10月初めに『真田十勇士』が終わったと思ったら、早くも次の舞台です。
全国公演の幕開けは東京・北千住の「Theater1010」!早速公演に足を運んできました。
『渇いた太陽 ~Sweet Bird of Youth~』
≪公式HP≫
http://www.ntv.co.jp/kawaitataiyou/
≪作品紹介≫
アメリカを代表する劇作家、テネシー・ウィリアムズが1959年に書き下ろした『Sweet Bird of Youth(青春の甘き小鳥)』(邦題:『渇いた太陽』)は、上昇志向が強く、したたかな企みを抱く青年、そして、年齢とともに美しさが翳り、容姿に絶望を感じる女優、これらの2人を中心に、多彩な人物が交錯し繰り広げる、愛憎と刹那の人間模様を描いた名作として知られています。
≪スタッフ・キャスト≫
作 :テネシー・ウィリアムズ
演出:深作健太
出演:浅丘ルリ子/上川隆也/貴城けい/川久保拓司/内田亜希子/俊藤光利/渡辺哲 ほか
≪上演時間≫
第一幕:約1時間
第二幕:約1時間20分
休 憩:15分(劇場によって変更あり)
≪物販≫
公演パンフレット 1,500円
浅丘ルリ子自伝『咲きつづける』1,470円(直筆サイン本あり)
◇ ◇ ◇
≪あらすじ≫ (公式HPより)
絶望と快楽、過去と現在、栄華と堕落…、
人間の業と欲とプライドがぶつかりあう。
あなたを信じて付いていく…。
私をスターにしてほしい…。
虚実綯い交ぜの駆け引きが今始まる。
1950年代末のアメリカ。大女優アレクサンドラは、次第に美貌が衰え、人気も無くなり、ついに映画界に嫌気がさして失踪してしまいます。彼女はビーチボーイをしていたチャンスと出会い、彼を付き人に雇い、フロリダ南部の町セント・クラウドへ逃避旅行に出かけます。実はチャンスはアレクサンドラを利用して、ハリウッドで名声を得ようと目論んでいました。セント・クラウドはチャンスの故郷、ここで彼はかつての恋人ヘブンリーと再会し、一緒に町を出ようと彼女に持ちかけます。そんな中、アレクサンドラに思いもよらない出来事が起こります。やがて、そのことがアレクサンドラの運命を変え、そしてチャンスの人生をも狂わせてしまうのでした。
◇ ◇ ◇
“He used love like most men use money.”
今回の上川さんの役は、ポール・ニューマンも演じた「野心的な」青年チャンス・ウェイン。
↑ 青年…(苦笑)
公演初日は22日(金)昼でしたが…その日の朝にマスコミに公表された舞台衣装+ヘアメイク写真に、全国の上川クラスタの「ウソだろ!」という悲鳴と阿鼻叫喚が…!「そこ違うだろ」部分からツッコミせざるを得ないという、不安とドキドキ感いっぱいの幕開けでした。
(その写真は敢えて晒さないでおきますが、そりゃもう…)
いやお芝居はともかく「イタ過ぎて流石に目のやり場に困る」ようだったら、それはそれで情けないですもんね…(ファンとは思えない発言?)
とはいえ、いよいよ私的初日の土曜。この日はマチネとソワレを連続で観る予定。真田大楽遠征以来のワクワク感を抱え、日比谷線で北千住へ。こんなに早く次の舞台見られるなんてファンは幸せ者です。上川さん、ありがとう!
開場時間直後に到着。早速パンフレットを購入、席に着くや否や内容をチェック(ドキドキ)。
「・・・うぁ!」(パタッ!と思わず表紙を閉じるw)
心配していたビジュアルですが…ぱ…パンフレットの金髪チャンスくんの不良っぽい甘~い自堕落な感じが半端ないw思わず声を上げそう!
いやフォト○ョップ様さまというべきか(ヲイ)相変わらず驚異の上川隆也(48)クオリティー!
