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米国人驚愕「子が親の介護する日本」深刻な盲点

2021-03-30 15:30:00 | 日記

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

日本では聞いたことがない訴訟
「あら、どうして?子どもが年老いた親の面倒をみるっていう義務が、そんなにはっきり法律に書いてあるの?」
ハーバード・ロースクールの家族法の授業で、教壇のエリザベス・バーソレッテ教授が、片方の眉をつり上げる。授業中に英語で質問をされると、心臓が縮む。それでも今日の私は、ここで引き下がるわけにはいかない。なんせ、日本を背負って手をあげたのだから。
発端は授業で習った判例だった。年老いた母は、老人ホームで人生の最期を迎える。母の死後、その老人ホームは介護にかかった費用を精算しようとした。だが、毎年、老女のために使われるはずの財産は息子が使ってしまっている。
そこで、彼女の残りの財産を相続した息子に、ホームは残額を請求した。ところが、息子は自分には支払義務がないとして裁判所で争ったのだ。
アメリカと日本の家族観の違いを感じるのは、こういう瞬間である。すかさず私は手をあげる。
「日本では、こんな訴訟は聞いたことがありません」
勢いにまかせて、私は話し出す。バーソレッテ教授は驚いたように私に尋ねる。
「あら、どうして? 子どもが年老いた親の面倒をみるっていう義務が、そんなにはっきり法律に書いてあるの?」
今度は私が驚く番だ。親子の間で、まず法律上の義務を持ち出すなんて!
「確かに、子どもは親を扶養する義務が民法に定められていると思います。でも、そんなに細かくきっちりとした定めではありません。これって、法律上の義務というよりは道義的な義務ではないでしょうか。
確かに、親子関係はさまざまです。親の面倒をみろとすべての子どもに押しつけることはできないかもしれない。ただ、日本では、一般的には、自分を育ててくれた親が年老いて介護を必要とすれば、子どもが面倒をみることになります」
バーソレッテ教授は、目を見開いたまま黙り込んでしまう。しばしの沈黙の後、彼女は再び口を開く。
「日本と比べると、アメリカは年寄りに冷たい国だわ。私もね、年寄りの部類に入るようになって心からそう思うのよ。大統領候補者はこぞって若作りをする。健康不安を心配するよりも批判の対象にする。
子どもたちは、年老いた両親を養うことはしない。老後に備えて、私たちは自分でお金を貯めておかないといけないの。この若い国は、この国を必死に支えて、そして、老いていった人たちをいたわろうとはしてこなかったわ」
ここにおそらく、アメリカの「家族」と日本の「家」の決定的な違いがある。
日本の「家」は会社だった
「江戸時代までの日本の『家』っていうのはね、これは、会社なのよ」
日本に戻った私は、東京大学の博士課程で家族法の勉強を継続した。そのときに、家族法の大家である教授が、日本の「家」の本質をそう端的に表現した。江戸時代の武家制度のなかで確立した日本の「家」というのは、家の財産をバラバラにせずに、次の世代に、その次の世代に、脈々と伝えていくための装置なのだという。
江戸時代の家は、武士であれ町人であれ、「家業」を持っていた。浅草の老舗のお煎餅屋さんを想像してほしい。祖父の代から頑固一徹で守ってきた秘伝のたれをしみこませながら、煎餅を焼く。この技法が評判になり、今ではかなり遠くからも煎餅を買い求める人が引きも切らない。
だが、足腰も弱りはじめた三代目は隠居することを考えていた。子どもは長男、次男、そして、長女がいて、全員がお店で働いている。のれんという信用、そして、煎餅づくりのノウハウという無形資産があってこそ、お煎餅屋さんは価値を持つ。
だから、お店の土地とか建物とか、はたまた煎餅を焼く機器なんかの有形資産をバラバラにして、子どもたちに受け継がせても意味がないのだ。
長女は、家業につながりのある家にお嫁に行くだろう。次男には、後々、のれん分けをしてあげるかもしれない。ここは、とりあえず長男にお店を丸ごと継いでもらうことにしよう。
こうやって、浅草の老舗のお煎餅屋さんは、世代に1人と跡継ぎを定めて、祖父から父へ、そして、父から息子の代へと事業を丸ごと受け継がせる。日本の「家」というのは、もともとそういうものだったらしい。そう考えるとこれは家族経営の中小企業とおんなじだ。
家族法の大家である教授は、私たちにこう諭す。
「江戸時代まで、日本には『相続』なんて考え方はなかったのよ。『相続』というのはね、個人を単位に財産を管理する方法なの。個人が亡くなると財産の帰属主体が消滅する。それで、その時点の財産をすべてお金に換算して、それを相続人に平等に分配しましょうという考え方でしょう」
「じゃあ、江戸時代の日本では、おじいさんが亡くなったら財産をどうやって分けるんですか?」
