前回は、参考書がないんだよ、という話をさせていただきました。
無いんですよ。
実は「無い」と言わなきゃならない理由がもう一つあります。
が、それは、そのまま、参考書など頼らずに親鸞聖人を読まなければならない、皆様への注意点となります。
今日は、それをお話ししますね。
まず、親鸞聖人の著作を読むということは、前回から申し上げておりますが、親鸞聖人のお書きになられたものを、現代日本語に翻訳する作業だと思ってください。
外国語で書かれた、例えば小説を、日本語に翻訳するためには、どんな知識が必要でしょうか?
必要なのは語学だけではありませんよね?
その国の、風土、歴史、文化、社会、常識や慣習、つまり、その作品が生み出された環境を理解していなければ、翻訳はできません。
さらに、一歩進んで、作者の意図を読み取ろうと思えば、作者の生い立ちや、作者が置かれた環境を知り、作者の人となりに近付かなければなりません。
親鸞聖人の文章を翻訳し、理解するのも同じじゃありませんか?
親鸞聖人がお記しになられた文字の意味がわかれば、言葉の意味がわかれば、それで理解できると思ってらっしゃるんじゃありませんか?
そんな皆様に、ウィトゲンシュタインの言葉を贈ります。
(哲学は)「言葉の意味を考察する病」(におかされている)
これ、未だに真宗学が患っている病です。
それでもって、私の講義を聴いていたであろう、皆さんも、かかってらっしゃいます。
なんで、言葉の意味ばかり知りたがるのでしょうか?
なんで、浄土真宗や仏教と謳った本ばかり読みたがるんでしょうか?
親鸞聖人(浄土真宗)を理解したいと思うなら、知らなきゃいけないことがいくらでもあるでしょうに。
なんで、そこに書かれた文字の意味だけを知りたがるんですか?
言葉は、普遍的な固有の意味など持ってはいません。
言葉は単なる記号です。
どう使われたか?が、言葉に意味を与えるのです。
難しい話ではなく、誰もが、生活の中で、普通に経験し、やってもいることですよね?
そんな当たり前のことを忘れているから、言葉狩りが起きてるんですよ。
文学性の欠如だと言ってもいいかもしれません。
自分の思い込みでしかない「意味」にしがみついて、過剰に反応し、噛むんです。
言葉に自分を押し付けているだけの、言葉との付き合いしかできていないというか、言葉と付き合えていないんですね。
人を外見だけで判断するのと同じです。
言葉ともコミュニケートしなければならないんです。
意味は与えられるものではありません。
意味は、その都度、あなた自身で見出さなければならないのです。
例えば、私は口癖が「馬鹿」なので、「馬鹿馬鹿言わないで下さい」と大学から叱られた経歴の持ち主なのですが、私がフナ君に「馬鹿」という時の「馬鹿」と、M本さんに「馬鹿」という時の「馬鹿」とでは、同じ「馬鹿」でも意味はまったく異なります。
あえて説明はしませんが、そういうことですよ。
と、言われても、これ、私と会ったことのない方には、全く想像もつきませんよね?
そういうことなんですよ。
これで、やっと、本題に入ることができます。
皆さんは、親鸞聖人はどんな方だったと思ってらっしゃいますか?