真田のようにウィッグではなく、短めに切られた髪をかなり明るめに染めた感じで、何だかふわふわっとしています。髪の量的に襟足が浮いてしまうのは仕方ないのでしょうか…余談ですがこれがお芝居では乱れるシーンも多々あり…色っぽいです。いや、色っぽくて若々しくて、ちょっとイタくて(笑)カッコいいです。いや上川さんご本人のお言葉を借りるなら「艶っぽい!」←人前では見られませんw
※この金茶色の髪は残念ながらウィッグであることが「ぐるナイ」で判明。地毛でも良かったのに~w
まあ今回は共演(W主演)が、昭和を代表する伝説の女優浅丘ルリ子さま(73)ですから、彼女から見たら「坊や」呼ばわりもシックリ来すぎて逆に怖いくらいです。
それでは恒例の誌上レビュー!と行きたいのですが、これから全国公演を控えているので(笑)感想のみにとどめます。
どうしても内容に触れざるを得ないところは、極力「そのまま」にならないようにします…が…私の一番の萌えシーンとかが書けないですね。暫し、おあずけ。辛いw ←
◇ ◇ ◇
文句なしに「大人が見てこそ心に刻まれる台詞とシーンの数々」――主演二人の存在感は言うまでもなく、戯曲の持つ時代背景と閉塞感、鬱屈、光と影、名声と挫折…すべてを700席程度の劇場が「濃密すぎるほどの」空気を伴って再現していた。
(冒頭のシーン)
舞台はフロリダ、セント・クラウドと呼ばれる海辺の街。そこにある「ロイヤル・パーム・ホテル」の豪奢な一室で幕は上がる。
朝の眩しく白い陽光と、復活祭のミサで演奏される讃美歌、鐘の音が空気を優しく揺らす。だがカーテンを閉めた薄暗い部屋の中、広いベッドに腰掛けているのは、乱れた白シャツ姿の男。気怠げにうつむくその姿は生気とは程遠いものだ。
ベッドのもう片方では顔を隠した女が眠っている。こちらは昨夜から酔いつぶれ、未だ意識が戻る気配もない。
男はひとつ溜め息をつき、煙草に手を伸ばす。金属音とともに灯った小さな炎が、端正ではあるが、明らかに「盛りを過ぎた」――かつてはさぞ美しかったであろう――男の暗い眼と、金茶色の髪を仄かに照らし出した。
男の名前はチャンス・ウェイン。
眠っている女は、かつて大女優の名声を恣にしたアレクサンドラ・デル・ラーゴ。
退廃と怠惰と酒、そして紫煙――第一幕は冒頭の5分ほどを除き、すべて浅丘さん演じるアレクサンドラと、上川さん演じるチャンスがホテルの一室で「その存在ごと」ぶつかり合う時間である。
第二幕は、チャンスがかつて関わった女性と、その父親、兄、古い友人たち、そしてアメリカ南部を覆う「ある動き」が、チャンスとアレクサンドラを否応なしに怒涛の中に巻き込んでいく。
その内容を詳しく書くのは控えるが、第一幕のおよそ1時間もの間、圧倒的な勢いで迫る二人のやりとりは「観客としてその場に身を置くこと」より「巻き込まれる」という感覚が先走る。
若いこと、未成熟なことにのみ絶対の価値を置くかのように「成熟」から背を向け、カワイイ、ヤバイなどと片言でしか感情を表現できない幼稚さが世代問わず蔓延している今の日本に、強烈なアンチテーゼを投げかけるような芝居、そして重い台詞の数々。
「もう若くはない」「かつては美しかった」「栄光をつかみかけて挫折する」「自分の名すら、忘れたい」…そう口にするアレクサンドラ、そしてチャンス。その言葉の意味に反して、舞台で生々しい足掻きを見せる二人の、何と美しいことか!知らず、背筋にゾクゾクと震えがくるほどに見惚れ、心を奪われた。
舞台姿が美しい、と言っても綺麗な衣装や洗練された立ち居振る舞いを指すのではない。生々しい欲望も、情念も、執着も、ドロドロに絡んだ「大人の」無様に(時に這いつくばり憐れみを乞う場面も交えて)生きる姿を見せ付けられる。