「分けたりしないのよ。江戸時代までの日本の相続は、今でいう会社の『事業承継』と同じ。財産の帰属主体は個人じゃないの。家なのよ。だから、社長を交代するように家長を交代して、世代を超えて家の財産を引き継いでいく。
個人が亡くなるたびに、財産の帰属主体が消滅して、財産を清算してっていう考え方はとっていなかったの。個人が亡くなってもなお、家は連綿と残っていくものなのよ」
アメリカの「家族」は点である。子どもが成人すれば、親の家族とは別個の個人となり、やがて新しい家族を作っていく。
もちろん、点在する家族と家族の間には精神的な交流がある。クリスマスには、子どもが孫たちを連れて、懐かしい両親の家に帰るだろう。ただし、親の家族と子どもの家族ははっきりと区切られている。両者は経済的には完全に独立した主体なのだ。
一方、日本の「家」は線である。隠居した親の面倒は子どもがみる。その子も将来は、自分の息子やそのお嫁さんに面倒をみてもらう。家業を、親から子ども、そして、孫へと引き継いでいくその裏で、家業を営むことで得られるあがりで、年老いた親、出戻りの娘、引きこもった息子、家の構成員全員を養っていく。
家は、世代を超え、核家族の境界を超えて、一族を縦に結びつける。そしてこの家は、精神的な結びつきのみならず、経済的な基盤でもあるのだ。
今、日本では、もともとの「家」の価値観と西欧由来の「個人」の価値観が交錯する過渡期にある。相続というのは「個人」の側の概念である。日本には、もともと財産が個人に帰属するという考え方はなかった。そういう考えが輸入されたことで、相続という制度ができあがった。
社会に色濃く残る「家」という感覚
だが、こういう相続争いの法廷で、私は「家」という感覚が、社会に色濃く残っていることに気づく。例えば、長男次男という序列が慣習として存在する。長男は、幼い頃から「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼ばれてなにかと優遇される。家業を継ぐとすれば、まずは長男が第一候補者だ。
それと引き換えに、年老いた両親は長男が自分の家に引き取って介護をするものだという価値観、これが今でも地方ではそれなりに強く残る。
考えてみれば、日本で社会問題となりつつある親の介護も、「家」という制度の遺物なのかもしれない。
年老いた親が介護を必要とするならば、すでに家を出ていたとしても、まずは子どもが担い手となるべきだ。そういう感覚が日本にはある。老人ホームに入所させる費用を親の貯金で賄うことができなければ、それは子どもが負担するべきだと考える人も多いだろう。
財産が個人にではなく家にあると考える。すると、この価値観はとても自然だ。子どもの財布から親の介護を賄っているように見えて、その実、家の財産から隠居した先代の生活費を出しているにほかならないのだから。そして、同じ制度が続くならば、自分の介護についても子どもに面倒をみてもらえるという期待が生じる。
要するに、同じお財布を共有している人の単位が異なるということだ。日本の場合には、別々の家族を営んでいるようで、親も子どもも、いつまでも緩やかに同じお財布を共有している。
一方のアメリカは、子どもが独り立ちした時点で独立採算制になる。もちろん、親の遺産を相続することもあるだろうが、アメリカ人の多くが遺言を残すとされ、日本の遺留分に当たる制度はない。個人の人生の後始末は個人の意思によるのが原則なのだ。
そういう全体像の下で、ロー・スクールの教授は、「子どもが年老いた親の面倒をみるっていう義務が、そんなにはっきり法律に書いてあるの?」と私に問うた。そして、法学部の教授は、「江戸時代までの日本の『家』っていうのはね、これは、会社なのよ」と指摘したのだ。
「個人の時代」へ踏み出そうとしている日本社会
そう考えると、アメリカのロー・スクールでの授業風景が異なったものに見えてくる。日本の子どもたちに思いやりがあって、アメリカの子どもたちは年老いた親に冷淡だという、そういう国民性みたいな話ではない。これは、アメリカの「家族」と日本の「家」の決定的な違いなのだ。
アメリカの家族は点々と社会に散りばめられている。一方、日本の家は世代を超えて連綿とつながる線を描く。だが、問題はここでは終わらない。私たちの社会は、今、「家の時代」からアメリカのような「個人の時代」へと足を踏み出そうとしている。
夫婦別姓の問題も、森喜朗氏の発言に端を発した「女性という属性ではなく個人を評価しましょう」という動きも、私たちを「家」の世界観から「個人」へと押し出そうとする。
「個人の自律」というと聞こえはよい。だが、介護の問題、パラサイトチルドレン、8050問題――そこに頼って生きてきた人々が「家」から押し出されたとき、社会が彼らに居場所を用意できるのかが真の問題だろう。
山口 真由 : 信州大学特任准教授


