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結局のところ、「健康の最終結論」は3つしかない

2021-10-12 15:30:00 | 日記

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です。

疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第22回をお届けします。
健康の最終結論は不動の3つ
前回ご紹介した例の健康情報サイトから、本日も律儀に「本日のラインナップ」のメールが送られてくる。いやいや、本当に運営スタッフの方々の勤勉ぶりには頭が下がります! あいかわらず、老化防止、胃の不調、がん、効果的な運動方法……と、誰もがちょいと気になる、かゆいところに手が届きまくる精力的な内容である。
稲垣えみ子氏による連載22回目です。
でも正直なところ、最初のうちこそ好奇心も手伝って「どれどれ何が書いてあるのかナ」とサイトを覗くこともあったのだが、最近ではどのような話題であれ、実際にクリックして中身を確認することはトンとなくなってしまった。
なぜって、私は気づいてしまったのだ。
結局のところどんな話題であれ、つまりは病気予防であれ老化防止であれダイエットであれ運動機能の維持であれ、どれもこれもやるべきことの最終結論は一つなのである。
すなわち、これであります。
 「規則正しい生活」
 「健康的な食事」
 「適度な運動」

もちろんテーマは多岐に及び、登場する専門家の方々もさまざまゆえ、どの記事にも、話題に応じて示唆に富む豊富な話題があれこれと書いてある。それはそれで読ませるし、大いに参考になるという方ももちろんおられよう。しかし結局のところ、最後に登場するのは、見事なほどに前述の3点セットなのであった。
で、私。
「買わない生活」を始めた結果、いやも応もなくこの3点セットを完璧に実行するようになってはや5年。そして今の生活に何の不安も不満もなく、おそらくは死ぬまでこの3点セットを継続するに違いない。となればですね、ハイハイわかったわかった、いろいろ言ってるけど結局はそれでしょってことになって、読む気を失って当然ではないか。
逆に言えば、健康になることなんて複雑なことでも難しいことでもないということに、私は身をもって気づいてしまったのだ。
その気にさえなれば、誰だって今すぐにでもできることである。特段のお金も特別なスキルもいらない。
ちなみに具体例として私の暮らしを引き合いに出させていただければ、日の出とともに起きて、ヨガなどして、ちゃっちゃと手で家事をこなし、食事といえば毎度毎度、飯と味噌汁と漬物、そこに夜は熱燗一合も添えて、食後はラジオなど聞き少々読書などしてさっさと寝る。これだけで3点セットほぼ完璧。ここに各自お好みでラジオ体操や散歩など組み合わせれば、楽しさも加わって言うことなしだ。
そうたったこれだけで、誰だってありとあらゆる健康をめぐる問題に対応できるんである。
わかっているけどできない理由
となるとですね、私の中では謎が深まる一方なのであった。
あのー……一体なぜ皆様、これをやらないのか?
というか、なぜやろうとしないのか?
だってこの「3点セット」は、隠された特別な情報でもなんでもない。ほぼすべての専門家たちが、結局はコレなんだと何十年にもわたって包み隠さず言い続けていることである。
で、先日ふと、とある健康記事を読んでいて、思わずハタと膝を打ったのだった。
ある生活習慣病をめぐる専門家へのインタビューだったと記憶している、そのインタビュアーが、多少苛立った様子でこんな趣旨の質問をしていた。
――いやもう、その「3点セット」については聞き飽きました。だって結局は皆さんそればかり言う。それは十分わかってるんです。わかってるけどできないからこそ、こうしていろいろ聞いているんじゃないか。だからもうその話は持ち出さず、別の解決方法を示してほしい……
いやー、ほぼ逆ギレ。申し訳ないですが、その様子を想像して思わず笑ってしまいました。でもこれ、間違いなくその方の心からの本音でありましょう。いや多分その方だけじゃない。これは世のほとんどの人の本音なのではないだろうか。
なるほど。みなさんわかってるんですよね。わかってるけどできない。だから他の方法を知りたいのだ。結局はここなんである。ここが健康という巨大市場誕生のモトなんである。
