オヤジ達の白球(20)総合木土職
閉店間際、珍しい男が姿を見せた。
アイロンの効いたYシャツに、青いストライプのネクタイを締めている。
ただし上着は、背広ではない。見るからにアイロンの効いた土木の作業着を着ている。
「よう。すこしいいか?」
祐介の返事も待たず、男は勝手に椅子を引きカウンターへ腰を下ろす。
「待ち合わせの約束をした。
そういうわけだ。邪険な顔をしないで、たまには飲ませてくれ」
男は祐介の同級生。秀才のひとりで、県庁へ勤めている柊(ひいらぎ)洋一。
某国立大学をトップクラスの成績で卒業している。
卒業後。超難関と言われている地方上級公務員の試験を一発で突破した。
地方上級公務員の試験は、3段階ある公務員試験のうち最上級にあたる超難関。
これに合格すると畏敬を込めて「キャリア」と呼ばれる。
別の言い方をすれば、エスカレ―タ式に将来、県庁のトップまで上り詰めていく人間、
あるいは人種ということになる。
「お前。また物好きをはじめたんだって?。
酔っぱらいどもを集めて、ど素人どものソフトボールチームを作るため、
奔走しているという話を聞いたぜ?。」
「監督をやってくれと頼まれた。
なんだ。お前もソフトボールをやる気になったのか。やるのならいつでも大歓迎だ。
肥満体型の改善のためにも、運動は必要だろう」
「笑わせるな。一般の俗人どもと、俺さまを一緒にしないでくれ。
官僚を夢見て、出世街道を突っ走った身だぜ。
可笑しくていまさら、庶民どもと、ソフトボールなんか出来るもんか」
「よく言うぜ。その恰好は、官僚を夢見た男のなれの果ての姿だろう。
それとも今のキャリアは、そんな風に、Yシャツとネクタイの上に土木の作業着を着るのか?」
「競争に負けると、本庁からの都落ちが待っている。
いまじゃ出先機関で所長をしている。
総合土木職という現場だ。
ここがまた、年中休みなしという忙しすぎる場所だ。
公務員といえばみんな暇を持て余し、遊んでいるように見られている。
だがどっこい、現場はすこぶる忙しい。
予定は毎日すし詰めだ。決められたスケジュールをこなすだけでクタクタだ。
今日は運がいい。22時前に帰ってくることができたからな。
いつもから見れば、ずいぶん早い帰宅だぜ」
「そんなに忙しいのか、外部で仕事する総合木土職ってのは。
公務員は、急がず、慌てず、仕事せずの3拍子が揃っているとばかり思っていた。
お前さんのような例外もあるんだな。
仕事に追われる公務員も居るのか。
へぇぇ・・・初めて知ったぜ。衝撃の事実というやつを」
「国道と県道を維持して、修繕するのが俺たちの仕事だ。
植樹帯の管理や舗装の修繕、交差点の整備、橋梁の耐震補強工事なども担当する。
ゲリラ豪雨の対策もやっているぞ。
アンダーパス部(交差する鉄道や道路の下をくぐる部分)の冠水を、
瞬時に察知するための「冠水感知システム」を設置している。
整備の終わった交差点で渋滞が減ったり、歩行者が安全に歩いている姿を
目にすると、けっこうなやりがいを感じる。
捨てたもんじゃねぇなぁこの仕事もと、そんな風に感じている今日この頃さ」
「落ち武者にしては、殊勝なこころがけだ」
「聞き捨てならねぇな。誰が落ち武者だ!」
「出世レースに敗れ、出先機関へ飛ばされれば、誰が見ても立派な落ち武者だろう。
それともなにか?、まだ懲りずに、復活のための野心でも温めているのか?」
「いや。いまのままで充分だ。
と言うより俺も充分に疲れてきた。
そろそろ早期退職をしてもいいな、なんて、ふと考え始めてきた」
「早期退職する?。
民間の企業じゃあるまいし、50歳になったばかりでやめちまうのか。県庁を。
それじゃあまりにも勿体ねぇ話だろう」
「そうでもない。定年まで居るよりはるかに条件がいい。
お前。公務員の世界に、早期退職の制度があるなんて聞いたことがないだろう。
もちろん。自分から辞めたのでは一文の得にもならない。
50歳以上の職員が退職勧奨を受けた場合、残りの年数に20%を掛けて、
割増の退職金を受け取ることができる。
いますすめられている改正案では、退職勧奨の年齢を45歳まで引き下げる予定だ。
見返りとして、40%の割増をおこなうという。
だが問題がある。
退職勧奨というハードルが有る。
自分から勝手に応募することができないという、厳しい制約がついている。
それが民間企業と大きく異なる点だ。
勝手に辞めることができない。そいつが公僕という、公務員の身分の哀しさだ。
早期退職制度をあてにして、好き勝手に辞めることができないようになっているんだ。
通常の定年退職や、自己都合による退職には、割増の退職金制度は適用されない。
だから45歳以上になった公務員は、自分がいつ退職勧奨の身になるのか、楽しみにしている。
そんな連中が、本庁内にはけっこう大勢居るんだぜ」
(21)へつづく
落合順平 作品館はこちら
閉店間際、珍しい男が姿を見せた。