全力で拒否した卒園証書と息子が初めて感じた「お別れ」の話:自閉症と知的障害がある息子

2021-03-30 13:30:00 | 日記

下記の記事はnoteからの借用(コピー)です

先日、息子が幼稚園を卒園しました。
結論から言って、自閉症と知的障害がある息子は、卒園式でパニックを起こし、荒れました。
入場と退場はちゃんとできたものの、しんみりした場面でケタケタ笑い出し、控えめな奇声をあげ、一時、隊列に並ぶのを嫌がって進行を遅らせたりもしましたし、卒園証書授与の際は歩きませんでした。
でも私は、卒園式の最後、感動で号泣し、本当に満足した嬉しさいっぱいの幸せな気持ちで幼稚園を後にしたのです。
「え?」と思った人もいるかもしれません。
おめでたすぎる親でしょう。
それでも息子の卒園式は、私にとってかけがえのない思い出となったのです。
今回は、そのお話をしようと思います。目次
    1. これが最後の登園、卒園式に臨む息子と私
    2. あまりにロックな卒園証書授与
    3. メンタル強すぎだろ…笑い出し叫びだし式を拒否りだす息子
    4. こんな時親はどうしたら…「正解」の対応がわからず戸惑う私
    5. 感動に包まれた園長先生の言葉
    6. 号泣し、誰よりも卒園を嫌がり続けた息子
    7. 「別れ」を理解できるようになった息子の成長
    8. 式の後、意外にも園庭で「卒園式後」を堪能できた息子
    9. 後日談:練習の時の息子はどうだったのか?
    10. ありがとう幼稚園!私の一番の不安が払拭された最高の卒園式
これが最後の登園、卒園式に臨む息子と私
2月の中旬くらいから、私は息子の幼稚園の卒園が近づくのが嫌で嫌でしかたがありませんでした。あらゆる幼稚園から拒否された息子を受け入れてくれた息子の幼稚園、加配の先生がついて、先生たちも子どもたちも他の保護者の方たちもあたたかすぎて、冬の朝のフカフカのおふとんのように居心地が良かったからです。
でも、終わりは必ず来るものです。
息子の幼稚園生活にも終わりが来ました。
卒園式の朝、私はいつもより1時間以上早く起き、万全の態勢で家を出ました。
可愛い園服を着た息子と歩くことが最後になると噛み締めながら、話せない息子に「幼稚園楽しかったね、今日で最後なんだよ」などと話しかけながら、幼稚園までの道を歩きました。
幼稚園に着いた息子はいつも通りでした。
加配の先生に息子を預け、私は1人会場へ。
そして卒園式が始まりました。
卒園児たちが入場してきて、息子も加配の先生に手を引かれながら、一緒に大人しく歩いてきました。

あまりにロックな卒園証書授与

いつものホールだけど、ちょっとだけ厳粛な雰囲気の卒園式。
息子は一番端の席に座り、遠目ではおとなしくしているようでした。
しかし、卒園証書授与の時に異変は起こります。
卒園児たちが1人1人、園長先生の前に行って卒園証書をもらい、真ん中の通路を歩いて注目を浴びながら自分の母親のところまで歩き、証書を手渡します。
他の園児たちが滞りなく立派な姿を見せ、証書を受取っていく中、息子の番が来ました。
自分が呼ばれる少し前から準備して立っていた息子ですが、いざ自分の番が来ると、歩くのを拒否しだしました。
一応書いておきますが、息子は知的障害はありますが、普段から30分も1時間も問題なく歩ける子です。
息子は園長先生の前まで先生に支えられながら行くと、まず台の上のアレンジフラワーをつかみました。
素早く静止し、大惨事を防いでくれた先生のナイスアシスト。
しかし息子は二人の先生に両側から支えられ、まるで囚われの宇宙人のような形で卒園証書授与「させられ」て通路を移動し、一歩も自分の足で歩こうとせず私の前まで来て、私は半分先生から卒園証書を手渡されました。
卒園証書授与を拒否。
その表情はあまりに反抗的で、盗んだバイクで走りだす的なあまりに破天荒でロックな息子の姿でした。

メンタル強すぎだろ…笑い出し叫びだし式を拒否りだす息子

息子以外は立派に全員証書を受け取り、卒園証書授与は終わりました。
続く保護者代表の方の涙ながらのしんみりした挨拶。
会場内は感動に包まれます。
しかしその静寂の中に響く、謎のケタケタという笑い声。
息子です。
手始めに卒園証書授与を拒否した息子ですが、今度は「絶対に笑ってはいけない」であろうシーンでなぜか笑い出し、その後も進行を妨げるほどではないが明らかに違和感が残る謎の奇声が、時折会場内に響きました。
そして卒園児達からの言葉と歌の発表。
息子はまた行動を起こしました。
みんなが正面に隊列を作って並ぶとき、息子は一人だけ並ぶのを拒否してグズりだしました。
「絶対並ばないマン」になっていたので、またしても先生達が出動。
なんとか息子を抱えて所定の位置に連れて行ってくれました。

こんな時親はどうしたら…「正解」の対応がわからず戸惑う私

卒園児たちからの言葉と歌の発表は、保護者たちの感動の涙でつつまれる、本当に素晴らしいものでした。
息子は最初こそ進行を止め、みんなを待たせて迷惑をかけましたが、出し物の間は静かに声を出さず立っていられました。
図々しいかもしれませんが、私も息子のお友達の卒園児たちの言葉や歌を聴きながら、自分の子は何も言っていないけれど、なんだか息子からも言われているような気がして、園生活を振り返って感動で泣いてしまいました。
ただ頭の中には冷静な自分もいました。
こんなに1人、式にそぐわない行動を取って場を乱しておきながら、一緒に感動に浸っているのは図々しいのではないか。
そもそも息子はいつまた突飛な行動に出るかわからないのだから、一瞬も気を抜くべきではないかもしれない。
本当はカメラやビデオを回したいけれど、その瞬間に息子が謎行動に出たりしたら、「お前何撮ってんだ」と呆れられそうでバツが悪い。
こんな時、問題行動を起こす障害児の親は「一刻も早く会場を出たい」と下を向いて肩身の狭い思いをするのが普通なのかもしれませんが、正直私の中では、「息子がみんなと違う行動をとる」というのは日常茶飯事。
障害児育児6年のキャリアで、今更それで肩身が狭くなるようなこともないという鋼メンタルになっていました。
ただし、他の人に迷惑をかけるとなると別問題。
大事な式を息子がぶっ壊すのではないか、 既にここまでの行動で不快な思いをしている方がいるのではないか、そうなるとあまり堂々としているのも良くないのではないか、など、自分の「正解」の対応がわからず悶々としていたりもしました。
その後、たくさんの拍手に包まれながら、息子も退場の時はちゃんと先生と手をつないで歩き、なんとか卒園式が終わりました。

