さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【親鸞聖人って、どんな人だと思う?後編】

2020-07-20 18:13:47 | 仏教講座
前回は、参考書がないんだよ、という話をさせていただきました。
無いんですよ。


実は「無い」と言わなきゃならない理由がもう一つあります。
が、それは、そのまま、参考書など頼らずに親鸞聖人を読まなければならない、皆様への注意点となります。
今日は、それをお話ししますね。


まず、親鸞聖人の著作を読むということは、前回から申し上げておりますが、親鸞聖人のお書きになられたものを、現代日本語に翻訳する作業だと思ってください。


外国語で書かれた、例えば小説を、日本語に翻訳するためには、どんな知識が必要でしょうか?
必要なのは語学だけではありませんよね?
その国の、風土、歴史、文化、社会、常識や慣習、つまり、その作品が生み出された環境を理解していなければ、翻訳はできません。
さらに、一歩進んで、作者の意図を読み取ろうと思えば、作者の生い立ちや、作者が置かれた環境を知り、作者の人となりに近付かなければなりません。


親鸞聖人の文章を翻訳し、理解するのも同じじゃありませんか?
親鸞聖人がお記しになられた文字の意味がわかれば、言葉の意味がわかれば、それで理解できると思ってらっしゃるんじゃありませんか?


そんな皆様に、ウィトゲンシュタインの言葉を贈ります。
(哲学は)「言葉の意味を考察する病」(におかされている)


これ、未だに真宗学が患っている病です。
それでもって、私の講義を聴いていたであろう、皆さんも、かかってらっしゃいます。


なんで、言葉の意味ばかり知りたがるのでしょうか?
なんで、浄土真宗や仏教と謳った本ばかり読みたがるんでしょうか?
親鸞聖人(浄土真宗)を理解したいと思うなら、知らなきゃいけないことがいくらでもあるでしょうに。
なんで、そこに書かれた文字の意味だけを知りたがるんですか?


言葉は、普遍的な固有の意味など持ってはいません。
言葉は単なる記号です。
どう使われたか?が、言葉に意味を与えるのです。
難しい話ではなく、誰もが、生活の中で、普通に経験し、やってもいることですよね?
そんな当たり前のことを忘れているから、言葉狩りが起きてるんですよ。
文学性の欠如だと言ってもいいかもしれません。


自分の思い込みでしかない「意味」にしがみついて、過剰に反応し、噛むんです。
言葉に自分を押し付けているだけの、言葉との付き合いしかできていないというか、言葉と付き合えていないんですね。
人を外見だけで判断するのと同じです。
言葉ともコミュニケートしなければならないんです。
意味は与えられるものではありません。
意味は、その都度、あなた自身で見出さなければならないのです。


例えば、私は口癖が「馬鹿」なので、「馬鹿馬鹿言わないで下さい」と大学から叱られた経歴の持ち主なのですが、私がフナ君に「馬鹿」という時の「馬鹿」と、M本さんに「馬鹿」という時の「馬鹿」とでは、同じ「馬鹿」でも意味はまったく異なります。
あえて説明はしませんが、そういうことですよ。


と、言われても、これ、私と会ったことのない方には、全く想像もつきませんよね?
そういうことなんですよ。
これで、やっと、本題に入ることができます。


皆さんは、親鸞聖人はどんな方だったと思ってらっしゃいますか?
神話化された伝記類に描かれたスーパーヒーローは忘れてください。
『出家とその弟子』だとか、『白い道だとか』、五木寛之さんなどは論外です。
できるだけリアルな親鸞聖人像をイメージしてみてください。
そのイメージが、実像に近ければ近いほど、親鸞聖人の真意に近付くことができるわけですね。


簡単にできることではありません。
まず、知らなければなりません。
親鸞聖人が生きた時代背景、置かれたであろう環境、言語感覚などなど。


言葉の意味なんて枝葉末節を追いかけても、親鸞聖人は近付いてきてくれません。
言葉の意味は、外堀を埋めていくと、勝手に浮かび上がって来るんだと思います。


そのための参考書なら、山ほどありますよ。
歴史学にせよ、社会学にせよ、仏教史学にせよ、学術的裏付けのある資料が、どんどん出ています。
筋の良い資料を読み漁ればいいんです。
勉強の範囲が恐ろしいほど広がるので、大変です。
でも、お坊さんが勉強するんですからね。