それが何故か、浅丘さん上川さんという演者を通して何とも狂おしく、愛おしくて切ない美しさに昇華していくように感じた。そして何より観客は知らず知らずのうちに二人の有り様を「我が身に置き換えて」観てしまう。
上川隆也演じるチャンス・ウェイン。久しく世間に見せていなかった「愚かさと未熟さ」だけを全面に押し出す芝居が新鮮だった。全編を通して彼の発する痛々しい程の虚勢、驕り、純粋さ、愚かさ、優しさ、哀しみ、怒り、後悔…どれを切り取っても絵になるようなリアルな質感を持って観る側の胸に突き刺さってきた。
ヒリヒリと灼けつくような滲みるような、渇望と痛みと、何とも言えない哀しみを帯びた男の色気。しかも決して「上品」ではない。下世話な表現をあえてすると、三流写真週刊誌のような、無意識に唾を飲み込みたくなる俗っぽい性的魅力。素面で酔うってこういう感覚かな…などと朦朧としつつ夜公演を観終えたころには思っていた。前頭葉から脳髄までジリジリするくらい痺れる、あの感じ。
優しい若者を、私は若者だと思わない。立居振舞いの優しさを言っているのではない。心の優しさとでもいうものである。若者が、優しく有れる筈はない。全ての事が可能だと思っている年頃は、高慢で不遜で有る方が似つかわしい。(塩野七生)――この言葉が、彼には実によく似合う。
甘く低い声、グラスを持つ手、酒を飲み干す喉元、触れれば血の温かみを感じ、身を凭せかければ優しく受け止めてくれそうな厚い胸、ふと俯いて煙草に火をつける仕草と指先。思うに「シンプルかつフィジカルな意味で」魅力的なのだ、この男は。普段は絶対に見向きもしないはず、だが心がざわめく。こればかりは理性で判断できない…「一番危険なタイプ」でもある。
だからこそ心身ともに疲れ果て傷付いたアレクサンドラが「出来心で」連れ歩く気になったのだ。キャスティングとしてはやや年齢的にムチャ振りなのは否めないが、観る側に「ふと心惹かれた、そして溺れたくなった女の感情」を納得させるだけの妖しい魅力を、上川隆也の体現するチャンス・ウェインは確かに放っていた…と思う。
↑もっと現実的な話をすると、舞台ひと幕を2人で(+何かあってもブレずにフォローして)なおかつあれだけの台詞量と運動量をキープしつつ地方公演まで回れる人、いる?!
そして浅丘ルリ子の美しさ、凄味。昼より更に夜公演のほうが「破壊力」が増していた。大女優として、女として、万華鏡のように見せる表情とたたずまいの変化。母性、力強さ、したたかさ、弱さ、少女のような可憐さ…まさに、魔性の女。
黒地にクリスタルが煌めくスーツを身にまとった彼女は、さながら黒曜石と白銀とダイヤモンドで作り上げた豪奢なジュエリーのように輝き、凛とした光を放っていた。正直、キャスティングを聞いた時に映画版と比較して各々20歳程年をとり過ぎではないか?と感じたが、日本人的な感性で観るならばアレクサンドラ役は彼女でしか成立し得ない圧倒的な説得力を持っていた。
◇ ◇ ◇
二日目(日曜日マチネ、北千住公演最終日)では、受けた印象がさらに大きく変わった。
アドリブや仕種のこなれ具合が上がったせいか?初日(土曜・通算2公演目)の棘の残った緊張感から打って変わって、シルクのように滑らかな仕上がりを感じた。第一幕は特に「いつまでも二人の会話と醸し出す空気に浸っていたい」ような蠱惑的なまでの色気が、劇場中を甘く支配していた。第二幕は静から動という変化はそのままだが、よりコントラストが強まった気がした。
特にチャンスの意図的に舌足らずさを感じさせる甘ったれた口調、底の浅い悪戯を企む笑顔、挑発的な視線、10代のように周囲を顧みず自分の見たいものしか見ない我儘さ…「生意気で可愛らしさ全開」モードに打ちのめされwアレクサンドラもまた(女性の眼から見ても)弱った女の情けない体たらくと、凛とした威厳をもった女王然とした存在感が増し、だらりと甘える仕草も、若者の我儘をピシャリと制する姿も、何とも微笑ましく美しく、台詞の内容に反して二人の交わす会話や眼差しが「甘く蕩け、交じり合い、溶け合う」芝居のアンサンブルは、覗き見的な背徳感を観る側に抱かせた。