感動に包まれた園長先生の言葉

そんな私が救われたのは、園長先生の言葉でした。
卒園児たちが退場した後、園長先生がおっしゃったのです。
「さっき、発表の前にムスコくんがちょっと癇癪を起こしちゃった時、大丈夫かな…と思って周りを見たんです。
そうしたら卒園児のみんな、誰一人嫌そうにしたりもせず、じっと待っていたんです。
今の世の中はすごく冷たいです。
早くしろよ、と冷たい目を向けてくる人がいっぱいいます。
でも小さい時にこういう経験をしたこの子達は、将来大きくなっても、絶対にそういうことをしないと思います。
冷たい目を向けたりしないと思います。
ムスコくんは、一緒に生活していく中で、こういう事を皆に教えてくれたんだと思います。」
細かい言い回しなどは微妙に違っていると思いますが、このようなお話をしてくれたのです。
私、号泣。
そして周りを見ると、なんと、他の保護者の方たちも、ハンカチを目元に充てて泣いている方がちらほら見えました。
泣きはらした笑顔でこちらを見てくれた方もいました。
先ほどの私のモヤモヤは、園長先生の言葉、 そしてそれを受けた保護者の方達の反応でスッと救われました。
よかった‥‥‥。
私たち、ここに居ていいんだ。
と言うか、ここに居られてよかった。
この幼稚園の一員で居られてよかったと、心底思いました。

号泣し、誰よりも卒園を嫌がり続けた息子

卒園式が終わり、息子の所に行くと、息子は加配の先生に抱きついて大号泣していました。
涙で顔のマスクもグチョグチョになり、もうどうにもならない状態に泣き崩れていたのです。
すると、加配の先生がそこで、泣きながら言いました。
「ムスコくん、練習でもいつも、卒園の、お別れの歌の時になると機嫌が悪くなってたんです。
きっと、そういう雰囲気を感じ取っていたんだと思います。
ちゃんとわかってるんだと思います。」
私もそう思いました。
息子は、おそらくここにいる誰よりも卒園を寂しく思い、悲しんでいるのではないかと。
もう幼稚園に行けないことを感じ取って、悲しくて悲しくてどうしようもなくなって、でもその気持ちの吐き出し方もわからなくて、パニックになっているんだなと思いました。
息子の号泣の意味がそこにあるとわかると、私もその場で涙が止まらなくなり、親子でわんわん泣きました。

「別れ」を理解できるようになった息子の成長

その後、在園児が作ってくれた花道を、なんとか抱っこからおりて自分の足で歩いた息子。
思えば、卒園証書授与の時の歩かなかったのは、
「卒園したくない!これ受け取っちゃったらおしまいだ」
という彼の強い意思の表れだったのかもしれません。
言葉と歌の隊列になる前にグズりだしたのは、いつも嫌だった「お別れの歌」をやると思ったからでしょう。
最後の大号泣は、彼の激しい悲しみ。
全部全部、息子が卒園式の意味を理解し、わかっていたからからこそ起きたのだと思うと、私は胸がいっぱいになりました。
そして、それだけ大きく感情が揺れ動くされる程、幼稚園が楽しくて大好きで仕方がなかったのだと思ったら、それだけのことが理解できるようになり、それだけ大好きな幼稚園に出会えたこと、幸せな幼稚園生活を送れたということが、私もとても嬉しくなりました。
息子はこれまで何回か引越しを経験したことがあり、毎日のように通っていた場所を離れるという経験は初めてではありません。
でもそのどの別れの時も、私の方は悲しいのに息子はケロっとしていて、「お別れ」の意味を理解できていないように思いました。
そしてそのまま次の生活に移るので、しばらく経ってから時間差で不安定になることもありました。
私は息子のそんな所が、とても虚しく残念でもあったのです。
でも今回は、ちゃんと「お別れ」を悲しんでいる。
それは、知的障害があってものごとの理解が難しい息子の、かけがえのない成長の一歩でした。

式の後、意外にも園庭で「卒園式後」を堪能できた息子


「親の心、子知らずでしょうか」眞子さまにピシャリと仰った天皇陛下のお言葉の重み

2021-03-30 11:00:00 | 日記

下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です

「結婚することを認めるということです」――。昨年11月の秋篠宮さまのこのご発言で、眞子さまの粘り勝ちとも思われた小室圭さんとのご結婚問題。しかし、今年2月の天皇陛下のご発言で形成一変。ご結婚問題は振り出しに戻ったとも言われている。
 毎日新聞編集委員であり、秋篠宮との親交も深いジャーナリストの江森敬治氏が、天皇陛下の記者会見でのご発言を重く受け止め、寄稿した。
◆ ◆ ◆眞子さまの結婚に対してついに天皇陛下が言及された