3点セットという、誰もが知っていて、特段のお金もかけずに誰でもできるはずのことが、なぜか自分には「とてもできない」と多くの人が思い込んでいるから、誰も知らない、画期的な、魔法のような、素晴らしい健康情報を誰もがこぞって求めまくっているのだ。
ここに永遠の巨大市場が誕生し、日本経済がくるくると回るんである。めでたしめでたし……って、それでいいんだろうか? それで皆様本当に健康になれるんだろうか? 何しろこれだけ多くの専門家が口を揃えて結論は一つと言っているのだ。
確かに別の方法はないわけじゃなかろうが、普通に考えて、それは代替手段である。亜流である。亜流は本流にはかなわない。だからこそ尽きることない「亜流情報」が永遠に求められ出され続けているのである。
そうまでして、多くの人がこの3点セット、すなわち「健康的な生活」を拒むのはなぜだろう。
もちろん、人はいろんな事情を抱えて生きている。一刀両断にすべてを決めつけることはできない。
でも僭越ながら、私にはその理由がわかるような気がするのだ。
実は自分自身ができなかった
だって、かつての私自身がまさにそうだったから。健康的な生活をするべきなのは十分わかっていた。でもそれがムリだからこそ、別の方法が知りたかった。
なぜ無理なのかといえば、仕事がめちゃくちゃ不規則だとか、ストレス解消には夜の飲み会(暴飲暴食)は欠かせないとか、言い訳はいくらでもできたけれど、究極のところを言えば、その理由は一つだったのだと思う。
来る日も来る日も早寝早起き、質素な食事、ストイックな運動……って、そんな人生に何の意味があるのか?
だってそこには生きてる楽しみってものがないじゃないか。あれこれ美味しいものを心ゆくまで食べ歩き、暇な夜は浮かれ騒いで、朝はぐうたら寝る。せめてそのくらい楽しんだっていいじゃないか。この厳しい人生には楽しみってものが必要なのだ。っていうか、そもそも楽しむために生きているんである。
それが、そんな楽しみを全部我慢して修行僧のような一生を送るなんて、そりゃ健康にはなれるかもしれんが、そもそも健康って人生を楽しむために必要なんであって、それが、健康は手に入るけれど、そのためには楽しみはすべて我慢しなきゃいけないなんて、そりゃあまりにも御無体というか、究極すぎる選択というか、現実には不可能なご提案としか言いようがないではないか!
健康も人生の楽しみも両方手に入れた!
……ところが、そんな私がまあいろいろありまして、否が応でもこの3点セットを実行する羽目になったわけです。
で、どうなったのか。前回も書いたとおり、確かに私は健康は手に入れた。しかし人生の楽しみはどうなったのか。健康のために日々食べたいものもやりたいことも我慢して暮らす日々って、いったいどんなものなのか?
何事もやってみるものである。
結論から言えば、私は人生の楽しみを失うことはなかったのだ。
確かに、華やかな外食を日々楽しんだり、それどころか家でご馳走を作ることもなくなった。夜のお出かけも月に一度あるかないか。華やかなナイトライフなど一切無縁。つまりは、かつて楽しんでいたものの多くを手放すことになった。
でも、その一方で、別の楽しみが雪崩のように我が人生にドドドッと舞い込んできたのである。
まず何よりも「体調がいい」という状態を、おそらく大人になって初めて手に入れた。そして手に入れてしまえば、これそのものが特大の「楽しみ」なのであった。
来る日も来る日も日の出とともにスッキリ目覚め、さあ今日も元気だ空気がウマイと1日をスタートすることができるのだ。となれば、たとえその日が実際には散々なことばっかりだったとしても、案外アハハと笑ってやり過ごせるのである。何しろ翌朝になれば、何はともあれまた「今日も元気だ」とスタートを切ることができるのだ。
「元気があれば何でもできる!」というのは私の大好きなアントニオ猪木氏の至言だが、まさに私は身をもって、その至言をリアルに生きることになったのである。はっきり言って最強だ。この安心と余裕を前にしては、ナイトライフなどあまりにちっぽけな快楽であったと思う今日この頃である。
そしてこうなってみて改めて実感したのは、かつての私、すなわち「やりたいことをガマンしたくない」が為に、延々と不健康な生活を続けてきた私は、その結果「体調の悪さ」というものを、つまりはいつも体が重くてだるくて胃がむかつき時に頭が痛く……という状態をずっとずっとガマンしていたのだということである。
