黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

松嶋弥四郎を和睦の使者にたてられけり(久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 3)

2024-12-20 20:25:48 | 桐生老談記の世界

あれえ、カバ丸が居ない

朝のお散歩が終わって、ちゃんたちの朝ご飯も済んで、ガーデンパトロールにでたおかあさんが発見しました。

しばらく前に、七海地蔵の後ろの土中から、獅子丸と一緒に埋めたぬいぐるみのカバ丸が出現しました。

ここには、七海ママ&小次郎パパ&獅子丸が眠っています。

チューリップの求婚を埋めてビオラも植えました。

カバ丸は、獅子丸のお部屋に連れ帰ろうか散々迷いましたけど、やはり獅子丸のそばに居るのがいいと判断しました。

ところが、居ない

足跡もない

付近を見ると、50cmくらい離れた、バラアーチの根元にうつ伏せに倒れています。

何者かが、ここまで運んだのかな

疵も付いてなくて良かった。

獅子くんのそばの定位置に戻しました。

 

今日は2019年12月の獅子くんアーカイブです。

実家に蹴って半年、実家の生活を謳歌していたね

 

 

 

 

久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 3

当家の知行は、天喜五年戌酉(1057)、源義家公の御教書を以て拝領せしより此方歳霜五百八十年が間、誠に何方よりも拝領せられたる事なし。

しかしながら桐生は近国の領主なれば、数代桐生の武名に従い来たりし候。

尤も桐生は武田の旗下なるに、尚また其の旗下に随はんこと、心外なれども、古代の例を以て従わんに何の悔やむ事あるべからず。

いらざる我慢の旗を揚げて、大軍を引き請け、数代の家を破滅せしめん事、無益なり。

然るべきは和睦を請い、今度の大軍止めなば、当家繁栄たるべし。」と申されければ、阿久沢どのを初め上下の感心限りなく、松嶋弥四郎を和睦の使者にたてられけり。



あらすじです。

(松嶋式部が)
当家の知行は天喜5年(1057)年に、源義家公の御教書を以て拝領したものです。
それから現在まで580年の間、どこからももらっていません。
しかしながら、桐生は近くの国の領主なので、数代の間は従ってきました。
今桐生は武田の支配下にあるのに、またその下に従うことは心外なことですが、古代の例を鑑みるとたいした問題ではありません。
へたに籠城して滅亡しても無益です。
和睦を願って、今回の大軍を止めましょう。
そうすれば、また当家の繁栄があるでしょう。」と、いう。

阿久沢氏を初めとして、身分の上の人も低い人も、みんな納得して、松嶋弥四郎が使者にたてられた。



黒川衆の領地は、天喜5年(1057)年に源義家の御教書を以て拝領したとされてきました。
しかし、最近はそれは嘘であるという説の方が、一般的になりつつあるようです
黒川衆が、独立性を保つ為に造られた嘘だとか
戦いに敗れ流罪になる安倍宗任(あべのさだとう)に、奥州から上州の黒川谷まで何百人も付いてこれる訳はありません

桐生が武田の支配地になったと、作者は度々いいます。
実際はどうなのでしょうか?
現在の桐生市街にその記憶はないようです

ここでは、黒川衆は、しっかりまとまった一つの家中のように描かれています。
しかし、実際は、もう少しゆるやかなまとまりだったような感じを請けるのですけど


初稿  2020.02.23

改稿  2024.12.20

 

( 久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事  終 )

 

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