「眞子内親王の結婚については、国民の間で様々な意見があることは私も承知しております。このことについては、眞子内親王が、ご両親とよく話し合い、秋篠宮が言ったように、多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております」
 今年2月19日、誕生日を前にした記者会見で天皇陛下は、混迷する眞子さまの結婚問題についてこのように発言した。陛下にとって眞子さまは、弟の長女。言わば姪にあたる極めて親しい間柄だ。そのためもあってか、慎重な性格の陛下としては、かなり踏み込んだ発言だと感じた国民も多かったのではなかろうか。あれから約1カ月。静かに深く波紋を広げつつある陛下の発言の真意に、丁寧に迫ってみた。ニューヨークの街を颯爽とあるく小室圭さん 
 18年2月6日に宮内庁が眞子さまの結婚延期を発表して、今年2月で丸3年が過ぎた。このとき公表した文書の中で、結婚は2020年に延期すると書かれていた。こうした経緯があり、「結婚」の時期に当たる20年の11月に眞子さまたちの新しい文書が公表された訳なのだ。
「多くの人が納得し喜んでくれている状況ではない」
 この中で、「私たち2人がこの結婚に関してどのように考えているのかが伝わらない状況が長く続き、心配されている方々もいらっしゃると思います。また、様々な理由からこの結婚について否定的に考えている方がいらっしゃることも承知しております」と、この結婚に対する国民の批判を踏まえながらも、「私たちにとっては、お互いこそが幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在であり、結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」と、結婚への強い思いを強調したのだった。学生の頃に知り合ったお二人も今年は30歳に。小室圭さんは自ら述べた「内親王様をお迎えすることは、非常に責任が重い」という言葉のとおり、説明が求められている 
 その直後、20年11月に行われた誕生日会見で秋篠宮さまは、「あくまで私の主観になりますけれども」と、断りを入れながらも、この結婚について「感じとしては決して多くの人が納得し喜んでくれている状況ではないというふうに思っています。で、そのことは娘も恐らく同じ気持ちを持っていると考えております」と、述べた。
「多くの人が決して納得して喜んでくれる状況ではないと思うというふうに先ほどおっしゃっていましたけれども、そのために、以前、殿下が指摘されていたその問題をクリアして解決することが必要との考えについては今は、どのようにお考えでしょうか」と、記者から突っ込まれた秋篠宮さまは、次のように補足した。
「多くの人が納得し喜んでくれる状況の前提として、今までもあった問題をクリア(するために)相応の対応をする必要があると申しました。私自身、これは人の家のことですので詳しくは知りませんけれども(中略)ただ一つ言えるのはそれはいろいろな対応をしているとしてもですね、やはりそれが見える形になるというのは必要なことではないかなあというふうに思っております」秋篠宮は2018年の会見で、「多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちはいわゆる婚約にあたる納采の儀というのを行うことはできません」と発言 
結婚問題は進展させない
 実は秋篠宮さまは、18年11月の誕生日会見で次のように語っている。
「今いろんなところで話題になっていること、これについてはきちんと整理をして問題をクリアするということ(が必要)になるかもしれません。そしてそれとともに、やはり多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちは、いわゆる婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません」
「やはりきちんと、どういうことなんだということを説明をして、そして多くの人に納得してもらい喜んでもらう状況を作る、それが『相応の対応』の意味です」とも説明した。
 つまり、多くの国民が、眞子さまの結婚について「納得してもらい喜んでもらう状況を作る」。そのことが秋篠宮さまが求める「相応の対応」という意味なのだ。それができない限り、いわゆる、一般の婚約に当たる「納采の儀」は行えない。2月19日に行われた、誕生日に際しての天皇陛下の会見 宮内庁提供
 結婚問題は進展させない、ということを秋篠宮さまは明言していた。そして、その解決を金銭トラブルを起こした小室家側に求めていた。しかし、それは、一向に解決されていない。小室圭氏は「相応の対応」をしていない。だから、小室圭氏は正式な婚約者にはいまだなれない。結婚式だって挙げられない、ということなのだ。結婚に対する秋篠宮さまのこうした断固とした姿勢は一貫していると、私は考えている。
 このような、長年の経緯を踏まえた上で天皇陛下は、眞子さまの結婚に対する弟・秋篠宮さまの断固たる姿勢を支持された訳である。だからこそ、この陛下の発言は重たいのだと、思う。
陛下は「尊重して静かに見守って」いたのではなかった
 昨年11月、眞子さまは文書の中で「私がこの文章を公表するに当たり、天皇皇后両陛下と上皇上皇后両陛下にご報告を申し上げました。天皇皇后両陛下と上皇上皇后両陛下が私の気持ちを尊重して静かにお見守りくださっていることに、深く感謝申し上げております」と、綴られた。婚約内定 記者会見 
 しかし、陛下は「尊重して静かに見守って」いたのでは決してなかった。やはり、可愛い姪のことが心配で、ドキドキ、ハラハラしながら推移を注意深く見つめていたのだということも、今回、国民はよく理解できたと思う。
陛下の長女・愛子さまは、今年4月に学習院大学2年生になる予定だ。さらに、12月1日には20歳の誕生日を迎える。眞子さまとは10歳違い。早晩、結婚問題が待ち受ける。もし、愛子さまが、眞子さまとおなじような事態になったとしたら……。それは陛下としては気が気ではないだろう。今回の件を自分の家の問題として受け止めざるを得ない事情が、ここにあるのかもしれない。いや、当然、自分のこととして心配せざるを得ないのではないかと思う。
秋篠宮家をよく知る人が、口にした言葉
 秋篠宮家をよく知る人は、最近、「親の心、子知らずでしょうか」という言葉を口にした。子供を思う親の深い愛情がうまく理解できず、子供が気ままに振舞うことや自分が親になってみないと、親の本当の愛情が分らないのではないかという意味に使われる。親になって初めて、親のありがたみが分かったという体験をした人も少なからずいるのではなかろうか。
 10年、20年たってみて、「やはり、あのとき親の意見に素直に従っておけば良かった」「やっぱり、親が言ったことが正しかった」と、思い返す人も多いのではないのか。父親も伯父様も、可愛い眞子さまのことが心配で心配で、たまらないのだ。だからこそ、いろいろなことを発言するのだと思う。決して悪く取ってはいけないだろう。
 結婚したいとの強い思いは分る。しかし、ここはどうだろう。眞子さまはもう一度、両親と向き合ってじっくり話し合い、親の意見に耳を傾けてみてはいかがだろうか。素直に聞く耳を持つ姿勢が大切だと思う。そして、そのことがなにより、陛下の強い希望でもあるのだから。


