落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(64) 

2013-08-23 10:24:12 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(64) 
「やぐらの有る建物が林立する路地道を、腕を組んで歩くふたり」




 「スクーターは置いて、歩いたほうが見て回りやすい。
 15分もあればすべて見て歩ける集落だから、そのほうが勝手も良い。
 なにしろ明治のはじめに形が作られた田舎の集落だ。道路もろくすっぽ整備されていない。
 まぁ。桑畑の中に突如として次々と建てられてきたのだから、
 それもまた、まったく無理のない話だ」


 と笑う田島邸のご当主に見送られ、康平と千尋が周囲の散策のために歩き出します。
センターラインの無い4mそこそこの舗装された農道は、まっすぐ南へ向かって伸びたあと、
突然T字路の突き当りとなり、前方は一面の野菜畑に変わってしまいます。
 
 「じゃあ、この辺の路地道から探索と行くか」



 畑以外には何もないことを確認した康平が、ひょいと脇道へ逸れていきます。
鬱蒼とそびえる大きな風よけ用の生垣を抜けていくと、いっぺんにふたりの目の前が開けました。
開けた視界からは左右同時にやぐらがそびえている農家の、巨大な母屋が二人の目に飛び込んできます。
右側に見えたのは明治維新の翌年、1869年に建てられたという母屋です。
「凄い・・・・」とスキップでもするかのように、後方から追いついてきた千尋が突然康平の右腕を取ると
有無を言わせず、恋人たちのようにからみついてしまいます。


 「なんとまぁ・・・・大胆だねぇ。君は」と康平が振り返っても、「うふっ」と笑うだけで、
軽くスキップを続けながら、千尋が上機嫌のままに斜め前方へ出ます。


 出現をした母屋の間口は22メートル。奥行きは13メートルの総2階建て。
屋根の頂には、島村の養蚕農家の象徴ともいえる「やぐら」と呼ばれる小窓が3つ見え、
蚕種を取る目的のために造られた『清涼育』式の母屋です。


 「2階の上には、幅10センチほどの板が、
 45センチほどの間隔で、すのこのように張られた『3階』がある。
 そこから、はしごで上にあるやぐらまで上り、窓を開けられる構造になっている。
 3階には、桑かごなどの養蚕道具などを収納していたそうだ。
 2階は広いので小学生のころは、近所の友達と追いかけっこや鬼ごっこ、
 隠れんぼなどをして遊んだと言う」


 「あら、詳しいのね。 
 道理で話が長いと思ったら、バイクの他にもいろいろと情報を仕入れてきたようです。
 なかなかやるじゃないの。もと赤城山最速の暴走族は」


 「君も五六から、余計な情報を仕入れてきたようだね。
 もう30歳になる。昔のような暴走行為などするもんか、命がいくつあっても足りない」


 「10年前に台湾の極上ワインを載せて、赤城で最速のタイムを叩き出したと聞きました。
 しかもワインをほとんどこぼさずに、なめらかに滑るように走り抜けたと賞賛までしていました。
 美人で超ナイスバディなんですって・・・・その台湾産のワインの方は」

 「あのやろう・・・・余計なことまで喋りやがって」


 「スクーターのバックシートって、もう少し怖いかと思い実は内心は緊張していました。
 シートの感触の良さと柔らかいクッションに驚きましたが、
 それ以上に、安定感のあるスムーズな運転ぶりにちょっぴりと、あなたに感動すらを覚えました。
 4輪のドライブにも劣らない快適性と、開放感のある走行は、やみつきになりそうです。
 それにフォルツァというスクーターも、とってもお洒落で素敵です。
 いっぺんにスクーターという乗り物が、大好きになってしまいました」



 (ついでに、あなたも)と言いかけた千尋が、あわてて言葉を呑み込みます。



 「さきほどの話しの続きを聞かせてくださいな。
 田島邸の趣とは異なり、こちらは屋根の上には、やぐらが3つ載っています。
 それにしても大きいですね。田島邸から比べてもひとまわり以上も大きく見えます」