これも「公演3日目」ならではの熟成と変化だろうか?だとしたら地方公演を経て12月日比谷に凱旋した時、いったいどんな芝居になっているのか…空恐ろしくもあり、楽しみでもあり、文字通り背筋が「ゾクゾク」する。
◇ ◇ ◇
『渇いた太陽』の扱う主題は「若さと老い」「過ぎ行く時間の残酷さ」「男と女」「罪と罰」「貧富」「差別」…多岐にわたる。演出の深作健太氏はパンフレットで「『Sweet Bird of Youth』青春という名の甘き小鳥、とでも訳しましょうか。テネシーが想いを込めて名付けた、決して捕まえられない青春を今いかに描くか…」と語っていた。
そして…美貌とは自ら願って手に入れられるものではない。多少の後天的な努力で補ったとしても、頭蓋骨の上皮一枚の差異に過ぎない。何の努力もせず偶然手にしたその甘い果実を天賦の才と錯覚したこと、時間という残酷な手により剥ぎ取られるまで気付かなかったことに、チャンス・ウェインの悲劇はあったのかもしれない。
ある場面でチャンスは静かに独白する。否、客席に向かって語りかける。
目の前の「誰か」に言い聞かせるような声音で。
そして他でもない私自身の揺れ動く感情、舞台や登場人物への好悪複雑に交じり合う想いを見通すような、まっすぐな表情と眼差しで。
僕はあなたの同情を求めたりなんかしない。
ただ、理解してもらいたいだけだ。
いや――そうじゃない。
あなたの中にいる僕に気がついてほしい。
時間という敵は、僕たちみんなの中にいるんだ。
あなたも…気づいているんでしょう?
問いかけるようなチャンスの眼差しとシルエットは、暗転に飲み込まれて消えていく。
舞台上のことは、舞台上のみで完結してはいない。
チャンスも、アレクサンドラも、彼らを眺める側の「自分の中にもいる」ということ。
リアルな感情として受け止めるには、こちらもまた膨大な時間と、酸いも甘いも含めた経験を「この身内に」宿していること、がカギとなるのではないだろうか。
ただ人生の時間を経過しただけでなく、その中に「成功体験」と呼べるものはあったか?
自分の生き方に誇りを持っていたか?
なりふり構わず何かを必死でつかみ取ろうとしたことがあったか?
美しさ、若さを失うことは避けられない。その代わりに、何を手に入れていくのか?
ただ失うことにのみ恐れを抱き、戻らない時計の針に縋って引きずられているだけ…になってはいないか?
この公演の観客層は若くはない。むしろ60代以上の年配者、女性が目立つ。
彼ら、彼女たちの眼にはアレクサンドラが、チャンスがどう映るのだろう?
どの世代でもいい。10代が見れば病的・滑稽なまでの執着も、
60代が見れば現在進行形の焦りや苛立ちになる。
20代が見れば当たりまえの属性に過ぎない若さの持つ輝きや傲慢さは、
30~40代が見れば、冷ややかな侮蔑の混じった苦笑と押し殺した羨望の的、
一方でさして古くない、未だ疼く傷痕を暴かれるような痛みが沸き起こるに違いない。
そんな過去の経験を、
彼女、そして彼と共有できる人なら、
きっと忘れられない作品になることだろう。
◇ ◇ ◇
追記(11/30)
チャンス・ウェインはビジュアルではない。演技で人を納得させる。10代の少年のまま大きくなった青年(若くないのに)の愚かしさ、浅はかさ…そして「何をするかわからない」怖さ。破滅的に生きるしかないその姿は、太陽に突っ込む彗星のように「自力では軌道を変えられない」痛々しさがある。