腸内細菌のエサになるのは? 効くヨーグルトの食べ方

2021-03-30 08:30:00 | 日記

下記の記事は日経グッディからの借用(コピー)です

ヨーグルトの食べ方のコツは?
発酵食品の代表格ともいえるヨーグルトにはさまざまな種類がある。どれが自分の腸内環境に合うかは、食べてみないと分からないという。
自分に合うヨーグルトを探すには、1日に100~150g、1~2週間食べてみるといい(c)liza5450 -123rf
「そんな中でもおすすめを挙げるとすれば、まずはオリゴ糖入りのものです。オリゴ糖はビフィズス菌などのエサになり、腸内で良い発酵を促してくれます」(福田さん)。プレーンヨーグルトに、市販のオリゴ糖やオリゴ糖入りのフルーツソースなどをかけるのもおすすめだ。
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腸内細菌が喜ぶ食事 カギは食物繊維
高カカオチョコは腸内で善玉菌を増やす
「どの製品が自分の腸に合うかを調べるには、同一銘柄のものを1~2週間食べ続けることです。量は最低でも1日100~150gくらいは食べてください。体調や排せつの調子がよくなったり、便の色やにおいが改善されたりしたら、その製品はあなたの腸に合っていると判断できます。あまり変化が見られなかったら、別の銘柄のものをまた1~2週間試してみて。これを繰り返していくうちに、自分の腸と相性のいいヨーグルトと出合うことができるでしょう」(福田さん)。
ビフィズス菌と乳酸菌の違いは?
すべてのヨーグルトには乳酸菌が含まれているが、ビフィズス菌が添加されているものもある。どう違うのだろうか。
「乳酸菌の中でも特に乳酸桿(かん)菌は主に小腸に、ビフィズス菌は主に大腸にすんでいます。小腸には免疫組織があるため、乳酸桿菌は免疫組織を刺激して活性化させる、つまり免疫力を高めるコンセプトで使われやすい。現在、市販されているものも抗アレルギーなどそういうタイプが多い。一方、ビフィズス菌は酸素を嫌う性質があるため、酸素が比較的多い小腸ではあまり生きられない。そのため、主に大腸に作用し便通を改善させるようなコンセプトで使われることが多いです」(福田さん)
乳酸桿菌  =小腸に多く、免疫力アップに関与
ビフィズス菌=大腸に多く、便通改善などに関与
ちなみに、ヨーグルトの乳酸桿菌は人由来のものだけでなく、食品由来のものも多い。またビフィズス菌の多くは人由来だ。つまり、だれかの腸にいたビフィズス菌が使われているということ。そのビフィズス菌入りヨーグルトが一番合うのは、もともとの宿主であるその人であって、他の人に合うかどうかは、やはり試してみなければ分からないという。
また、このシリーズの第1回でもお伝えした通り、外来の菌は簡単には腸に定着できない。だから、自分が健康なときの便から腸内細菌を取り出し、培養してサプリメントにする“パーソナライズド・プロバイオティクス”が腸内への定着という点では理想的だ(第3回参照)。
菌が生きて腸に届くことは重要?
多くの乳酸菌は通常は胃酸や胆汁酸にさらされるため、腸に届く前に死んでしまう。ヨーグルトには、「高生存性」「生きて腸まで届く」といったコピーがよく使われているが、生きて腸に届くことは重要なのだろうか。
「繰り返しになりますが、外来の菌は簡単には腸に定着できません。もちろん一時的に腸内フローラのバランスを変えることはできるかもしれませんし、生きて腸に届き発酵を促すことでよい効果を発揮する場合には、生きて腸に届かないと効果は得られませんが、腸に届くけれど何もしないで出てくる、という菌もいるでしょう」(福田さん)
また、乳酸菌をとると、免疫力アップを期待できるという話は前述したが、免疫組織を刺激するのは、菌の外膜成分や菌細胞の中にあるDNAやRNAなど。つまり、菌の構成成分だ。「ですから、免疫力アップに限れば、乳酸菌は死菌でも効果があると考えられます」(福田さん)
さらに、死菌を構成している成分は、生菌や常在する腸内細菌のエサになる場合もある。つまり、「生きて腸に届く」かどうかにことさら神経質になる必要はなく、むしろその摂取効果を実感できるかどうかが重要ということだ。
ここまでの話をまとめると、腸内フローラのバランスをよくするためには、以下のようなことに気をつけるといいようだ。
【腸内フローラのバランスをよくする食べ方】
●腸内細菌のエサになる食物繊維(穀類、イモ類、豆類、野菜、きのこ、海藻、果物など)をとる
●なかでも、腸内細菌が分解しやすくエサにしやすい水溶性食物繊維が豊富な食品(大麦や海藻など)を積極的にとる
●ヨーグルトだけでなく乳酸菌のエサになるオリゴ糖も一緒にとる
●ただしこれらは自分の腸にあったものを探して、毎日とり続ける必要がある
腸内フローラは少しずつではあるが食生活で変えられる。腸は変えることのできる臓器の一つだ。長期戦を覚悟して、食生活を改善していこう。
この人に聞きました
福田真嗣(ふくだ しんじ)さん
メタジェン代表取締役社長CEO/慶應義塾大学先端生命科学研究所特任准教授。


