今日はやっと晴れました。
夕方サークルから出してもらった獅子丸は、隣のタバサねーちゃんのお部屋に飛び込みました。
そして、ぬいぐるみを盗もうとしたのです
珍しくタバサねーちゃんが小次郎パパと先にお散歩に出ていて、ドアが開いていたのです。
タバサねーちゃんは、ぬいぐるみをくわえて、ウエルカムダンスをします。
実は獅子丸も、ぬいぐるみをくわえて、ウエルカムダンスをします。
彼のぬいぐるみは、養家に置いてきてしまいました
ぬいぐるみを用意してあげなくては
ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を南に出ました。
4月に換毛が終わったはずですけど、また二人ともモコモコです。
権八地蔵のあと、久下次郎重光開基という東竹院に寄りました。
丸に「一」の久下氏(くげし)の家紋が目立ちます。
Wikipedia久下氏に、この家紋の由来があります。
簡単にまとめると、
源頼朝が挙兵したときに久下重光が一番に駆けつけてたので、一番の家紋を授けた。その後、足利尊氏が挙兵した時も一番に馳せ参じた。
門を入って左に、六地蔵とお地蔵尊がいます。
ええ 、白いおがけだあ
白いおがけのお地蔵様、初めてお目にかかりました。
何かいわれでもあるのでしょうか?
さらに左に行くと、達磨(だるま)石がありました
大きくて重そうです。
右のとがった小ぶりの石には、この達磨石の由来があります。
ちょっと読みにくいです
ちょうど、境内を散策中のおじさんとおばさんがいて、この達磨石のことを話してくれました。
江戸時代の寛文5年(1661)に忍藩(おしはん)の殿様が、秩父山中で達磨の形をした石をみつけた。すっかりこの石が気に入った殿様は、忍城(おしじょう)に運ぼうとした。荒川を筏(いかだ)に乗せて下り、ここらあたりまで来たとき筏がこわれ、達磨石は川底に沈んでしまった。260年後、大正14年(1925)荒川の砂利採取中に発見され、東竹院に運ばれた。
260年間も、よくぞ割れずに川底にありました
中央のくぼみは、長い間の川の流れで削られたものだということです。
お話ありがとうございました
本堂にお参りです。
久下氏の家紋・丸に一の文字が目立ちます。
梅龍山とあります。
向拝には、やはり龍、双龍がいます。
庫裏を訪ねて御朱印をいただこうとしました。
「御朱印はやっていません」の貼り紙がありました
気を取り直して、久下氏の墓という五輪塔を探します。
わりと目立たなく、ありました。
二基あります。
かなり古いものです。
形がかなり違います
境内に、分かり易い説明板等はありませんでした。
この寺の由来が、さりげなくあります。
まあなんとか読めそうです。
曹洞宗梅龍山東竹院と称す。開基は豪族久下次郎重光公にして、建久二年(1191)比叡山天台の高僧月擔承水法印を請し開山す。
初めは天台宗だったのですね。
久下氏の家紋の由来もあります。
深谷城主・上杉憲賢の中興開基とあります。
達磨石の由来もあります。
もう一度、達磨石に合掌して、家路につきます
権八地蔵に行ってきました・総集篇 完
雨の一日です。
獅子丸は、今朝、レインコートを着てお散歩できました
写真がないのが残念。
実は実家に帰って、2度目のレインコート散歩です
養家にいるころは、けっして着ようとはしませんでした。
ぬれてもお腹もふかせませんでした。
最近になって、お腹も触らせるようになっています
ひめちゃんと堀之内の北方面を歩いて来ました。
権八地蔵の隣に、久下権八公園(くげごんぱちこうえん)があります。
遊具がいくつかある公園です。
公園側からみた権八地蔵です。
公園には、大きな碑と道標があります。
道標は上の写真では、右下に頭だけ見えます。
碑の前(後ろ)のカルタ(?)には、「篆額は伊藤博文熊谷堤の碑(てんがくは・いとうひろぶみ・くまがやづつみのひ)」とあります。
熊谷堤とは?
