日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

バルト3国、ポーランド旅 その8

2024-10-24 07:35:39 | 旅行・休養
昼食をレストランで済ませた後、バスで一路、アウシュビッツに向かいました。
いよいよです。

ガイドさんはアウシュビッツについての書籍まで出版されているという専門家の方でした。
アウシュビッツには第1収容所と第2収容所があり、まず第1収容所へ。
これがアノ(これまでに写真やドキュメンタリーで目にしてきたところ)、という思いが私の中に押し寄せてきました。
ガイドさんの説明は非常に重たい内容ですが、その重さをも含めたような声調での説明に引き込まれました。
「働くと自由になれる」というアウシュビッツの門のアーチ。木の葉で読み取りにくかったけれど、本物のコレの場所に来ているのだ、と。
私たちが歩いている舗装されていない通路も、連行されてきた人の強制労働によってできたものだから、そのままの状態で保存されています、と。たくさんの収容棟が立ち並んでいるけれど、ここに連れてこられたユダヤ人の70~75%の人は収容されることなく、そのままガス室に連れていかれたということです。

次にビルケナウの第2収容所へ向かいました。ここは第1収容所の7倍もの面積になるということです。
 

一枚目は各国首脳らが訪れると花束をささげるところとのこと。
線路が建物の向こうまで続いている画像は、アウシュビッツ強制収容所が語られるときによく目にする光景です。
ヨーロッパ各地から貨車に詰め込まれて運ばれてきました。耳に残っている話としては、ヨーロッパ各地からユダヤ人が貨車で輸送されたのですが、オランダからここまでは1週間もかかったとか。その間に与えられた食事はパン1斤のみ。飢えや感染症が原因で貨車の中で亡くなる人も多かったそうです。そして生き延びでここまで来ても、70~75%は直接ガス室へ。調理に使う食器類が山となって積まれている一室があります。移動先の生活のことを思って荷物に入れてきたと思うと忍びないです。
たとえ収容室に入ったとしても収容された人たちは常に飢えに苦しんでいました。ユダヤ人収容者の管理をするのもユダヤ人。同じユダヤ人収容者同士なのですが、仲間に厳しい仕置きをしたほうが食事がパン一切れでも増えるらしく、それを期待してエスカレートしていった、ということです。
ナチスドイツはいよいよ敗戦とわかると、施設の爆破をしたのですが、その一部しかかなわなくて、今もここに残っています。敗戦で瓦礫となった街の再建用の資材として使おうという動きもあったのですが、この地を訪れた生き延びたユダヤ人がここを訪問して、自分たちの苦悩の証として残したい、と思いが通って今に至っている、とのこと。
生き残ったユダヤ人の有志にりより収容所の保存がスタートしたということです。
貨車の実物も残っています。本当にニンゲンのやったことなんですね。
そして、今も戦闘が止んでいないのが現実。
出口のところにBOOKショップがあったので、日本語バージョンを購入。
2冊で約3700円。両替したけれどほぼ使っていなかったズルチ(ポーランドはユーロ圏ですが通貨はユーロではありません)で購入しました。

この見学した日に、日本人の原爆被団協の組織がノーベル平和賞に決まった、とガイドさんから聞きました。
平和を希っているのですけどね。



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バルト3国、ポーランド旅 その7

2024-10-24 06:44:40 | 旅行・休養
クラクフのホテルを9時に出発。
クラクフはポーランド第2の都市。人口80万人。人口の4分の1が大学生という学園都市でもあり、教会、大学が多い(こんなところ京都にも似ているかな)。
中央広場に面する聖マリア教会と織物博物館
  

石畳の街路を転んではいけないと注意しながらテクテク。名物と言われているパン(オブバシャネーク)のお店も街路のあちこちで見かける。ガイドさんの後を連れ立って歩く14名。ユーロ表示の価格表示を円換算しては、「高!」とつぶやいたり。円安だからね~。

バベル城


チャルトリスキ美術館
大きな手荷物はもっていなかったけれど、コートをロッカーに預けて(QRコード管理でした)入館。
館内の照明が暗くしてあるので、シャッターを使わなければ撮影OKだったけれど、私のスマホでは撮影が厳しい。

件のレオナルドダビンチの「白貂を抱く貴婦人」はメンバーからライン送信してもらった。後日付け足したいと思います。
肖像画はこの美術館の創設者のイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人(1746年~1835年)です。彼女はポーランドが消えた激動の時代(※)を力強く生き抜きました。そして祖国復活を願う男性たちが不当にポーランドを奪ったプロイセンやロシアと戦うのを見て、「私は戦うことはできないが、せめてポーランドの文化を守りたい」と、一家が所有する財宝の保護と一般公開を決意した、と
ちなみに、「白貂を抱く貴婦人」息子が美術作品好きの母親のために買い求めたものだ、と聞きました。
(※)ショパンやマリー・キュリーの時代にはポーランドという国はなかった、というのはここと重なるということなのでしょうね。もう少し勉強する必要があります。⇒ ワタシ

昼食はレストランで。

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