「経験できてラッキーだった」“意識高い系大学生”が風俗店に女性を斡旋する半グレ集団に参加したワケ

2021-03-29 15:30:00 | 日記

下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です

2019年1月、京都の有名大学生グループ「スパイラル」に所属するメンバーたちが次々に逮捕された。容疑は職業安定法違反。恋愛関係にあると信じ込ませた女性に高額な酒をツケで注文させ、借金を背負わせたうえで、風俗店へと斡旋することで多額の金を得ていたのだ。
卑劣な方法で女性をモノのように扱った彼らは一体なぜそのような犯罪に手を染めてしまったのか。NHKスペシャル取材班による著書『半グレ ―反社会勢力の実像―』を引用し、「スパイラル」の一員だった男が明かすグループの内情を紹介する。
◇◇◇
「お前らもこっちに来い」
 “色恋”の手口について、元メンバーAに一通りインタビューしたあと、半グレのグループに入った理由について聞いた。彼は「組織の環境が魅力的だった」と言い、その経緯を語り出した。
「ある日、『バイトに興味ないか』と、大学で声をかけられ勧誘されました。のちに組織の先輩になる人で、とりあえずバーで開かれる体験会に参加してみました。さながら部活動への勧誘みたいでした。楽しい雰囲気で、優しそうな先輩たちがいろんな話をするんです。プロモーションビデオも流されました。『レベルの高いやつの周りに行かないとレベルは上がらない。お前らもこっちに来い』みたいな」
 説明会では、仕事内容についてパワーポイントを使って紹介され、「人材系の仕事が学べて、通常のアルバイトの何倍も稼げる」「違法性はない」などと言われた。
 グループは大学内などで学生たちを定期的にリクルートしていて、新人たちは、先輩達の手厚いサポートを受けて仕事を始めていく。そして、「契約」が1人でも取れると、上司にあたる幹部たちが豪勢に祝った。
 メンバーは2人の営業部長を筆頭にした2つのチームに分けられ、売り上げを競い合う仕組みになっていた。毎月の給料日には、みんなで高級な料理を食べたり、キャバクラで豪遊したりした。大金を払う上司たちは、「自分たちのようになれ」と話した。知らなかった世界での経験は、学生たちには刺激的なご褒美となった。
「頑張れる環境が整っていました」と語るメンバー
「キャバクラでは、高級なシャンパンを入れるから、どんどん女の子が席につくんですよ。サラリーマンの客とかちびちび飲んでいる中、ありえない経験をしていましたね。結果を出せば褒めてもらえるし、頑張れる環境が整っていました」
 そして、彼が語る「頑張れる環境」には、「ご褒美」だけでなく、「学び」も含まれていた。
 グループには上下関係の決まりなど、細かなルールが存在していた。上司と飲食店に入るときには、率先してドアを開け、のれんに手を添えるのは当たり前。目上の人への話し方など、「上司への敬い」は徹底されていた。
 また“色恋”の管理ができていなかったり、LINEに返信せず、1日以上放置したりということが続くとクビだった。“結果”の出せない者には罰金が科せられ、ルールが守れないと、上司が厳しい罵声を浴びせることもあった。
意識が高い学生が切磋琢磨する競争関係
 普段の生活にはなかった、そうしたルールのある環境を、学生たちは、「学び」と捉えていた。
 マニュアルにも、そんな組織の様子が読み取れる部分がある。
「お金を稼ぐだけではなく、仕事に対する実践的な考え方から社会の常識やマナーに至るまで、あらゆる点で一人前以上の社会人として活躍できる『人財』の輩出を目標に掲げています」
「大学生活をただ適当に過ごして、ぬるま湯につかっていた人間と、(学生のうちから)仕事を頑張って社会に出る準備をしていた人では、4年も時間があればどれほど差がつくか容易に想像できますよね」
 こうした言葉に続いて、敬語の使い方や、上司への報告・連絡・相談の「報連相」の徹底、身だしなみなど、社会人としてのマナーがびっしりと記されていた。格差社会の現実にも触れながら、「自分を高めることが大事」と謳っていた。その分量は、女性への近づき方や風俗への斡旋方法を記したページ数と同じくらいだった。
 アメとムチがあるこの「頑張れる環境」に、多くの「意識が高い」学生たちが集まり、グループ内では切磋琢磨する競争関係が生まれていた。
 元メンバーAは「この環境のおかげで“成長”できた」と語った。「組織には優秀なメンバーが所属していました。常にPDCA(『Plan=計画』『Do=実行』『Check=評価』『Action=改善』)で回っている感じ。組織の中で1位を狙うことしか考えていなくて、自分の売り上げをいかに伸ばすか、そのためには、時間を惜しまず取り組んでいました」
 業務時間には声かけやバーでの接客に従事し、時間外には、電話やLINEなどで女性に頻繁に連絡を取り“管理”に時間を割いた。そして、仕事の理解度を試すペーパーテストが定期的に行われるため、仕事の勉強も必須だった。