ただそれがあまりにも常態化していたために、我慢していたという自覚すらなかったのであった。しかし一旦健康な状態というものを味わってしまった今となっては、そのガマンがいかに自分の人生を損なっていたかを考えずにはいられない。となれば「やりたいこと」の中身を慎重に吟味せずにはいられない。
目先の小さな欲のために、あの不愉快なガマンの時間を延々と過ごすことを思えば、中途半端な「やりたいこと」など、一気に「やりたくないこと」に格下げである。
「わかりやすい快楽」の落とし穴
そう結局のところ、すべては選択の問題にすぎなかったのだ。健康という快楽を取るか。不健康という快楽を取るか。健康であり続けるのが修行ならば、不健康であり続けるのもまた修行である。どちらを取るかは個人の自由である。
それからですね、ストイックな生活で人生の楽しみが失われるのかという問題ですが、これもまったくそうじゃなかったということを知る。
驚いたことに、人生には「健康的な生活をしながら楽しめるもの」がたくさんあったのだ! それが証拠に、私の人生は今、楽しみでいっぱいである。
ピアノを弾くこと、書やお茶を習うこと、文章を書くこと。ものを使い捨てずに奇天烈な何かを作ること、ベランダで下手な家庭菜園を楽しむこと、近所の木々や鳥を愛でながら意味もなく散歩すること。近所の人たちと仲良くすること。銭湯にゆっくり浸かることーーどれもこれもこのうえない楽しみであり、ああもっと時間があったらなあと思う。
つまりは3点セットを実行したところで、私は何も失わなかった。健康を手に入れるために生きる楽しみが無くなるとか減るなんてことは、もう一切、まったくなかったのだ。
私はこれまでずっと、何を目指し、何を恐れてきたのだろう。
ただ充実した人生を送りたいと願い、そのためにせっせとお金を稼ぎ、使ってきた。そうでなければ負けるんだと思ってきた。でもそれは本当に自分が望んだ人生だったんだろうか。
今つくづく思うのは、私がこだわってきた欲望は、案外とても狭いものだったんじゃないかということだ。ご馳走を食べることが幸せだと思っていたけれど、毎日の質素な食事の中にも幸せがある。タクシーで楽にどこまでも移動することがリッチだと思っていたけれど、歩いて行ける範囲の中に素晴らしいものをたくさん開拓することもリッチである。
世の中は「お金」を使わせるようにできている
そうなのだ。私はあまりにも「世の中」に振り回されすぎていた。誰が悪いわけじゃないけれど、世の中はお金を使えば幸せになれるという広告で3あふれすぎている。それは往々にして、ラクにイージーにわかりやすい快楽を感じられるものに偏っている。何しろそれが一番効率的に人の欲を刺激できるからだ。つまりはお金儲けの元になるからだ。
要するに、お金を使えば、体も頭も動かず、手っ取り早く欲が満たされますよと誘っているのだ。で、そういうもののほとんどは、残念ながら不健康なものに偏りがちなのである。
で、この世の中ってものは実によくできておりまして、そのような誘導に誘われるがままに行動し、結果不健康になったとしても、ちゃんと解決策が用意されているのだ。大丈夫、手っ取り早く、体も頭も動かさず、ラクに健康になれる方法がありますよと、これまた多くの広告が誘ってくる。
もちろん、このよくできたサイクルの中で一生を過ごすこともできる。思う存分ご馳走を食べ、多くのことは便利な機械に任せて、でもそれだと太ったり健康を害したりするので、スポーツクラブに通ったりパーソナルトレーナーをつけたりして運動に励み、サプリを飲みマッサージやエステに通う。
それはかつての私である。思えばかなりのお金を使い、そして決して健康になることはなく、ゆえにさらなるお金を投じることになった。精一杯頑張っているのに、私はどこにも到達できなかった。
そしてじわじわと体を痛めていた。日本経済にはかなり貢献したと思うけれど、どう考えてもあまりにも非効率である。ナゾである。個人的には、あの時に戻りたいとは決して思わない。
人生は広く、自由である。お金を経由しないと何もできないというのは、狭く、場合によっては危険な思い込みだとつくづく思う今日この頃である。
稲垣 えみ子 : フリーランサー



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