そういう勉強と並行して、親鸞聖人の御著書を繰り返し読み進めていけば、そのうち、自分の親鸞聖人像というのがイメージできるようになるんじゃないかと思います。
そしたら、スタートですよ。
親鸞聖人のお言葉の意味を確認していくという、本当の勉強が始められるわけですよ。


言葉の意味を覚えて、勉強した気になってれば、その方が楽に決まってます。
だから、「言葉の意味を考察する病」を患ってしまうんです。
勉強嫌いの私が言うのも変な気がしますが、勉強に近道なんてないのにね。
でも、だからと言って、無意味なことに時間を使って遠回りする必要もないんですよ。


仏教は「覚り」の教えだと思うんです。
「覚り」は、与えられるものではありません。
「覚り」は「発見」です。
だから「覚り」は「執着」を嫌うのです。
小さな「発見」の積み重ねが、大きな「発見」に繋がるのではないでしょうか?
まだ、大きく覚ったことがないので、テキトーに言ってますけど。


答を与えられるために学ぶのは、やめましょう。
楽しくないから。
答を発見するために学びましょう。
本を読めば読むほど馬鹿になるのは、そこに答えを求めるからだと思うんです。
本も先生もツールでしょ?
自分が考え、何かを発見するための道具ですよ。
馬鹿と鋏を活かすのも殺すのも、自分自身なんです。


なんだか、説教じみてて嫌ですけど、学び方を変えて欲しいんです。
ずーっと思ってたことなので、しつこくなってしまいました。
ごめんなさい。


ちなみに、私がイメージするところの親鸞聖人は、
「お人好しで優しい、少年のようでいて、スケベな爺さん」
です!

(見真塾サルブツ通信Vol.0037より)

【親鸞聖人って、どんな人だと思う?前編】

2020-07-19 23:12:36 | 仏教講座
今日は少し毛色の違う話をしてみたいと思います。
楽しくない話かもしれないので、ごめんなさい。
でも、ちゃんと勉強しなければならない人には重要なお話しです。
どうせやるなら、ちゃんとやろうね、ってことかな?


「先生、自分でも勉強したいので、どんな本を読んだらいいですか?」
と、聞かれることが、よくあります。
もちろん、「浄土真宗」を勉強したい、というご質問なのですが、これ、かなり困る質問です。
で、困るものですから、
「『スッタニパータ』(お釈迦様)と『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)かな?」
と、答えると、まあ、「?」な顔されます。
こちらとしては、わりと真面目に言っているのですが、説明するとサルブツ1~10以上に説明が必要になるので、仕方がないので、
「じゃあ、『真宗聖典』、西(本願寺)のでも東(本願寺)のでもいいから。」
と、お答えします。
親鸞聖人のお言葉に、直接触れてみましょう。
という趣旨で言っているわけですが、すると、
「直接は難しいので、良い参考書はありませんか?」
と、来ます。
必ず、来ます。


ここで、ハッキリと申し上げておきますが、
「ありません!」
気を悪くされる方もいらっしゃるかもしれませんが、無いものは、無いのです。
だから、私、困っているんですよ。
「俺だって、欲しい!」んですよ、ずーっと、そう思っているの。


これね、何も、自分だけが正しいとか、皆、間違ってるとか、そんな偉そうなことを言ってるわけじゃないんです、本当に。
私より勉強をされてる先生は、何百年も前からたくさんいらっしゃるので、適切に取捨選択ができる素養さえお持ちなら、かなり参考になる資料はあります。
でもね、現在の真宗学には致命的欠陥があるんです。


それは、親鸞聖人の時代の日本語と、現代の日本語が、同じ日本語だと考えて、テキストが扱われているということなんです。
そりゃまあ、「古語」「古文」という認識は、誰にでもあります。
じゃあ、古いけれど、日本語は日本語ですか?
八百年前の日本人と現代の日本人との会話が、成立すると思いますか?
すると思われる方は、頑張って。
私は、しないと考えています。
つまりは、別言語だと思わなければならないのですよ。


別言語で書かれたテキストは、まず日本語に翻訳されなければ使い物になりません。
だから、キリスト教の聖書は常時翻訳作業が続けられています。
逆に、イスラム教の聖典は翻訳禁止ですが、それによって、別言語であるということが明白です。


専門書であれば、テキストを翻訳する必要はないかもしれませんが、参考書でしょ?
日本語で勉強したいですよね?
例えで「英語」を使いますが、
1 英語テキストが英語であると気付かないまま、英語で書かれた参考書
2 英語テキストが日本語であると勘違いされたまま、日本語で書かれた参考書
こんなの読んで、何かわかる?