アイロンの効いたYシャツに、青いストライプのネクタイを締めている。
ただし上着は、背広ではない。見るからにアイロンの効いた土木の作業着を着ている。
「よう。すこしいいか?」
祐介の返事も待たず、男は勝手に椅子を引きカウンターへ腰を下ろす。
「待ち合わせの約束をした。
そういうわけだ。邪険な顔をしないで、たまには飲ませてくれ」
男は祐介の同級生。秀才のひとりで、県庁へ勤めている柊(ひいらぎ)洋一。
某国立大学をトップクラスの成績で卒業している。
卒業後。超難関と言われている地方上級公務員の試験を一発で突破した。
地方上級公務員の試験は、3段階ある公務員試験のうち最上級にあたる超難関。
これに合格すると畏敬を込めて「キャリア」と呼ばれる。
別の言い方をすれば、エスカレ―タ式に将来、県庁のトップまで上り詰めていく人間、
あるいは人種ということになる。
「お前。また物好きをはじめたんだって?。
酔っぱらいどもを集めて、ど素人どものソフトボールチームを作るため、
奔走しているという話を聞いたぜ?。」
「監督をやってくれと頼まれた。
なんだ。お前もソフトボールをやる気になったのか。やるのならいつでも大歓迎だ。
肥満体型の改善のためにも、運動は必要だろう」
「笑わせるな。一般の俗人どもと、俺さまを一緒にしないでくれ。
官僚を夢見て、出世街道を突っ走った身だぜ。
可笑しくていまさら、庶民どもと、ソフトボールなんか出来るもんか」
「よく言うぜ。その恰好は、官僚を夢見た男のなれの果ての姿だろう。
それとも今のキャリアは、そんな風に、Yシャツとネクタイの上に土木の作業着を着るのか?」
「競争に負けると、本庁からの都落ちが待っている。
いまじゃ出先機関で所長をしている。
総合土木職という現場だ。
ここがまた、年中休みなしという忙しすぎる場所だ。
公務員といえばみんな暇を持て余し、遊んでいるように見られている。
だがどっこい、現場はすこぶる忙しい。
予定は毎日すし詰めだ。決められたスケジュールをこなすだけでクタクタだ。
今日は運がいい。22時前に帰ってくることができたからな。
いつもから見れば、ずいぶん早い帰宅だぜ」
「そんなに忙しいのか、外部で仕事する総合木土職ってのは。
公務員は、急がず、慌てず、仕事せずの3拍子が揃っているとばかり思っていた。
お前さんのような例外もあるんだな。
仕事に追われる公務員も居るのか。
へぇぇ・・・初めて知ったぜ。衝撃の事実というやつを」
「国道と県道を維持して、修繕するのが俺たちの仕事だ。
植樹帯の管理や舗装の修繕、交差点の整備、橋梁の耐震補強工事なども担当する。
ゲリラ豪雨の対策もやっているぞ。
アンダーパス部(交差する鉄道や道路の下をくぐる部分)の冠水を、
瞬時に察知するための「冠水感知システム」を設置している。
整備の終わった交差点で渋滞が減ったり、歩行者が安全に歩いている姿を
目にすると、けっこうなやりがいを感じる。
捨てたもんじゃねぇなぁこの仕事もと、そんな風に感じている今日この頃さ」
「落ち武者にしては、殊勝なこころがけだ」
「聞き捨てならねぇな。誰が落ち武者だ!」
「出世レースに敗れ、出先機関へ飛ばされれば、誰が見ても立派な落ち武者だろう。
それともなにか?、まだ懲りずに、復活のための野心でも温めているのか?」
「いや。いまのままで充分だ。
と言うより俺も充分に疲れてきた。
そろそろ早期退職をしてもいいな、なんて、ふと考え始めてきた」
「早期退職する?。
民間の企業じゃあるまいし、50歳になったばかりでやめちまうのか。県庁を。
それじゃあまりにも勿体ねぇ話だろう」
「そうでもない。定年まで居るよりはるかに条件がいい。
お前。公務員の世界に、早期退職の制度があるなんて聞いたことがないだろう。
もちろん。自分から辞めたのでは一文の得にもならない。
50歳以上の職員が退職勧奨を受けた場合、残りの年数に20%を掛けて、
割増の退職金を受け取ることができる。
いますすめられている改正案では、退職勧奨の年齢を45歳まで引き下げる予定だ。
見返りとして、40%の割増をおこなうという。
だが問題がある。
退職勧奨というハードルが有る。
自分から勝手に応募することができないという、厳しい制約がついている。
それが民間企業と大きく異なる点だ。
勝手に辞めることができない。そいつが公僕という、公務員の身分の哀しさだ。
早期退職制度をあてにして、好き勝手に辞めることができないようになっているんだ。
通常の定年退職や、自己都合による退職には、割増の退職金制度は適用されない。
だから45歳以上になった公務員は、自分がいつ退職勧奨の身になるのか、楽しみにしている。
そんな連中が、本庁内にはけっこう大勢居るんだぜ」
(21)へつづく
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