター」から派遣される女性に家事をお願いすることにしました。「シルバーさん」には、買い物、昼食の用意と夕食のつくりおき、掃除などをお願いしています。掃除は、週2回だけで十分。私はもともと神経質ではないですし。さらに、食事に関しては、週に1回、昼夜の「宅食サービス」を契約中。これで週に3日は食事の心配から解放されます。それ以外の日は娘と夕食をとることもあるので、栄養状態は格段に改善されました。
そして、予想外に大変になったのがゴミ出しです。地区のルール通りに分別して、時間までに集積場まで持っていくのは、高齢者にはハードルが高い。地域の方の親切心に頼ってばかりもいられません。結局、ゴミ出しは娘に全権委任しました。

「家族減少社会」が教えてくれたこと
いま日本の高齢化率はぶっちぎりの世界1位。きょうだい親戚がたくさんいた時代は去り、一人っ子同士の夫婦の場合、2人で4人の親を支えなければならない。この高齢化が進んだ「家族減少社会」が教えてくれたのは、「困った時は、有償でアカの他人の手を借りてもいい」という、新しい助け合いの精神だと思います。
私のささやかな貯蓄は、そのためのものでもあるのです。依頼する側としては、自宅の冷蔵庫と心をオープンにする覚悟が必要で、これは「介護され上手」になるための第一歩ですね。
「シルバー人材センター」に興味がある方は、お住まいの市区町村に問い合わせを。また介護に関しては地元の「地域包括支援センター」に相談するとよいでしょう。民間や市民団体の生活支援サービスも増えています。
しんどいなと思ったら、ご自身の判断で「家事定年」を決めるとよいと思います。もし他人の力を頼りたい場合は、上手に取り入れて。老いの暮らしを安全で充実したものにしていただければと思います。
老いの福袋
作者:樋口恵子
出版社:中央公論新社
発売日:2021/4/20
出典=『婦人公論』2021年5月11日号
樋口恵子
評論家・東京家政大学名誉教授  


小室圭さん“ドサクサ帰国” に波紋、自民党総裁選に注目が集まる隙に

2021-09-19 11:00:00 | 日記

下記の記事は女性自身オンラインからの借用(コピー)です。

9月16日、秋篠宮家の長女・眞子さまとの“年内結婚”を進めている小室圭さんが、“近く帰国する見通し”とNHKが報じた。

「小室さんは、7月に受験したニューヨーク州の司法試験の合格が見込まれていて、州内の法律事務所から内定を伝えられているそうです。彼が就職する法律事務所では、日本人弁護士の採用は初めてとなります。

小室さんは、すでに就労ビザの手続きも終えており、現地での生活にある程度見通しが立ったことから、一度帰国する運びとなりました」(宮内庁担当記者)

眞子さまと小室さんが再会するのは3年ぶり。だが再会を喜んでばかりではいられない。

「小室さんの帰国後、新型コロナウイルス対策の待機期間が終わり次第、再会されることになります。その後お2人で記者会見を開いて、結婚を発表することになります。眞子さまは、30歳のお誕生日を迎える10月23日までに結婚することを目指しておられ、宮内庁は準備や調整を進めてきました」(宮内庁関係者)

だが小室さんが帰国する今月下旬は、自民党総裁選の報道一色になる。総裁選の投開票は9月29日で、“ポスト菅”となる次期首相を決める一大イベントだけに、世間の注目はそちらに向いていく。その間隙を狙った“ドサクサ帰国”となるわけだ――。全国紙政治部デスクはこう解説する。


「小室さんの帰国は、絶妙なタイミングだと思いますよ。現在、岸田文雄前政調会長、河野太郎行革担当相、高市早苗前総務相が立候補を表明し、野田聖子幹事長代行も正式に立候補する見込みです。

菅義偉首相が選出された前回の総裁選とちがい、主要派閥が自主投票となる方向なので、早くも乱戦となっています。新聞やワイドショーなど主要メディアが面白おかしく報じるには格好の状況です。

総裁選では皇位継承問題も争点のひとつでしたが、岸田氏や河野氏、高市氏が“女系天皇”に相次いで反対と明言したため、新型コロナ対策や党改革と比べて、争点とは言えなくなっている状況もあります。

小室さんの帰国をどこかの社がキャッチできたとしても、総裁選についての報道一色になっていれば、そのニュースが霞んでしまいますからね。眞子さまと結婚する時期も10月中とされていますが、そのころには解散総選挙がはじまっています。そうした意味でも、メディアと世間の注目を絶妙にかわすタイミングを狙っているとも言えるのです」

「経歴書虚偽」疑惑報道や、母・小室佳代さんの職場での労災トラブル報道など、依然として国民から厳しい目が向けられている圭さん。帰国後に開かれるとされる記者会見で、一連の騒動にどう答えるのか――。