英語が理解できるなら、「1」は有効利用できる可能性があります。
「2」は?
斯く言う私も、長いこと「1」「2」の世界でものを言っておりました。


大学院時代のことです。
高校の先輩後輩ということで親しくしていただいている国文学科の教授に、私の論文を読んでもらいました。
すると、後日、
「お願いだから、宇宙語で書いたものは読ませてくれるな。」
という感想をいただいてしまいました。
江戸時代が専門で、私が鬼門だと思っている江戸時代の版本を、版木のままスラスラと読むようなオッサンに、「宇宙語」だと言われてしまったのですよ。
自分が、「わかったつもり」で、理解が不十分な言葉を使ってると、「宇宙語」になるんだと思います。
非常に勉強になりました。


もう一つ昔話をします。
中国仏教の専門家として名が通っている、ある先生と話をしていて気付いてしまいました。
中国語ができないんだ、と。
これには、私、青天の霹靂というぐらい絶句してしまいました。
英語のできない英文学者って、いる?
もちろん、「発音が苦手」だとか、「会話は苦手」という方は、優秀な方にもいらっしゃいます。
でもね、言語としての英語の素養が無い、英文学者って、いる?
「何か、この世界、常識が違う」
と、確信した出来事でもあります。


もちろん、仏典が翻訳された唐代とかの中国語と現代中国語は別言語です。
発音も文法も異なりますが、表記に関しては、統一性が維持されていたりもします。
だから、少なくとも、現代中国語の素養が無ければ、「中国語で書かれた」テキストを研究することは困難です。
実は、この「中国語で書かれた」というのが、一昔、二昔前の仏教研究の大きな落とし穴だったのです。
漢字ですね、漢字。


「漢文」って何語ですか?
中国人(広義のね)が書いた漢文は中国語。
日本人が書いた漢文は日本語、じゃないですか?


そこが、きちんと線引きされずに、全部、漢文訓点による、いわゆる「読み下し文」として扱われていたのです。
簡易日本語訳と言うか、無理矢理日本語訳ですね。
もちろん、漢文に、如何に美しく訓点を振り、如何に美しく日本語に整えるか、という日本漢文学は、立派な文学です。
私、大好きです。


しかし、テキストを解釈するとなると話は変わります。
中国語は中国語として、日本語は日本語として扱われなければなりません。
何となく意味が分かる気がする、では、学問にならないんですよ。


例えば、お経を理解するには、中国語として理解しなければなりません。
しかし、親鸞聖人がお経をどう理解したのかを考えるためには、親鸞聖人が訓点を記したテキストに従って、親鸞聖人の日本語として読まなければなりません。
そして、親鸞聖人がお書きになられた漢文は、ただの日本語です。
ただの日本語ですが、中世日本語です。
現代日本語とは別言語です。
何となく意味が分かる気がしても、それこそ意味がありません。
というか、何となく意味も、わからないでしょ?


この辺り、未だにごちゃごちゃなままで理解されていないのが真宗学なのです。
だから、「仏教学は学問だけれど、真宗学は学問ではない」と、言われているのです。
仏教学が専門の先生でも、真宗のお坊さんだと、浄土真宗の話を始めた途端にアカデミックな姿勢をお忘れになる方もいらっしゃいます。


だからね、参考書を紹介しろと言われても、無理なんです。
今、皆さんに一番必要なのは、テキスト!教科書そのものなんです。
完璧に現代日本語に翻訳された、親鸞聖人全集ですよ。
それが無いのに、何を解説して欲しいんですか?
真宗聖典の英訳がはかどらないというか、「?」ってなるのも同じですよ。
簡単に英訳できるような、本当の意味で現代日本語訳と言えるものが無いからです。


困ったなあ、というか、困ってますよ、私!