弁護のしようもなく自己中でバカでダメなあの男にも「一瞬の切なさ」「一瞬の哀しみ」が眼差しや仕草の合間にキラリと輝いて零れ落ちる。彼に関わる女たちがそれぞれに負う深い傷は別としても、救いがたいその姿に観る側の心がかき乱されるのは、やはり「上川隆也の芝居が好きだから」だろう。
全国公演の幕開けは東京・北千住の「Theater1010」!早速公演に足を運んできました。
『渇いた太陽 ~Sweet Bird of Youth~』
≪公式HP≫
http://www.ntv.co.jp/kawaitataiyou/
≪作品紹介≫
アメリカを代表する劇作家、テネシー・ウィリアムズが1959年に書き下ろした『Sweet Bird of Youth(青春の甘き小鳥)』(邦題:『渇いた太陽』)は、上昇志向が強く、したたかな企みを抱く青年、そして、年齢とともに美しさが翳り、容姿に絶望を感じる女優、これらの2人を中心に、多彩な人物が交錯し繰り広げる、愛憎と刹那の人間模様を描いた名作として知られています。
≪スタッフ・キャスト≫
作 :テネシー・ウィリアムズ
演出:深作健太
出演:浅丘ルリ子/上川隆也/貴城けい/川久保拓司/内田亜希子/俊藤光利/渡辺哲 ほか
≪上演時間≫
第一幕:約1時間
第二幕:約1時間20分
休 憩:15分(劇場によって変更あり)
≪物販≫
公演パンフレット 1,500円
浅丘ルリ子自伝『咲きつづける』1,470円(直筆サイン本あり)
◇ ◇ ◇
≪あらすじ≫ (公式HPより)
絶望と快楽、過去と現在、栄華と堕落…、
人間の業と欲とプライドがぶつかりあう。
あなたを信じて付いていく…。
私をスターにしてほしい…。
虚実綯い交ぜの駆け引きが今始まる。
1950年代末のアメリカ。大女優アレクサンドラは、次第に美貌が衰え、人気も無くなり、ついに映画界に嫌気がさして失踪してしまいます。彼女はビーチボーイをしていたチャンスと出会い、彼を付き人に雇い、フロリダ南部の町セント・クラウドへ逃避旅行に出かけます。実はチャンスはアレクサンドラを利用して、ハリウッドで名声を得ようと目論んでいました。セント・クラウドはチャンスの故郷、ここで彼はかつての恋人ヘブンリーと再会し、一緒に町を出ようと彼女に持ちかけます。そんな中、アレクサンドラに思いもよらない出来事が起こります。やがて、そのことがアレクサンドラの運命を変え、そしてチャンスの人生をも狂わせてしまうのでした。
◇ ◇ ◇
“He used love like most men use money.”
今回の上川さんの役は、ポール・ニューマンも演じた「野心的な」青年チャンス・ウェイン。
↑ 青年…(苦笑)
公演初日は22日(金)昼でしたが…その日の朝にマスコミに公表された舞台衣装+ヘアメイク写真に、全国の上川クラスタの「ウソだろ!」という悲鳴と阿鼻叫喚が…!「そこ違うだろ」部分からツッコミせざるを得ないという、不安とドキドキ感いっぱいの幕開けでした。
(その写真は敢えて晒さないでおきますが、そりゃもう…)
いやお芝居はともかく「イタ過ぎて流石に目のやり場に困る」ようだったら、それはそれで情けないですもんね…(ファンとは思えない発言?)
とはいえ、いよいよ私的初日の土曜。この日はマチネとソワレを連続で観る予定。真田大楽遠征以来のワクワク感を抱え、日比谷線で北千住へ。こんなに早く次の舞台見られるなんてファンは幸せ者です。上川さん、ありがとう!
開場時間直後に到着。早速パンフレットを購入、席に着くや否や内容をチェック(ドキドキ)。
「・・・うぁ!」(パタッ!と思わず表紙を閉じるw)
心配していたビジュアルですが…ぱ…パンフレットの金髪チャンスくんの不良っぽい甘~い自堕落な感じが半端ないw思わず声を上げそう!
いやフォト○ョップ様さまというべきか(ヲイ)相変わらず驚異の上川隆也(48)クオリティー!