神話化された伝記類に描かれたスーパーヒーローは忘れてください。
『出家とその弟子』だとか、『白い道だとか』、五木寛之さんなどは論外です。
できるだけリアルな親鸞聖人像をイメージしてみてください。
そのイメージが、実像に近ければ近いほど、親鸞聖人の真意に近付くことができるわけですね。
簡単にできることではありません。
まず、知らなければなりません。
親鸞聖人が生きた時代背景、置かれたであろう環境、言語感覚などなど。
言葉の意味なんて枝葉末節を追いかけても、親鸞聖人は近付いてきてくれません。
言葉の意味は、外堀を埋めていくと、勝手に浮かび上がって来るんだと思います。
そのための参考書なら、山ほどありますよ。
歴史学にせよ、社会学にせよ、仏教史学にせよ、学術的裏付けのある資料が、どんどん出ています。
筋の良い資料を読み漁ればいいんです。
勉強の範囲が恐ろしいほど広がるので、大変です。
でも、お坊さんが勉強するんですからね。
そういう勉強と並行して、親鸞聖人の御著書を繰り返し読み進めていけば、そのうち、自分の親鸞聖人像というのがイメージできるようになるんじゃないかと思います。
そしたら、スタートですよ。
親鸞聖人のお言葉の意味を確認していくという、本当の勉強が始められるわけですよ。
言葉の意味を覚えて、勉強した気になってれば、その方が楽に決まってます。
だから、「言葉の意味を考察する病」を患ってしまうんです。
勉強嫌いの私が言うのも変な気がしますが、勉強に近道なんてないのにね。
でも、だからと言って、無意味なことに時間を使って遠回りする必要もないんですよ。
仏教は「覚り」の教えだと思うんです。
「覚り」は、与えられるものではありません。
「覚り」は「発見」です。
だから「覚り」は「執着」を嫌うのです。
小さな「発見」の積み重ねが、大きな「発見」に繋がるのではないでしょうか?
まだ、大きく覚ったことがないので、テキトーに言ってますけど。
答を与えられるために学ぶのは、やめましょう。
楽しくないから。
答を発見するために学びましょう。
本を読めば読むほど馬鹿になるのは、そこに答えを求めるからだと思うんです。
本も先生もツールでしょ?
自分が考え、何かを発見するための道具ですよ。
馬鹿と鋏を活かすのも殺すのも、自分自身なんです。
なんだか、説教じみてて嫌ですけど、学び方を変えて欲しいんです。
ずーっと思ってたことなので、しつこくなってしまいました。
ごめんなさい。
ちなみに、私がイメージするところの親鸞聖人は、
「お人好しで優しい、少年のようでいて、スケベな爺さん」
です!
(見真塾サルブツ通信Vol.0037より)
無いんですよ。
実は「無い」と言わなきゃならない理由がもう一つあります。
が、それは、そのまま、参考書など頼らずに親鸞聖人を読まなければならない、皆様への注意点となります。
今日は、それをお話ししますね。
まず、親鸞聖人の著作を読むということは、前回から申し上げておりますが、親鸞聖人のお書きになられたものを、現代日本語に翻訳する作業だと思ってください。
外国語で書かれた、例えば小説を、日本語に翻訳するためには、どんな知識が必要でしょうか?
必要なのは語学だけではありませんよね?
その国の、風土、歴史、文化、社会、常識や慣習、つまり、その作品が生み出された環境を理解していなければ、翻訳はできません。
さらに、一歩進んで、作者の意図を読み取ろうと思えば、作者の生い立ちや、作者が置かれた環境を知り、作者の人となりに近付かなければなりません。
親鸞聖人の文章を翻訳し、理解するのも同じじゃありませんか?
親鸞聖人がお記しになられた文字の意味がわかれば、言葉の意味がわかれば、それで理解できると思ってらっしゃるんじゃありませんか?
そんな皆様に、ウィトゲンシュタインの言葉を贈ります。
(哲学は)「言葉の意味を考察する病」(におかされている)
これ、未だに真宗学が患っている病です。
それでもって、私の講義を聴いていたであろう、皆さんも、かかってらっしゃいます。
なんで、言葉の意味ばかり知りたがるのでしょうか?
なんで、浄土真宗や仏教と謳った本ばかり読みたがるんでしょうか?
親鸞聖人(浄土真宗)を理解したいと思うなら、知らなきゃいけないことがいくらでもあるでしょうに。
なんで、そこに書かれた文字の意味だけを知りたがるんですか?
言葉は、普遍的な固有の意味など持ってはいません。
言葉は単なる記号です。
どう使われたか?が、言葉に意味を与えるのです。
難しい話ではなく、誰もが、生活の中で、普通に経験し、やってもいることですよね?