検索すると、埼玉県立歴史と民俗の博物館のHPに、「(第九)岐阻道中 熊谷宿 八丁堤の景(きそどうちゅう くまがやじゅく はっちょうつつみのけい)」の浮世絵があります。
www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/index.php?page_id=402
備考欄に、
茶屋で一服する孫と飼葉を食む馬。中央には駕籠にに乗る人とお付きの者たち。道標には「右 おしげうだ(忍行田)」「左 深谷二里廿丁」とある。
画面左手の茶店は、さっき通った「みかりや」です。
画面右手が熊谷堤の終点で、道標の隣にお地蔵様がいます。
松の木の陰でちょっとわかりにくいですけど。
簡単な屋根もついてます。
さっき逢ってきたお地蔵様です
ということは、お地蔵様は「みかりや」の前に立っていたんですね
「みかりや跡」付近に、上州の人間にはよくわからないカルタがありましたけど、やっと意味がわかりました
あそこだったのです。
あそこが、熊谷堤の終点で、中仙道を行き交う人々で賑わっていたのです
当初の予定では通る予定でなかったけれど、絹屋弥市さんのお導きでしょうか
検索していく中で、熊谷堤は最初は、鉢形城主・北条氏邦によって築かれたと知りました。
戦国武将は戦ってだけいたのではなく、治山治水も大事な仕事だったのです
山上にいたと言われる山上氏にそんな治山治水の話があるといいのですけど、とんとそんな話もありません
公園の熊谷堤の碑については、どこにも見つかりません
公園の道標は、浮世絵の道標とは違うようです。
左中仙道、正面は笑福、右はよくわかりませんが熊谷宿の文字があるようです。
この道が中仙道だったのですね
荒川土手に上ります。
向こうは秩父かな?
左岸の土手に小さな祠があります。
水辺を守る九頭竜様(みずべをまもる・くずりゅうさま)です
お仕事をしてもらうには、移転しない方がいいですよね
この土手を「みかりや跡」の方に行き中仙道を、熊谷市のHPでたどってみました。
やはり、深谷に行きます
それも、深谷市役所のある国道17号線ではなく、田中藤左衛門商店・七ツ梅の通りに出ます
初代田中藤左衛門は、正徳4年(1714)に竜骨を持って、山上の常広寺にやって来ました。
その後、銘酒七ツ梅の醸造を始めたのです。
ひめちゃんちにも、紫陽花がいろいろ咲き始めました。
紫陽花は、土によって花の色が違います
モナリザと名札がある地植えの紫陽花です。
同じくモナリザと名札がある鉢植えの挿し木苗です。
ウーン、どちらもいいです
ひめちゃんは、朝も夕方も、獅子丸と元気にお散歩です
獅子丸は意外と道を知ってます
土手の下に見える建物、あれは権八地蔵(ごんぱちじぞう)です
やっと、到着しました
権八地蔵尊です。
まるで、権八が祀られているような命名です。
そう勘違いした人もいます
殺害された上州大間々の絹屋弥市の近くの住民としては、ちょっと違和感を覚えます
権八と会話したお地蔵様が祀られているのですよね。
左の白いポールの側面に由来があります。
元禄十一年(1698)に造立された地蔵。江戸時代に平井権八という男が罪を犯し、お地蔵様に向かって、「誰にも言うな。」と明かしたところ、「我は言わぬが、汝こそ言うな。」と答えたという逸話で知られています。
正面です。
たくさんの小さなお地蔵様がいます。
ほぼ全部お地蔵様です
荒川改修工事で、皆さん転居してきたようです。
「こんにちは。絹屋弥市さんの故郷の隣村から、来ました」
あなたが、目撃者ですか?
向かって右下に同居しているのはどなたでしょう?
左下にも、同居者がいます。
どなたかよくわかりませんが、火炎があるので不動明王像でしょうか?
人生川の流れの如し、よきほうに流れるように、今日も権八地蔵尊のご加護がありますように
静かに手を合わせます、合掌
さて、付近をちょっと探索です。
道を隔てた向かいは、久下権八公園です。
大きな碑と道標があります
行ってみましょう
獅子丸は実家の暮らしにも慣れて、お散歩前に少し待っていることができるようになりました。
ひめちゃんの用意ができるまで、待ちます。
ひめちゃんと、堀之内を西に出て、諏訪神社の西の高台を南下します。
振り返ると、赤城山が姿を現すところです
左端の木々の向こうに、上野第四の碑・山上多重塔があります
先日(昨年の12月2日)、偶然に大間々で絹屋弥市(きぬややいち)の石灯籠に出逢いました。
「大間々町誌」によると、熊谷の久下(くげ)の渡しで白井権八(しらいごんぱち)に殺された絹屋弥市の供養塔だとあります。
さらに、権八地蔵の話があります。
久下の荒川土手で、白井権八が上州の絹商人を殺して300両という大金を奪った時、フト見ると、傍らに石地蔵があったので良心がとがめ、「このことは黙っていてくれ」と祈ったところ、石地蔵が、「我は言わぬが汝言うな。」と口を開いた
そして、この「ものいい地蔵(権八地蔵)」は、まだあるというのです。
では、行ってみましょう
妻沼(めぬま)廻りで、行くことにしました。