最初に、私、
「『スッタニパータ』(お釈迦様)と『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)かな?」
と言いましたけど、この二冊、現代日本語に翻訳されてるんですよ。
素人なので、翻訳の良し悪しはわかりませんが、少なくとも、宇宙語じゃなくて、現代日本語になっているなら、理解できるような気がしませんか?
そういう意味では、『新約聖書』もお勧めです。
ほとんど似たようなこと書いてありますから。


ん?浄土真宗?
だから、「無い!」って言ってるでしょ!
「無い!」んだから、しょうがないでしょ。
ジタバタするのは止めて、自分で翻訳しましょう。
ナンセンスな解説書など捨てて、親鸞聖人を読みましょうよ。
それしかないんだもの。

(見真塾サルブツ通信Vol.0036より)

【勅命!悲泣せよ!】

2020-07-15 09:27:12 | 仏教講座
【勅命!悲泣せよ!】


「慈悲」という言葉があります。
誰でも知ってる言葉ですね。
仏・菩薩の「やさしさ」を表わす言葉です。


不思議じゃないですか?
「慈しむ」はわかります。
なんで「悲しい」の?


ここ、考えて使ってましたか?


これを言い出すと、荒川の土手を長髪のおっさんが歩いているところを思い出されるので嫌なんだけれど、他に言いようがないんだよね。
ま、いいか。


「悲しみ」や「痛み」は「やさしさ」の源なのです。


ほら、やっぱり思い出してる。
イントロが鳴り出してるでしょ?
歌うなってば。
♪人は♪悲しみが・・・・・・
やめろ!真似までするな!


でも、そうなんですね。


「悲しみ」と「やさしさ」はセットです。
だから、「慈悲」なのです。


仏様は、自分を痛む必要がないので、ただただ、私たち人間を憐れみ、慈しんで下さいます。
しかし、私たちは、まずもって、自分が痛い。
「こんな私に誰がした?」
と、思わずにはいられないほど、自分が悲しい。
人のことなど構ってはいられない程、恥ずかしい。


でも、それでいいのです。
そこが阿弥陀様の狙いです。
そんなあなたなら、人のありがたさが、身に染みてわかるはずですから。
人のありがたさがわかれば、人にやさしくもなれるますよね?


と、いうことで、気付いていただけましたでしょうか?


戒律というのは、道徳規範ではありますが、自分の身を律する規範です。
自分が○○しない。
自分が○○する。
基本的には、自分一人の問題として規範があるわけです。
さすが、出家の教えです。


例えば、「嘘をついてはならない」という規則を守りたいなら、誰とも話をしなければ守れます。
誰とも会わなければ、話をする必要もありません。
「出家」=「社会的存在でなくなること」
「戒律」=「出家者の修行」
という原則が、しっかりと生きているのです。


ところが、阿弥陀様は、そんなに甘くはないのです。
「出家しなくても良いよ」
というのは、実に、
「娑婆から逃げ出せないよ」
という、終身刑の宣告なのです。


浄土教では、この世のことを「穢土」と呼びます。
「汚れた世界」ということです。
それが「娑婆」です。
私たちが、毎日毎日、地獄を現出させている、この世界です。
「ここに、留まれ」
「ここで、生きろ」
それは、社会的存在であり続けろという、御命令です。


だから、阿弥陀様の倫理規範は、
「自分がどうするのか?」
という、個人的規範ではなく、
「自分が、他者と、どう向き合うのか?」
という、社会的存在としての課題を、私たちに突き付けるのです。


「仏が人と向き合うように、他人と向き合えているか?」
「仏に向かうような気持で、他人と向き合えているか?」


できるわけがありません。
すると、
「(そんなお前が)仏に成るべき身であることを、恥じろ」
「自分の不甲斐なさに、泣け!」
「その情けない姿が、本当のお前なんだ、痛め!恥じろ!泣き叫べ!」
阿弥陀様、ドドドドドドSです。


