よろずの記 and 爺へ               

人生、残り少なめの日々の出来事や思いの綴りです。
やはり、ツーカーと話せるのは爺でした。  

のり爺のしいたけ作りー⑦

2009年04月27日 19時22分46秒 | 人生、家族
  帰って来たのり爺の手には一個のしいたけがありました。肉厚の大きいしいたけ、ジャンボしいたけです。前の年、試しに、少し駒打ちしたのが思いがけずひとつだけ出ていたそうです。

 のり婆は、ジャンボしいたけには驚きましたが、やれ、やれ(ー。ー)、のため息です。それは、今年駒打ちしたのは、ほとんどがジャンボ。そんなのが一度に出て来た時どうなる?しかも早めに出てくるとか。

 のり爺が言いました
「しいたけ味噌を作ったらどんげじゃろ?」
「誰が作ると?」
「・・・・・(しばらく返事なし)・・・おれ・・・。」
 (食品取り扱いに何か許可が必要じゃないか。容器の消毒や、品質管理のことなど、のり婆の頭の中を走りました。これは絶対させまい、させない!)

 たった1個のジャンボを焼いてみました。
のり爺 「うん、おいし、おいし!」
のり婆 「・・・・・・・・・・・・・・・・」(もう、味などしらん!)
                                    つづく
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のり爺のしいたけ作りー⑥

2009年04月24日 09時37分28秒 | 人生、家族
山からののり爺の声
「おーい、椎茸がいっぱい出ちょるから、○○と××の直売所に行って、売って貰えないか話してみてくれ。」
「ええーっ!!!(いやだー)」
なんと行ったこともない直売所です。

なんで、私が営業せんにゃいかんの!ブツブツ、ムシャクシャ、ムカムカしながら1軒目に行ったけど、言い出せる雰囲気ではありません。2軒目は豆腐と味噌を買って、レジでやっと切り出しました
しいたけは出品している人が多くて、今は無理ですねえ。」
気の毒そうに断られました。その後、帰ってきたのり爺が、1軒目に行って話をつけて来ました。
(最初から自分で行けばいいのに、ムカムカ、ムカムカ・・・)

これから、こういうことがいろいろあるだろうに、どうなるんだろ?のり婆はますます腹が立ってくるのでした。
沢山採れたしいたけは生ですから、そのまま置くと黒く変質してきます。太陽に当てても、素人には無理で、乾くより先に黒くなってしまいます。2軒目の直売所で聞いたとおり、他の生産者も沢山あるのだから、幸いに出してもらえたとしても、売れ残ることが多々あるはずです。

婆の裏の心が考えます
『袋の中にチラシを入れよう。『お買い上げありがとうございました、のり爺しいたけ園』とか、『冷凍保存がいいです』とか、簡単なしいたけ料理等を書けば、他の生産者のより売れるかも知れないよ』
のり婆
(じゃ、作ってみるか)とノリ爺には言わずにパソコンで作り始めました。

しばらくすると、チラシに書き込むしいたけ料理を考えてみようと、炊事のときに、しいたけを取り入れて作ってみています。
出来上がったら、写真撮って、マイピクチャに入れて・・・・・。

でも、料理の苦手はのり婆にはストレスになってしまいます。
やめた、やーめた。のり婆は正気に戻ります。チラシも未完成です。

のり爺がニッコニコした顔で帰ってきたのはその頃です。        つづく

のり爺のしいたけ作りー⑤

2009年04月20日 15時51分40秒 | 人生、家族
 のり爺はのり婆の気持に全く気付いていないばかりか、ごはんの時にこう言いました
「ああ、俺は満足じゃあ。山で作業しちょれば楽しいから、時間の経つのが早いわあ(^^♪」
「ふうーん」
のり婆は相槌も打ちたくありません。

 ある時はこうでした
「山で仕事して、帰ればこうしてごはんができちょるし、俺はいいわあ~」
「ふうーん、でも私はいつまでこうして料理せにゃいかんと?。もういい加減したくないわ。」
「いいじゃねえか、お前も食べるとじゃから」
「(え?なんちゅう考えじゃ。)・・・じゃ、あんたも半分してよ。」
「・・・・・(無言)」

    結婚当初は、のり婆も好きな人の世話はうれしかったのですが・・・。でも長い共働き生活では、夫婦の不平等をたっぷり思い知らされました。退職後は、それまで多忙でできなかったことをとあれこれ楽しんでいても、家事は必須です。それなら、家事についても共働きが当たり前。
のり爺が全くしないわけではなく、冬の灯油買いや、排水枡の掃除、車洗い等・・・・でも毎日じゃないもの。やはり不平等。