(この日は今年の1月6日でした。)
利根川は刀水橋(とうすいばし)を渡って、「道の駅めぬま」を横にみて下ります。
とりあえず、付近の寺院・東竹院をナビの目的地にして出かけました。
東竹院のさきをしっかり頭の中に入れてきたつもりですが、一方通行や通行止めがあり到着できません
権八地蔵の住所がメモしてあったので、住所で検索です。
ナビ様のいう通り、細い道で不安でしたけど進みます。
あれ、みかりや跡の表示です
中山道を往来する旅人を相手にして、繁盛していたんですね
たぶん絹屋弥市も、ここに寄ったことがあるのでしょう
中山道は、ここだったのですか
なんとなく弥市さんの引き合わせでしょうか
道なりに荒川の土手に出ます。
久下の渡し・冠水橋跡がありました
裏側です。
碑の右に説明板があります。
久下の周辺の歴史がよくまとまってます。
この地は鎌倉時代には、熊谷次郎直実の叔父の久下氏の領地で、やや下流に館もあったといわれる。江戸の頃、幕府の施策でこの一体は荒川の付け替え大工事が行われ、現在の荒川になった。以後、明治の鉄道開設まで、江戸との舟運の起点、久下新川河岸として栄え、帆を張った早船や中仙道の旅人で賑わった。舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年県道の一部として久下冠水橋が架けられた。
そうだったのですか
絹屋弥市もここを通って上州と江戸を行き来していたんですね
思いがけず、不思議な巡り合わせでした
行く手の土手の下に、ストリートビューで見た建物が見えます
権八地蔵関連の記事が5件yahooブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅡ」にあります。
消えてしまう前に再編集して、「権八地蔵に行ってきました・総集篇」として残したいと思います。
まずは、殺された「絹屋弥市の石灯籠」からです。
黒柴家族の話題は、懐かしい小次郎パパの子供の頃なので、ほぼそのままです。
小次郎パパも、もうすぐ13歳になります。
来てまもなくの、生後3ヶ月の写真が残ってます。
たぶん使い捨てカメラでとったのかな、少しボケボケですけど。
三四郎・サマンサそして七海という、先住犬がいるところに養子に来たので、だいぶ神経を使っていたようです。
ちょっと神経を使ってます。
隣でグウスカ寝ているのは七海です。
だんだん七海ねーさんとも打ち解けて、やがて「ななちゃん大好き」になります
さて、(みどり市大間々町)桐原から帰ります。(この日は昨年の12月2日です。)
史跡地図に「でんぐり薬師」というのがありました。
どんな薬師様だろう、探しながら路地を入ると、石造物がいっぱいの場所がありました。
おじさん、邪魔
でも、石灯籠の大きさがわかりますね。
奥に赤い屋根の小さなお堂があります。
観世音菩薩とあります。
ハードロックではなかったので、ちょっと失礼して、直接拝ませてもらいました。
長い年月人々を見守り続けたのですね、合掌
静かに扉を閉めます。
でんぐり薬師ではなさそうです。
結局でんぐり薬師は見つかりませんでした
大間々町は町史を編集するとき、町内の石造物を細かく調査して、『大間々町誌別巻7石造物編』をまとめました。
ここの石造物、もしかしたらあるかな?
ありました
「絹屋弥市(きぬややいち)の石灯籠」です。
この人は江戸を往復し絹の商売をしていたが、あるとき熊谷の久下(くげ)の土堤にさしかかったとき、賊に襲われて三百両の金を奪われ殺されてしまった。この賊こそ歌舞伎「鈴ヶ森」で知られる白井権八であった。観音様の墓地と称する墓地に、竿(さお)が長く、火袋は火を入れるところが少し空いている石灯籠がたっている。この石灯籠は絹屋弥市を供養するために造立したもので、熊谷方面を向いているという。銘は為一法夢心禅定門菩提造立者也、施主糟川又右衛門、于時万治元年戌天四月二十三日敬白とある。
ええ、白井権八(しらいごんぱち)に殺されたんですか
鈴ヶ森は処刑場として有名でした。
ここで、権八が幡随院(ばんずいいん)長兵衛に、「お若けえの、待たっせやし」とよびとめられるのです。
この出会いの場面が、歌舞伎「鈴ヶ森」だそうです。
白井権八は本名は平井権八といい、因幡藩でもめ事の末同輩を斬って江戸に逃げてきて、江戸の町で辻斬りを繰り返し、最後は鈴ヶ森で処刑されたといいます。
さらに石造物編には、
この久下上分の堤の端に今も権八地蔵と呼ばれる地蔵があり、人々から「ものいい地蔵」と呼ばれている。これは白井権八が路銀に困り、この堤で上州の絹商人を殺害し三百両という大金を奪ったとき、フト見ると傍らに石地蔵があったので良心がとがめ、思わず「このことは黙っていてくれ」と祈ったところ石地蔵が、「我は言わぬが汝言うな」と口を開いたというのである。
とあります。
今でもあるのかな?
奥の観音様については、資料は見あたりません。
それにしても、三百両もの大金を懐に、江戸と大間々を行き来する絹商人がいたなんて