真田のようにウィッグではなく、短めに切られた髪をかなり明るめに染めた感じで、何だかふわふわっとしています。髪の量的に襟足が浮いてしまうのは仕方ないのでしょうか…余談ですがこれがお芝居では乱れるシーンも多々あり…色っぽいです。いや、色っぽくて若々しくて、ちょっとイタくて(笑)カッコいいです。いや上川さんご本人のお言葉を借りるなら「艶っぽい!」←人前では見られませんw
※この金茶色の髪は残念ながらウィッグであることが「ぐるナイ」で判明。地毛でも良かったのに~w
まあ今回は共演(W主演)が、昭和を代表する伝説の女優浅丘ルリ子さま(73)ですから、彼女から見たら「坊や」呼ばわりもシックリ来すぎて逆に怖いくらいです。
それでは恒例の誌上レビュー!と行きたいのですが、これから全国公演を控えているので(笑)感想のみにとどめます。
どうしても内容に触れざるを得ないところは、極力「そのまま」にならないようにします…が…私の一番の萌えシーンとかが書けないですね。暫し、おあずけ。辛いw ←
◇ ◇ ◇
文句なしに「大人が見てこそ心に刻まれる台詞とシーンの数々」――主演二人の存在感は言うまでもなく、戯曲の持つ時代背景と閉塞感、鬱屈、光と影、名声と挫折…すべてを700席程度の劇場が「濃密すぎるほどの」空気を伴って再現していた。
(冒頭のシーン)
舞台はフロリダ、セント・クラウドと呼ばれる海辺の街。そこにある「ロイヤル・パーム・ホテル」の豪奢な一室で幕は上がる。
朝の眩しく白い陽光と、復活祭のミサで演奏される讃美歌、鐘の音が空気を優しく揺らす。だがカーテンを閉めた薄暗い部屋の中、広いベッドに腰掛けているのは、乱れた白シャツ姿の男。気怠げにうつむくその姿は生気とは程遠いものだ。
ベッドのもう片方では顔を隠した女が眠っている。こちらは昨夜から酔いつぶれ、未だ意識が戻る気配もない。
男はひとつ溜め息をつき、煙草に手を伸ばす。金属音とともに灯った小さな炎が、端正ではあるが、明らかに「盛りを過ぎた」――かつてはさぞ美しかったであろう――男の暗い眼と、金茶色の髪を仄かに照らし出した。
男の名前はチャンス・ウェイン。
眠っている女は、かつて大女優の名声を恣にしたアレクサンドラ・デル・ラーゴ。
退廃と怠惰と酒、そして紫煙――第一幕は冒頭の5分ほどを除き、すべて浅丘さん演じるアレクサンドラと、上川さん演じるチャンスがホテルの一室で「その存在ごと」ぶつかり合う時間である。
第二幕は、チャンスがかつて関わった女性と、その父親、兄、古い友人たち、そしてアメリカ南部を覆う「ある動き」が、チャンスとアレクサンドラを否応なしに怒涛の中に巻き込んでいく。
その内容を詳しく書くのは控えるが、第一幕のおよそ1時間もの間、圧倒的な勢いで迫る二人のやりとりは「観客としてその場に身を置くこと」より「巻き込まれる」という感覚が先走る。
若いこと、未成熟なことにのみ絶対の価値を置くかのように「成熟」から背を向け、カワイイ、ヤバイなどと片言でしか感情を表現できない幼稚さが世代問わず蔓延している今の日本に、強烈なアンチテーゼを投げかけるような芝居、そして重い台詞の数々。
「もう若くはない」「かつては美しかった」「栄光をつかみかけて挫折する」「自分の名すら、忘れたい」…そう口にするアレクサンドラ、そしてチャンス。その言葉の意味に反して、舞台で生々しい足掻きを見せる二人の、何と美しいことか!知らず、背筋にゾクゾクと震えがくるほどに見惚れ、心を奪われた。
舞台姿が美しい、と言っても綺麗な衣装や洗練された立ち居振る舞いを指すのではない。生々しい欲望も、情念も、執着も、ドロドロに絡んだ「大人の」無様に(時に這いつくばり憐れみを乞う場面も交えて)生きる姿を見せ付けられる。
それが何故か、浅丘さん上川さんという演者を通して何とも狂おしく、愛おしくて切ない美しさに昇華していくように感じた。そして何より観客は知らず知らずのうちに二人の有り様を「我が身に置き換えて」観てしまう。