そして、
「その、ありのままの姿で外(社会・娑婆)へ出ろ!」
「飾るなクズ!守る価値のあるお前なんていない!」
「飾るから辛くなる。守ろうとするから敵ができる。」
「そのままで人と向き合え、裸で生きろ!」
と、尻を叩かれた挙句に、
「それでも、お前を見捨てない。成仏させてやるから、仏に成るべき身として生きろ!」
飴のようで、エンドレス。
ふりだしに戻る。
成仏(死ぬ)の時まで、ずーっと、これの繰り返し。


こんな、阿弥陀様の不条理とも思える深謀遠慮に気付いてしまった親鸞聖人は、朴訥に、こんな御生涯を送られました。
親鸞聖人に学ぶ者にとっては、歴史上実在した活きた規範が、そこにあるわけです。
「挑み」→「折られ」→「また挑み」→「また折られる」
「気付き」→「忘れ」→「また気付き」→「また忘れる」
その繰り返しです。
ただただ、その繰り返しなんだと思います。
でも、無駄に繰り返しているわけではない。
繰り返すたびに、「ちょっとはましになる」ような気がしませんか?


この「ちょっとまし」というのが、親鸞浄土教の救済のポイントだと思うんですよ。
イタイ自分を思い知らされるたびに、ほんの少しだけ、仏が近付いてくる。
遥かに遠いままではあるけれども、ちょっとだけ、仏に近付いている。


「願いが叶う」とか、「欲望が満たされる」とか、そんな目に見える変化はないけれど、ほんの少し、嫌いなことが減っていたり、食べるものが美味しく思えてきたり、裏切られても腹が立たなくなってきたり、人の話が聞けるようになっていたり、ね。
仏教的な言い方をすれば、気が付けば「苦が減り、楽が増えてる?」って、ことかな。
ささやかだけれども、微々たる進歩ではあるけれども、繰り返し繰り返し、骨の髄まで叩き込まれた、それは、後戻りしない進歩だと。
それを、仏教の言葉で「不退転」と言うのではないでしょうか?
劇的変化を遂げて後戻りしない、なんてことありますか?
そもそも、本質的に変われますか?変わったってわかるほど?


阿弥陀様に叱られ、心を折られるたびに、少しづつ成長させられてしまう、そんなシステムになってるんだと思うんですよ。
それが、親鸞聖人が理性で見出された、浄土教であり、仏教だと思うのです。


これ、阿弥陀様に折られるから大丈夫なんですよ。
阿弥陀様だから、最後に成仏という責任を取ってもらえるから、折られても成長できるんです。
人がやったら、質の悪いカルトでしかありませんからね。
「自らを省みろ!自省しろ!」
「自分がどれだけ悪い奴だか、わかったか!」
とかって、目クソ鼻クソな人間にやられたら、「洗脳」か「死」か、ですからね。
こういうことやってる人たち、結構な数知ってますけど、阿弥陀様の「勅命」だから耐えられるのであって、人間ごときに「命令」されたら、命令する奴は殺しても正当防衛ですからね。
違う?そう?


話がずれっ放しているので、まとめに入ります。
結局、阿弥陀様が「無戒」である代償として、私たちに下された「勅命」は、
「痛みを知り、痛みのわかる人間であれ」
って、ことで、よろしいですか?
「人の痛みがわからない人間は、人ではなく、阿修羅、餓鬼、畜生だ!」
と、いうことですね。


なんか、締められた気になれたので、今日はここまで。

(見真塾サルブツ通信Vol.0035より)

【阿弥陀如来の呪い】

2020-07-12 12:23:43 | 仏教講座
阿弥陀様が我々に掛けた呪いは、ずばり!
「生きろ!」
という呪いです。
「生かしておいてやるから、生きろ!」
ということですよ。
「死んだら成仏させてやるから、死ぬまで生き抜け!」
って、あれだけ「苦しい」「苦しい」と言ってる、この世界でですよ。
これを「慈悲」と言うべきか?「呪い」と言うべきか?
「呪い」と言わずして、何と言えば良いのでしょうか?


しかも、ですよ。
生きれば良いというわけではないのです。
「やがて成仏する身であると自覚して、生きろ!」
「生かされて生きる身であることを感謝して、生きろ!」
と、仰るわけですよ、阿弥陀様は。
この、地獄である娑婆をですよ。
酷くないですか?


