先の大戦中、私は4歳から6歳までの三年間、父母の故郷 宮崎県西臼杵郡日之影町のあるお宅に疎開しておりました。勿論、父母の下を離れてです。北九州への米軍の空襲が一段と激しくなった頃だし、何と言っても食べ物が少なくなってきておりました。ここは高千穂町の近くで正に平和そのものの山里。食べ物は豊富だし、こぼれんばかりの自然の中で育てられました。今日、私があるのはこの疎開先の皆さんからの親身なお世話があったからです。
そして、この村の光景は幼い私の目にしっかりと焼き付きました。あの田んぼ、あの小川、あの山々。私はこの空気の中で育ったのです。当時、お世話になった多くの方は他界されました。最後のお一人も今や90歳を越えて入院されております。お見舞いとお墓参りのために、盆明けにこの地に参りました。建物はほとんどが新しくなったものの、地形、山並みは当時とそんなに変わっていません。この光景を目の当たりにして、しばし涙が止まりませんでした。
大事な大事な人々。感謝してもしつくせないこの思い。
”ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川” この歌を聞くと、この光景が浮かぶのです。
そして、この村の光景は幼い私の目にしっかりと焼き付きました。あの田んぼ、あの小川、あの山々。私はこの空気の中で育ったのです。当時、お世話になった多くの方は他界されました。最後のお一人も今や90歳を越えて入院されております。お見舞いとお墓参りのために、盆明けにこの地に参りました。建物はほとんどが新しくなったものの、地形、山並みは当時とそんなに変わっていません。この光景を目の当たりにして、しばし涙が止まりませんでした。
大事な大事な人々。感謝してもしつくせないこの思い。
”ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川” この歌を聞くと、この光景が浮かぶのです。