上川隆也演じるチャンス・ウェイン。久しく世間に見せていなかった「愚かさと未熟さ」だけを全面に押し出す芝居が新鮮だった。全編を通して彼の発する痛々しい程の虚勢、驕り、純粋さ、愚かさ、優しさ、哀しみ、怒り、後悔…どれを切り取っても絵になるようなリアルな質感を持って観る側の胸に突き刺さってきた。
ヒリヒリと灼けつくような滲みるような、渇望と痛みと、何とも言えない哀しみを帯びた男の色気。しかも決して「上品」ではない。下世話な表現をあえてすると、三流写真週刊誌のような、無意識に唾を飲み込みたくなる俗っぽい性的魅力。素面で酔うってこういう感覚かな…などと朦朧としつつ夜公演を観終えたころには思っていた。前頭葉から脳髄までジリジリするくらい痺れる、あの感じ。
優しい若者を、私は若者だと思わない。立居振舞いの優しさを言っているのではない。心の優しさとでもいうものである。若者が、優しく有れる筈はない。全ての事が可能だと思っている年頃は、高慢で不遜で有る方が似つかわしい。(塩野七生)――この言葉が、彼には実によく似合う。
甘く低い声、グラスを持つ手、酒を飲み干す喉元、触れれば血の温かみを感じ、身を凭せかければ優しく受け止めてくれそうな厚い胸、ふと俯いて煙草に火をつける仕草と指先。思うに「シンプルかつフィジカルな意味で」魅力的なのだ、この男は。普段は絶対に見向きもしないはず、だが心がざわめく。こればかりは理性で判断できない…「一番危険なタイプ」でもある。
だからこそ心身ともに疲れ果て傷付いたアレクサンドラが「出来心で」連れ歩く気になったのだ。キャスティングとしてはやや年齢的にムチャ振りなのは否めないが、観る側に「ふと心惹かれた、そして溺れたくなった女の感情」を納得させるだけの妖しい魅力を、上川隆也の体現するチャンス・ウェインは確かに放っていた…と思う。
↑もっと現実的な話をすると、舞台ひと幕を2人で(+何かあってもブレずにフォローして)なおかつあれだけの台詞量と運動量をキープしつつ地方公演まで回れる人、いる?!
そして浅丘ルリ子の美しさ、凄味。昼より更に夜公演のほうが「破壊力」が増していた。大女優として、女として、万華鏡のように見せる表情とたたずまいの変化。母性、力強さ、したたかさ、弱さ、少女のような可憐さ…まさに、魔性の女。
黒地にクリスタルが煌めくスーツを身にまとった彼女は、さながら黒曜石と白銀とダイヤモンドで作り上げた豪奢なジュエリーのように輝き、凛とした光を放っていた。正直、キャスティングを聞いた時に映画版と比較して各々20歳程年をとり過ぎではないか?と感じたが、日本人的な感性で観るならばアレクサンドラ役は彼女でしか成立し得ない圧倒的な説得力を持っていた。
◇ ◇ ◇
二日目(日曜日マチネ、北千住公演最終日)では、受けた印象がさらに大きく変わった。
アドリブや仕種のこなれ具合が上がったせいか?初日(土曜・通算2公演目)の棘の残った緊張感から打って変わって、シルクのように滑らかな仕上がりを感じた。第一幕は特に「いつまでも二人の会話と醸し出す空気に浸っていたい」ような蠱惑的なまでの色気が、劇場中を甘く支配していた。第二幕は静から動という変化はそのままだが、よりコントラストが強まった気がした。
特にチャンスの意図的に舌足らずさを感じさせる甘ったれた口調、底の浅い悪戯を企む笑顔、挑発的な視線、10代のように周囲を顧みず自分の見たいものしか見ない我儘さ…「生意気で可愛らしさ全開」モードに打ちのめされwアレクサンドラもまた(女性の眼から見ても)弱った女の情けない体たらくと、凛とした威厳をもった女王然とした存在感が増し、だらりと甘える仕草も、若者の我儘をピシャリと制する姿も、何とも微笑ましく美しく、台詞の内容に反して二人の交わす会話や眼差しが「甘く蕩け、交じり合い、溶け合う」芝居のアンサンブルは、覗き見的な背徳感を観る側に抱かせた。