 のり爺に不満を持ちながらも、のり婆の裏の心が諭します
『婆が退職して専門校に通った時、爺が「そんな生き方は好きじゃ~」と言って応援してくれたでしょ。卒業式の日は、お祝いのお寿司を買って、ハマグリ汁と、婆の好きなぶどうの入ったサラダと、魚の塩焼きが作ってあったじゃないの。』

 のり婆が反論します
(確かに、あの時は思いがけなくて、感動して本気で「ありがとう!」と言えたわ。それに1年間、気持的に安心して通えた。習ったことを話すと、興味深そうに聞いてくれたことはほんとに良かった。けど、やっぱり家事は何もかも私だったじゃない。)

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 ある日、山からのり爺の電話が来ました。     つづく

のり爺のしいたけ作りー④

2009年04月17日 21時32分25秒 | 人生、家族
  のり婆が久しぶりに山に行ってみると、ネットハウスが1棟増えており、ハウスよりちょっと上には穴を掘ってビニールシートを敷いた二つの水溜ができていました。水源は、ずっと先の上の方から長いビニールホースで引いてきた山水です。昔、縦割りした竹をつないで家までひいて生活用水として使っていたのと同じです。
 
   その水溜からはビニールホースが各ネットハウスに延び、端末に接続した塩ビ管が頭の上に水平に吊り下げてありました。途中に付けた栓をひねれば、傾斜により水が穴を開けた塩ビ管から原木にピーピーッと落ちてきました。
 
   ほほう、うまいことを考えたものだと感心しました。のり爺にとっては、あれこれ考えながら、うまくいけば、いや、うまく出来なくても、工作すること自体が面白くてたまらないらしいです。
 そりゃあそうでしょう。それ以外は、ゴミの日の曜日も、今夜の献立も、洗濯物取り入れなんぞも全く考えなくていいんだから。
 
  翌年の春にも、のり爺は原木を購入して増やしました。またあ?とのり婆は困惑気味です。その時も、友達5人の応援をもらって、賑やかな駒打ちです。前の時とは違った種類のジャンボな椎茸の菌も打ちました。
 
  水溜には原木を浸して、発芽を促す役もありました。
1日か2日間浸けた丸太を水から上げるには、相当の力が要ることはのり婆にも容易に想像できます。
そこでのり爺がつぶやきます
「ウィンチを買おうかな」
 
   ウィンチとは重いものを上げ下げ、移動する機械です。のり婆は聞いて聞かぬふり。これまでもどれだけ費やしていることか。そうしてまで作った沢山の椎茸をいったいどうするのと言いたくなります。
もう、趣味ではなく、道楽です。中古のトラックも増えて、椎茸乾燥機も考えているようです。
 
    夕方、暗くなった頃に帰ってくるのり爺は、用意の出来ている風呂に入って、出されたおかずでビール焼酎飲んで、後はテレビ見て、寝るだけ。
 
    (のり爺はいいよなあ。一日中好きなことしてきて、帰ってきたら何もせんでいいもの。私は毎日好きじゃない料理して、家事をいっぱいして、ごはんが済んだらまた嫌いな茶碗洗いだ。不公平よね。)
のり婆はそう思うようになりました。のり爺が椎茸の話をしても、ちっとも聞きたくもなく、面白くもありませんでした。        つづく

のり爺のしいたけ作りー③

2009年04月14日 23時20分07秒 | 人生、家族
  のり爺は相変わらず、仕事と魚釣りの合い間には片道1時間をかけて山に通いました。古い浴槽を運んで水貯めにしたり、日差しによって寒冷紗をはいだり、かぶせたり、水をかけたり、山道を整備したり、他にものり婆には思いも付かないことをコツコツとしていたようです。

 椎茸はふた秋を迎えて顔を出すそうで、秋になって少しずつ出てきました。ある日、それは雨が降った後の日のことです、のり爺がはずんだ声で電話してきました。
「おーい!採りきれんごついっぱい出ちょっど~!」
その夕方には、立派な椎茸をかごいっぱい持って帰ってきました。

 採れた椎茸は近所や、友達に持っていったり、遠くの親戚、兄弟に送っていました。
さらにまだ、まだ採れるので、友達の紹介で、生産者持込の販売所で売ってもらいました。といっても、これは微々たるものでしたが、友達には
「しいたけ御殿が建つど~。」
とからかわれていました。

 のり婆にしては、自宅で食べるくらい採れればうれしいことなのに、のり爺は、次の春には業者から原木を買って増やしてしまいました。それも百本単位なので、のり爺の友達が5人も駒打ちの応援に来てくれました。