親鸞聖人は、こんな、阿弥陀様から、私たちへの御命令を、
「勅命である!」
と、御教示くださっておられます。
今時、「勅命」ですよ?
「勅命」、ご存じですか?
絶対に逆らえない御命令だということですよ。
拒否権、無し!です。
そもそも、「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀様との契約です。
「南無」=「服従させていただきます」
ですからね。


「生かしといてやるから、生きろ!」
「はい、ありがとうございます。南無阿弥陀仏。」
ですよ。


その上、
「生かされて生きる身であると自覚して生きる」
というのは、
「自分以外のすべての物に感謝することを忘れずに生きる」
ということなんですよ?


これが、そのまま、阿弥陀様が、私たちに与えてくださる「道徳規範」になるのです。
言うなれば、阿弥陀様の「戒律」です。
阿弥陀様に信じられている私たちに与えられた、「倫理規範」です。
「無戒」の代償が、これですよ。
この世界のすべてを「感謝」の対象とする生き方に、挑め、と。


それは、ブラジルのスラムの少年がギャングとなって殺し合いに明け暮れるのも、今後の少女がゲリラにさらわれて殺人マシーンにされてしまうのも、全部、他人ごとではなく、自分のこととして痛み、自分に何ができるのかを考え、そして行動する、という生き方です。


映画を観てたせいで、例えが少し極端かもしれませんが、この世に不幸な人がいる限り、
「私は幸せだ」
なんて、思っちゃいけないんですからね、理屈では。


そこらに立ってる、
「世界人類が平和でありますように」
という、白い棒を見るたびに、私は考え込んでしまいます。
「本当にそうだよな。こういう気持ちになれなきゃいけないんだよな。」
そう、頭をぶん殴られるわけです。
「あれは、カルトが立てた棒だ」
と、笑っている人もいるかもしれません。
でも、誰が立てた棒だとしても、そこに正論があるのであれば、
「そうだよね」
と、頭を垂れるしかないでしょ?


その昔、愛人作って奥さんを泣かせていると評判の大先輩から、
「君はなぜ、平和を求める運動に協力できないんだ?それでも演劇人か?」
と、詰め寄られ、
「戦争反対とか、偉そうに言う前に、家庭の平和をなんとかしろ!」
と、怒鳴った記憶があります。
が、怒鳴った私も、気が付けば、先輩と同じようなレベルでしたよ。


小さな平和も守れない私に、
「世界人類が平和でありますように」
なんて、思えるわけがない。
だから、白い棒が重いんですよ。


もちろん、阿弥陀様だって、そんなことはお見通しです。
それでも、地獄で這いまわる、餓鬼で畜生で阿修羅な私たちを、
「できなくても諦めるな、やれ!」
「一秒でも長く、人でいろ!」(生きてろってことじゃないよ)
と、叱咤激励して下さっているのですね。
そして、
「できない自分に痛み続けろ!」
「至らない自分を恥じることを忘れるな!」
「自分の愚かさに悲泣(ひきゅう)せよ!」
と・・・・・・・・・。
それでも!
「仏に成るために、地獄を生き抜け!」
「仏に成るべき身として、娑婆の只中を生きろ!」
と・・・・・・・・・・・・。


厳しくないですか?
阿弥陀様も、阿弥陀様のそこに気付いた親鸞聖人も。


「ごめんなさい、戒律守りますから」
「もう、無戒でなくていいです。勘弁してください。」
って、頭を丸めたくなりますよ。


「イヤーーーーーーーっ!」
と叫びながら、次回へ続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0034より)

【恥ずべし痛むべし】

2020-07-10 11:42:23 | 仏教講座
「無戒」は困るんです。
特に、私のような、やんちゃ坊主には、何か戒めがないとダメなんです。
無意識に、とんでもないことをしでかしたりもします。
「破れない」のは困るのです。


最初からルール無しだと、獣以下なんです、私。
破った時には、破ったんだとわかる、そんなルールが必要なのです。
すっかり忘れて、破ってしまうとは思いますが、思い出した時に、
「うわっ!しまった!やっちゃった!」
と、思えるように、ルールが必要なのです。


忘れてなくても、破る時は破ると思いますが、
「しょうがない、やるしかない」
「それでも、俺は、やる」
という、覚悟ができないと、後で困るんです。
反省できないんですよ。


どうか、私を縛ってください!