 「毎年、4月下旬になると今まで使っていた南側の1番日当たりの良い部屋を
 稚蚕の飼育室にするために明け渡すそうです。
 蚕の季節になると、ほとんどの部屋が蚕室として使われます。
 年寄りは動かなくていいように離れで暮らしますが、ほかの家の者は『おろし』という
 下屋の1部屋に移って生活をします。
 家自体が蚕を飼育するための工場で、人間は蚕のいないときに
 蚕室を使っているような暮らし方をしています。
 当時の農家は、現金収入の大半を、こうして養蚕に頼ってきました。


 蚕種を取るための原蚕飼育は特に難しく、技術によって当たりと外れが発生をします。
 当たりを目指して、昔は家族全員が協力するのは当然のことでした。
 この農家の当主が物心がついた昭和10年代の頃、
 ここには、1年を通して桑園の手入れをする3、4人もの番頭さんがいたそうです。
 蚕が家にいるようになると、臨時雇いの人たちも含めると
 20人ぐらいの人たちが働くようになって、とてもにぎやかになったと言います。
 大正時代の半ばに、鉄板と鉄製の棒で、一度補強をしているそうです。
 大工さんは、雨さえ漏らなければこの先、100年は大丈夫と太鼓判を押したそうです。


  島村は、できるだけ自然に任せる養蚕の飼育法「清涼育」を説いた技術書
 「養蚕新論」を著した田島弥平(1822―98年)を生んだ土地です。
 やぐらは、同書の指導に基づいて、蚕室の通気を良くするために設けられたもので、
 島村地区にはやぐらを設けた養蚕農家の、70棟が現在でも残っています。
 しかし後継者がいなくなったり、老朽化のため、ここ数年は急激に姿を消しはじめています。
 屋根の改修の際に、やぐらを撤去する農家もあるようですが、
 こちらでは3つ有るやぐらを、あえてそのまま外観として残したそうです。
 2つは内部から閉めたそうですが、1つにはサッシ戸を入れ、
 今でも開けられるようになっています。
 過去には絶対に必要だったやぐらも、今の生活にはまったく必要ありません。
 でもやぐらを取ってしまったら、島村の養蚕農家ではなくなってしまいます。
 『生きている間は、このままの形で残しておきたい』と、ほとんどの人が心から思っているのです。
 その想いの中にこそ島村で生まれ育った人たちの、共通の誇りがにじんでいると思います」



 「私も、その通りだと思います。
 建物の維持管理は大変でしょうが、かけがえのない文化の名残です。
 100年を超えて生き残ってきたものたちです。
 すべてを残して欲しいとは言いませんが、主だったものだけでも、
 未来の子供たちに見せてあげたいと思います。
 シルクの織物が何世紀も超えて生き続けるように、繭や蚕を育て上げてきた
 この建物たちも、同じように未来永劫に残してあげたいと思います。
 でもそれには、膨大な費用もかかるし、人手もいります。
 かつての文化や伝統を守り抜くということは、実は多くの人々の献身的な努力を必要とします。
 よくぞここまで残したものだという遺跡や建物たちには、かならず、
 必死で守り抜いた、多くの人たちの努力の姿が刻まれています。
 がんばれ、島村。がんばれ千尋って。
 そんな声が私には、ふと、どこからか聞こえてくるような気もします。
 やっぱりよかった。ここへきて。(あなたをもっと好きになってしまいそう、うふっ)」



 左右に、はるかな高さを持つまるで目隠しのような生垣が現れてきました。
かつての日本建築や日本の庭づくりに、なくてはならない機能を果たしてきたのが生垣の存在です。
防風や防火、隣家や通行人からの目隠し、あるいは景観をつくり、庭の中の仕切りなどの
役割を果たしてきた大きな生垣が、やぐらのある建物の1階部分を隠しはじめました。
右側を覆っているサザンカは、秋から冬へかけて蕾と、可愛い花を咲かせます。
北側にあたる左側のサンゴジュは、大型に育つ生垣で、葉の色と赤い実が長いあいだ楽しめます。



 周囲からの視界が消えたとき、千尋がそれまで抱きしめていた康平の右手へ、
ふと身体全体で寄り添い、ゆるやかに重みまで傾けてきました。
それを受け止めた康平も、応えるように、そっと千尋の肩へ手を回します。



 

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