これも「公演3日目」ならではの熟成と変化だろうか?だとしたら地方公演を経て12月日比谷に凱旋した時、いったいどんな芝居になっているのか…空恐ろしくもあり、楽しみでもあり、文字通り背筋が「ゾクゾク」する。
◇ ◇ ◇
『渇いた太陽』の扱う主題は「若さと老い」「過ぎ行く時間の残酷さ」「男と女」「罪と罰」「貧富」「差別」…多岐にわたる。演出の深作健太氏はパンフレットで「『Sweet Bird of Youth』青春という名の甘き小鳥、とでも訳しましょうか。テネシーが想いを込めて名付けた、決して捕まえられない青春を今いかに描くか…」と語っていた。
そして…美貌とは自ら願って手に入れられるものではない。多少の後天的な努力で補ったとしても、頭蓋骨の上皮一枚の差異に過ぎない。何の努力もせず偶然手にしたその甘い果実を天賦の才と錯覚したこと、時間という残酷な手により剥ぎ取られるまで気付かなかったことに、チャンス・ウェインの悲劇はあったのかもしれない。
ある場面でチャンスは静かに独白する。否、客席に向かって語りかける。
目の前の「誰か」に言い聞かせるような声音で。
そして他でもない私自身の揺れ動く感情、舞台や登場人物への好悪複雑に交じり合う想いを見通すような、まっすぐな表情と眼差しで。
僕はあなたの同情を求めたりなんかしない。
ただ、理解してもらいたいだけだ。
いや――そうじゃない。
あなたの中にいる僕に気がついてほしい。
時間という敵は、僕たちみんなの中にいるんだ。
あなたも…気づいているんでしょう?
問いかけるようなチャンスの眼差しとシルエットは、暗転に飲み込まれて消えていく。
舞台上のことは、舞台上のみで完結してはいない。
チャンスも、アレクサンドラも、彼らを眺める側の「自分の中にもいる」ということ。
リアルな感情として受け止めるには、こちらもまた膨大な時間と、酸いも甘いも含めた経験を「この身内に」宿していること、がカギとなるのではないだろうか。
ただ人生の時間を経過しただけでなく、その中に「成功体験」と呼べるものはあったか?
自分の生き方に誇りを持っていたか?
なりふり構わず何かを必死でつかみ取ろうとしたことがあったか?
美しさ、若さを失うことは避けられない。その代わりに、何を手に入れていくのか?
ただ失うことにのみ恐れを抱き、戻らない時計の針に縋って引きずられているだけ…になってはいないか?
この公演の観客層は若くはない。むしろ60代以上の年配者、女性が目立つ。
彼ら、彼女たちの眼にはアレクサンドラが、チャンスがどう映るのだろう?
どの世代でもいい。10代が見れば病的・滑稽なまでの執着も、
60代が見れば現在進行形の焦りや苛立ちになる。
20代が見れば当たりまえの属性に過ぎない若さの持つ輝きや傲慢さは、
30~40代が見れば、冷ややかな侮蔑の混じった苦笑と押し殺した羨望の的、
一方でさして古くない、未だ疼く傷痕を暴かれるような痛みが沸き起こるに違いない。
そんな過去の経験を、
彼女、そして彼と共有できる人なら、
きっと忘れられない作品になることだろう。
◇ ◇ ◇
追記(11/30)
チャンス・ウェインはビジュアルではない。演技で人を納得させる。10代の少年のまま大きくなった青年(若くないのに)の愚かしさ、浅はかさ…そして「何をするかわからない」怖さ。破滅的に生きるしかないその姿は、太陽に突っ込む彗星のように「自力では軌道を変えられない」痛々しさがある。
弁護のしようもなく自己中でバカでダメなあの男にも「一瞬の切なさ」「一瞬の哀しみ」が眼差しや仕草の合間にキラリと輝いて零れ落ちる。彼に関わる女たちがそれぞれに負う深い傷は別としても、救いがたいその姿に観る側の心がかき乱されるのは、やはり「上川隆也の芝居が好きだから」だろう。