ハーバード大が突き止めた「年をとるほど脳が活性化する条件」

2021-09-19 08:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

人の脳には加齢に抗する底力がある

脳には年をとっても衰えない底力があることが、さまざまな研究から明らかにされている。中には、年をとるほど向上する能力もあるという。諦めるのはまだ早い。知られざる脳の可能性の最新研究報告。
言語力、空間推論力など、4種で高齢者が優る
「年をとれば物覚えが悪くなり、頭の働きが鈍くなるのは仕方ない」という既成概念を覆し、人の脳には加齢に抗する底力があることが近年の脳研究で明らかになってきた。脳は高齢になっても可塑性(自分とその周辺の状況に応じて変化する能力)を維持し、誰もが加齢に従って認知力の低下を体験するとは限らない。逆に中年以降に高まる能力もあるということなのだ。
研究者に加齢と脳の関係を再考させるきっかけとなったのは、約5000人を対象に加齢による脳の様々な変化を半世紀以上も追跡調査してきたワシントン大学の「シアトル縦断研究」。認知力を測る6種のテスト中4種で、高齢者の成績は20代よりも良かった。記憶力と認知のスピードには加齢に伴う低下が見られたが、言語力、空間推論力、単純計算力と抽象的推論力は向上していた。この研究は加齢による記憶力の低下には個人差が大きいことも明らかにした。被験者の15%は高齢になってからのほうが若いときより記憶力が優れていたのだ。
40歳から69歳のパイロットの認知力を比較
カルレ・イリノイ医大の研究でも意外な結果が出た。40歳から69歳のパイロットの認知力を比較したところ、新たなフライト・シミュレーターの操作法を習得する時間は高齢者のほうが長かったが、衝突回避の成功率は高齢者のほうが高かったのだ。
fMRI(機能的磁気共鳴画像法)やSPECT(シンチグラフィー)といった造影診断法を利用しての研究も進み、脳には加齢に対抗するメカニズムがあることも証明された。トロント大学のシェリル・グレディー博士によれば、高齢者はひとつの作業の達成に向けて若年層が使わない脳の部位も活性化させている。
例えば記憶処理を主に担う側頭葉内側部が加齢により不活性化するに伴い、高齢者は前頭前皮質腹内側部、前頭前皮質背外側部も記憶処理に動員し、注意力といった認知機能の補強に前頭葉と頭頂葉の両方を活用している。若年層は単純作業には左右の片側の脳しか使わないが、高齢者では左右の脳を活用する傾向が見られ、活用する部位が多いほど成果は良い。
高齢者は若年層より物の見方が前向きになることも南カリフォルニア大学の研究が証明している。高齢になると情動反応を司る扁桃体がネガティブな刺激に反応しにくくなるのだ。また40歳を過ぎた頃からネガティブな記憶よりポジティブな記憶のほうが増え、その傾向は80代まで続く。つまり感情に左右されにくく、ストレスに強くなるということだ。
グレディー博士によれば高齢者の「頭の使い方」が変化する理由のひとつは脳の一部の機能低下を補うということだが、それだけではないようで、同じ結論に達するのに様々な脳の部位を使うのでより深い洞察が伴い「知恵脳」になるとも考えられる。
「ですから国や企業のリーダーには高齢者のほうがふさわしいともいえるのです。若い頃と変わらない『脳力』を持つ高齢者は少なくありません。脳には優れた可塑性があり脳の備蓄、維持、補償がうまくできていれば70代、80代になっても人は優れた脳力を保てます」と、グレディー博士。脳の備蓄とは知識や技能の蓄積を意味し、維持とは脳細胞の自己修復力を意味する。補償とは前述のように一部の機能低下を他の脳の機能で補うシステムのことだ。
瞑想により活性化する、高齢者の脳の力
脳の「備蓄」「維持」「補償」を助ける外的要因として研究者が奨励するのは健康な食生活、適度の運動、様々な活動による脳への刺激、積極的な社会参加だが、近年特に注目されてきたのは瞑想の効果だ。
「加齢による脳の機能低下の多くは瞑想で防げる」とするのは24歳から77歳の100人を対象に加齢による灰白質(神経細胞の細胞体が密集する部分)の変化を調べたカリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究報告。全般的に加齢による灰白質の体積減少は見られたが、瞑想をした人は減少が抑えられ、体積が減少した部位も狭かった。
さらにハーバード大学のサラ・ラザール博士によれば、瞑想には脳の劣化防止だけではなく実際に灰白質を増加させる効果もあるという。25歳から50歳の被験者を対象に8週間のマインドフルネス・トレーニングの前後の脳を調べたラザール博士の研究では、トレーニング後には海馬、後部帯状皮質、側頭頭頂接合部と小脳の灰白質の濃度増加が確認された。これらは学習および記憶処理、感情調節、自己言及性、および物の見方に関与する脳領域だ。
マインドフルネス・トレーニングはストレス低減を主目的として考案されたプログラムで自分の体の感覚に意識を集中する「ボディスキャン」、ヨガと瞑想などを日課とする。「脳も筋肉と同じで鍛えればそれだけ育ちますが、脳を鍛えるには激しい運動をする必要はなく、頭を雑念から解放し休ませる瞑想やヨガ、気功などが効果的なのです」とラザール博士は語る。
瞑想や祈りの最中の脳の変化を長年にわたって調べてきたトーマス・ジェファーソン大学のアンドリュー・ニューバーグ博士によれば、記憶力や認知力に関わる前頭葉を活性化させるには呼吸に意識を向けたり、一点を見つめたり、マントラや暗示の言葉を繰り返すなど、意識を集中させる瞑想を1回15分から1時間、一日に1、2回実践するとよいそうだ。