「女の子の愚痴を聞かないといけないし、(風俗店で)仕事を続けさせるための“管理”の電話も、自分が抱えている人数分しなきゃいけない。勤務時間外にやることが多くて、毎日遅くまでかかりましたね」
 上司からは、「空いている時間をどうやって過ごすかが重要だ」と言われ、Aは「その通りだ」と納得していたという。結果を出すべく、とにかくがむしゃらに働いた。
「普通の学生ができないような経験が得られることが魅力的」
 活動拠点だった衹園を案内しながら、よどみなく話すA。私たちは、半グレのグループに所属していたことについて、今はどう思っているのか聞いた。
「人生は経験が物を言うから、大学のうちにいろんな経験をしておきたいと思いました。普通の学生ができないような経験が得られることは魅力的で、話し方とかも勉強になったし、お金も実際に普通のバイトよりも稼げたし、この経験ができて、言い方は良くないかもしれませんが、ラッキーだったと思っています」
“成長”できると信じて
 元メンバーAが語った組織での「自己研鑽」について、逮捕されたほかのメンバーたちの裁判からも、その様子を窺い知ることができた。
 初公判の日、廷内に現れた彼らは、みな整った顔立ちをし、黒や紺のスーツに身を包んでいた。グループでは、仕事着にジャケットスタイルを指定していたというから、当時の彼らもこのような姿だったのかもしれない。被告人の席に着いた彼らは、緊張しているのか、表情はやや強張っているように見えた。傍聴席から向けられる視線を避けるように、常にどこか一点を見つめていた。
 公判が始まると、学生たちは罪を認め、女性たちに対して謝罪の言葉を口にした。そのうえで、「違法性の感覚が麻痺していた」「捕まらないと思っていた」などと語った。
 裁判官や検察官が「なぜ仕事を続けたのか」と問うと、「金が目的だった」と答えたが、加えて「普通のバイトでは経験できない、厳しい上下関係を学べると思った」「社会に出ても礼儀作法は生かせると思っていた」と“成長”が目的だったと語った。
 また、中には「倫理観より、目の前の数字ばかり見ていた」「仲間といられて楽しかった」という者もいた。
 印象的だったのは、組織のナンバー2で店長のY(自身も学生時代から組織に所属)だ。彼は、「(所属するメンバーたちには)普通の学生では経験できないようなことを経験し、起業や就職など次のステップへ進んでほしかった」
「組織が大きくなっていくのが見たかった」
 と話し、育てることや組織の拡大に喜びを感じていたと語った。
 法的にも倫理的にも許されない行為をしながら、「成長のため」と語る彼らの言葉に、裁判官をはじめ、傍聴席にいた記者たちは皆、「理解しがたい」という表情を浮かべていた。廷内には異様な空気が流れていた。
 ただ、取材に応じた元メンバーAの話を重ね合わせると、ナンバー2のYをはじめ、学生らは「成長できる環境」がグループにはあったと、本当に信じていたのだろう。その歪んだ価値観が、わずか1年の間にのべ262人の女性を風俗に送り込むという、グループの暴走を生み出したように思えた。
事件のその後
 今回の事件では、グループが1年間で、のべ262人の女性を風俗店に斡旋していたことが明らかになったが、摘発に至ったのは、4人に対する被害だけだった。誰にも被害を打ち明けられず、1人で苦しんでいる女性はまだまだいるだろう。
 被害女性のB子さんは訴える。
「私は今なお苦しんでいるのに、メンバーがなぜ実刑を受けず、のうのうと生きていられるのか。絶対に許せない」
大手企業に就職した元・半グレ
 今回摘発されなかったメンバーは、60人あまりにのぼる。自己研鑽や“成長”などを求めてグループに入り、女性を陥れた男たちは今どうしているのか。
 ある男は、事件の舞台となった衹園で会員制のバーを営業するなど、変わらず夜の街で生きていた。
 一方で、すでに大学を卒業し、会社勤めをしている者もいた。半グレのグループに属していた過去など、微塵も感じさせず、何食わぬ顔で生きているのかもしれない。
 本書の執筆にあたり、久しぶりに元メンバーAと連絡を取った。
 彼は電話口で、会社員として忙しい毎日を送っていると、明るく近況を語った。誰もが知るような大手の企業が、新たな職場だった。
 半グレの下で「成長した」というAは、すっかり表の世界の住人になっていた。
 半グレやそこに関わる人々は、一般の人と何ひとつ違わない顔をして、すでに私たちのまわりに存在している。それはもしかしたら、あなたの友人かもしれないし、恋人かもしれないし、お子さんかもしれない。
 NHKスペシャル取材班による著書『半グレ 反社会勢力の実像』では、「スパイラル」事件の被害者にも詳細な取材を行っている。事件で負った心の傷が癒えぬ中、取材班に赤裸々に語ってくれた内容に胸を打たれる。また同書では、他にも半グレによって犯罪に手を染めてしまった若者や、現役リーダー、元メンバーなどに取材を行い、当事者の生証言で半グレの実態解明に挑んでいる。