日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

大阪1泊旅行。

2019-04-01 09:20:21 | 歴史探訪・城巡り
充実した旅行だった。

書き留めておきたくて、ベットの中で、あのこともこのことも、と綴りたいことを思いめぐらしていたのだけれど、1週間経過して
果て、うまく書けるかどうか。

目的は、一度は訪問したい東大阪市にある「司馬遼太郎記念館」でした。
そして、もう一つは、緒方洪庵の「適塾」。
日帰りにすると行程があわただしいからと、1泊することにしました。
都市部への旅行が好きではない夫ですが、今回は同行。車で行けるのでフットワークはよくなり、助かります。
宿は、国家公務員共済経営のKKRが1室空きアリ、ということで確保できました。
場所は大阪城のお堀の南側。高層階の窓からは、広大な外堀の石垣と大阪城正面が一望できるベストロケーション。室内はリニューアルされたばかりという快適空間でもありました。

なにしろ大都市のど真ん中なので駐車場が大変です。ホテルの駐車場が翌日12時までOKとのことで、翌朝は8時半ごろにはお城に向かいました。
お城そのものはコンクリート造りですが、大阪城の歴史紹介にたっぷり浸れるので、自称歴女(苦笑)には興味深い時間でした。
5階まで、展示物、資料を観て、解説を聴きながら階段で登っていきます。
豊臣秀吉の大阪城と夏の陣で焼け落ちた後、盛り土をして作られた徳川の大阪城はそもそも別物ということを認識できました。
天守閣のある城を初めて作ったのは、織田信長の安土城(1576年)。徳川が夏の陣の後に作った大阪城は1620年代。天守閣のある城が作られたのは、この50年間だけのことというのも、今回の大阪城行で教えられたことのひとつです。

その江戸期に徳川氏が作った大阪城は石垣造成にも丁字割といって工事区間を各藩に分担させているのです(資料が残っている)。
命じられた各藩の財政的負担はさぞかし、です。徳川幕府の中央集権を徹底させるために利用されていたんですね。
手抜きは咎められ、おおきなペナルティーがあるでしょうし、取入ろうという魂胆もうごめいているでしょう。非民主社会の構図というのはこういうものかと思いながら、見学を進めました。
そのお城も40年ほどで、落雷で焼け落ちているんです。
で、徳川の直轄ですから大阪城代は常に置かれているのだけれど、大阪城はずっと再建されないまま200年ほど経過したとのこと。知らなかった~。江戸期後半(1800年代)になって、天守閣以外の部分が復元されたそうです。(・・・後日整理したいと思っています)
でも、その復元された居城の部分も戊辰戦争で焼失。また焼け落ちたということです。

そういえば、江戸城も明暦の大火(1600年代)で焼け落ちて、天守閣はその時以来再建されていない、と去年の江戸城訪問で知りました(天守台は残っている)。経済的負担を慮って天守閣の再建はしなかった、とあった記憶です。

戦闘の時代でなくなったから必要性も薄れたのでしょう。大阪、江戸、双方で天守閣の再建をしていない、という節も私にはなんだか経済の営みの一方程式のようで興味深く感じられるのです。

大阪夏の陣の前、1610年から造営に取り掛かった大きな城があります。名古屋城です。明日、友人らとここに行く予定です。
去年復元した本丸御殿が完成しました。征夷大将軍になり江戸に徳川幕府を開いたとはいえ、まだ、大阪に豊臣秀頼がいます。その大阪への備えもあって作られた城ですから、さぞかし威を誇っていたことでしょう。名古屋城も江戸期の大阪城と同じく天下普請です(外様大名に割り振って負担させた)。現代とは格段に重機の差があるのに、よくもこのような石垣が作られたものだと、感激屋の私はひきつけられてしまいます。外堀沿いの道路から眺めるだけで城内に入ったのは2度ぐらいでしょうか。久しぶりの名古屋城も楽しみです。

アレレ、話が城話(しろばなし)にそれてしまいました。オソマツ。

司馬遼太郎記念館と適塾は、ホームページを貼っておきます。
それぞれ感想は、たっぷりあるんですけどね。苦笑











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