そんな当たり前のことを忘れているから、言葉狩りが起きてるんですよ。
文学性の欠如だと言ってもいいかもしれません。
自分の思い込みでしかない「意味」にしがみついて、過剰に反応し、噛むんです。
言葉に自分を押し付けているだけの、言葉との付き合いしかできていないというか、言葉と付き合えていないんですね。
人を外見だけで判断するのと同じです。
言葉ともコミュニケートしなければならないんです。
意味は与えられるものではありません。
意味は、その都度、あなた自身で見出さなければならないのです。
例えば、私は口癖が「馬鹿」なので、「馬鹿馬鹿言わないで下さい」と大学から叱られた経歴の持ち主なのですが、私がフナ君に「馬鹿」という時の「馬鹿」と、M本さんに「馬鹿」という時の「馬鹿」とでは、同じ「馬鹿」でも意味はまったく異なります。
あえて説明はしませんが、そういうことですよ。
と、言われても、これ、私と会ったことのない方には、全く想像もつきませんよね?
そういうことなんですよ。
これで、やっと、本題に入ることができます。
皆さんは、親鸞聖人はどんな方だったと思ってらっしゃいますか?
神話化された伝記類に描かれたスーパーヒーローは忘れてください。
『出家とその弟子』だとか、『白い道だとか』、五木寛之さんなどは論外です。
できるだけリアルな親鸞聖人像をイメージしてみてください。
そのイメージが、実像に近ければ近いほど、親鸞聖人の真意に近付くことができるわけですね。
簡単にできることではありません。
まず、知らなければなりません。
親鸞聖人が生きた時代背景、置かれたであろう環境、言語感覚などなど。
言葉の意味なんて枝葉末節を追いかけても、親鸞聖人は近付いてきてくれません。
言葉の意味は、外堀を埋めていくと、勝手に浮かび上がって来るんだと思います。
そのための参考書なら、山ほどありますよ。
歴史学にせよ、社会学にせよ、仏教史学にせよ、学術的裏付けのある資料が、どんどん出ています。
筋の良い資料を読み漁ればいいんです。
勉強の範囲が恐ろしいほど広がるので、大変です。
でも、お坊さんが勉強するんですからね。
そういう勉強と並行して、親鸞聖人の御著書を繰り返し読み進めていけば、そのうち、自分の親鸞聖人像というのがイメージできるようになるんじゃないかと思います。
そしたら、スタートですよ。
親鸞聖人のお言葉の意味を確認していくという、本当の勉強が始められるわけですよ。
言葉の意味を覚えて、勉強した気になってれば、その方が楽に決まってます。
だから、「言葉の意味を考察する病」を患ってしまうんです。
勉強嫌いの私が言うのも変な気がしますが、勉強に近道なんてないのにね。
でも、だからと言って、無意味なことに時間を使って遠回りする必要もないんですよ。
仏教は「覚り」の教えだと思うんです。
「覚り」は、与えられるものではありません。
「覚り」は「発見」です。
だから「覚り」は「執着」を嫌うのです。
小さな「発見」の積み重ねが、大きな「発見」に繋がるのではないでしょうか?
まだ、大きく覚ったことがないので、テキトーに言ってますけど。
答を与えられるために学ぶのは、やめましょう。
楽しくないから。
答を発見するために学びましょう。
本を読めば読むほど馬鹿になるのは、そこに答えを求めるからだと思うんです。
本も先生もツールでしょ?
自分が考え、何かを発見するための道具ですよ。
馬鹿と鋏を活かすのも殺すのも、自分自身なんです。
なんだか、説教じみてて嫌ですけど、学び方を変えて欲しいんです。
ずーっと思ってたことなので、しつこくなってしまいました。
ごめんなさい。
ちなみに、私がイメージするところの親鸞聖人は、
「お人好しで優しい、少年のようでいて、スケベな爺さん」
です!
(見真塾サルブツ通信Vol.0037より)