 そんなこんなで大忙しののり爺が、深夜にうなり声を上げています。のり婆が驚いて飛び起きてみると、太ももがつった(こむら返り)痛みで七転八倒していました。自分の年以上に身体を動かしているせいです。しかし、たびたびのこむら返りにもめげず、のり爺の山行きは続きました。椎茸は断続的に採れて、最初と同じように配ったり、直売所に出したりしていました。

  のり婆の胸にもやもやとしたものが溜りだしたのはこの頃からです。    つづく


のり爺のしいたけ作りー②

2009年04月08日 22時35分49秒 | 人生、家族

 重い魚網を、のり爺はトラックを借りて運んできました。山の下の空地で重りを外そうとしても、しっかり編みこんであり、網糸は頑丈です。網糸をひとつひとつ切って外すのに相当の時間がかかり、他の作業が出来ません。とうとう、手伝いを一人頼んで、終るまでに2週間くらいかかったでしょうか。 重りが全部外れたら塩分を抜くために、すぐ横の小さな沢に何日か浸けました。やれやれ、ご苦労なことです。
 
  ネットの準備が出来たら、いよいよネット張りです。ホームセンターに何回も行って、いろんな留め具や小道具を探してきていました。かまぼこ形の骨組みの上に、こっちでネットを止めて、上に上げて、あっちに行って引っ張って、アラ落ちた・・・とか想像しただけでも、一人での作業は遅々としたものだったでしょう。
 
 その頃、のり婆は膝を痛めていて、家事をするのが精一杯。家の中ではキャスターの付いた椅子を車椅子の代わりに使っていたほどですから、とても手伝いどころではありませんでした。
 
 ネット張りの後は、井桁に重ねて寝かせていた原木を、林台車というのを借りてネットハウスに移動させました。慣れない危険な作業ですから、林台車と一緒に落ちるのじゃないか、怪我をしなければいいがと、のり婆は最初に杉を切り倒した時と同じくらい心配でした。Noriji4_3
 
 その後も、日よけの寒冷紗を張ったり、水をでっかいタンクに運び込んで雨の少ない時期の散水など、のり爺は試行錯誤の作業を続けていました。
 
  ウグイスの声が聞えていた駒打ちの頃から、いつしかお盆になり、のり婆は膝も回復に向かっていたので、久しぶりに山に行ってみて、おお!っと目をみはりました。想像以上のネットハウスが出来ていたのです。これなら、猪や猿もあきらめて帰ってしまうだろうし、のり爺のしいたけ作りもこれで落ち着くだろうと、のり婆は思ったのでしたが・・・・・。
      つづく
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のり爺のしいたけ作り

2009年04月01日 09時29分02秒 | 人生、家族
 「オヤジに椎茸を作らせたらどうかな」と、のり爺は、母親が逝った後、寂しそうにしている父親を見てそう思っていました。しかしその思いは叶わないまま、父親は星になりました。
 
 その後、のり爺は会社を定年退職し、今は、賃金は少ないけれども、休日の多い仕事に就いています。
 ある日、のり爺は父親の残した山で自分が椎茸を作ろうと決めました。ところがその山には猿や猪が来て、食べられるものは全部横取りされるということです。さてどうしようと考えた末、ビニールハウスの骨組みの上にネットを張ることにしました。
 
  手始めはビニールハウスならぬネットハウスの設置場所の整地です。その場所は、下の道路から急な山道を100メートルくらい登った杉木立の中なので、何本かの杉を切り倒さねばなりませんでした。ここでチェーンソーが必要となりました。
 
   のり爺は勤務の合間、合間に何日も、何日も山に通い、杉の木を切り倒して整地し、もう少し登ったところにあるクヌギの木を倒し、椎茸原木のサイズに切断して、下に降ろしました。
 
   いよいよ待望の駒打ちです。父親が若い頃に作っていたのを見てある程度はわかっていたようですが、シイタケ栽培の本を買って勉強していました。林業機械関係の仕事をしている弟にも相談して、ドリル、発電機、種菌を購入し、のり婆とその友達の2日間の応援で駒打ちが済みました。駒うちされた原木は、直射日光が当たらないように寒冷紗や笹の葉などで覆って寝かせておき、ネットハウスにとりかかりました。
 
  ビニールハウスの業者を訪ねて事情を話し、組み立てを習い、また一人でコツコツと山の中にパイプを組み立て、3棟分が建ちました。次はビニールの代わりのネットですが、趣味でやるのですから費用はあまりかけられません。目をつけたのは漁網です。
釣りに行ったときに港の近くに放置してあるのをよく見かけたそうで、譲ってもらうように交渉に行きました。結果は、気持ちよく、しかも無償でもらえたと喜んで帰ってきました。
 
 それでも、本職の漁師さんの魚網に錘がついたままのものですから、ちっとやそっとの重さではなかったようです。  つづく 
                                                                                     Siitake039_2