と、こんな風に思うことないですか?
私だけ?そんなことないよね?
いや、あるかもしれません。


何も「戒律」がなくたって、色んなものに縛られているというご意見もあるかもしれませんね。


法律があるでしょ?
それは、もっとも危険な考え方ですよ。
法律だけが問題だということになると、
「捕まらなければ、何したってかまわない」
という社会になることは、某国などで実証済みです。
そういう社会、お好きですか?


大人なんだから、常識というものがあるでしょ?
「盗んだ奴が悪い」と考える国と、「盗まれた奴が馬鹿だ」と考える国と、常識が同じだと思いますか?
平和ボケが標準装備の常識と、日々サバイバルを生き残る常識と、同じだと思いますか?
処変われば常識も変わりますが、それどころではありません。
今、あなたの隣にいる人と、あなたと、同じ常識を生きていると断言できますか?
常識というものは、実は存在していません。
自分の常識に従ったせいで死んじゃう人、少なくありません。


それでも、人間なんだから、悪いことくらいわかるでしょ?
と、考える人道主義者がいらっしゃるなら、聞いてください。
そんなこともわからないから、仏教を学んでいるんです。
全人類に共通する倫理観なんて、存在しませんよ。
常識と同じです。


A「人を殺しちゃいけないよね?」
B「うん、いけない。」
A「じゃあ、何で殺したの?」
B「異教徒は人じゃないから。」
これ、実話ですよ。
通じ合えてますか、これ?


自分が思ってるんだから、皆も思ってるはず。
これ、ありがちですが、あり得ません。
皆、バラバラです。


倫理観も、道徳観も、学習しなければ育ちません。
だから、多くの場合、倫理と宗教が直結しているのです。
人間側からは育ちようがないので、神様からルールブックを与えられるのです。
その、神様から与えられたルールブックが、そのまま「法」となっていることも珍しくはありません。
だからこそ、信仰を持つことの重要性が認識されているのです。


このあたり、日本人は無頓着というか、ほとんどのお坊さんは、まったくわかってないと思います。
宗教が必要かどうかはわからないけれど、宗教嫌いが増えると収入が減るから困る。
と、言う程度の認識しかないんじゃないですかねえ、だいたいは。


信教の自由、信教の自由と言うけれど、「信教の自由」の中に「信仰を持たない自由」は含まれていない社会が多いということは御存知ですか?
わかり易いのはインドネシアなので、それを例に説明します。
インドネシアは世界最多のイスラム教徒を擁する国ですが、世俗主義を採っているため、「信教の自由」が憲法で保障されています。
しかし、憲法より上位の「国是(パンチャシラ)」に定められた五つの原則の筆頭に挙げられているのは、次の一文です。
「唯一神への信仰(KeTuhanan yang Berkebudayaan)」
これ、「Tuhanan」を翻訳者がイスラム教の神「Tuhan」を意識して「唯一神」とか「唯一絶対神」とか翻訳してるんだと思いますが、「特定の神性」と訳した方が良いと思うんですけどね。
仏教、道教、ヒンドゥー教等が含まれてますからね。
それはどうでもいいですね。


ここで確認していただきたいのは、インドネシアには「信教の自由」はあるが、「信仰を持たない自由」は無い、という事実です。
「無宗教」「無神論」は逮捕されます。


なぜそうなるのか?
簡単なことです。
「神(仏も可)を信じていない人」=「倫理観がない・野蛮人」→「人間とは認められない」
と、彼らは考えるからです。
インドネシアの法律がわかり易いので例に挙げましたが、こういう感覚の社会、国外では普通にありますよ。
先進国ならそんなことないなんて、考えが甘いですよ。
保守的な人はどこにでもいます。
アメリカ合衆国大統領は「神」に宣誓しなければ就任できない、ということを忘れないようにしてください。


こういうことを知らずに、非常に得意気に「私は無宗教です」と答えるインテリぶった日本人、けっこういるんですけど、危ないですからね。
まともに相手にしてもらえなくなる可能性が、かなり高いです。
宗教に対して無頓着だと「アホ」だと思われますよ。
「宗教団体に帰属していない」=「無宗教(無信仰)」ではないのに、勘違いしている人が多いんだよね。
危険はそれだけではありません。
神に守られている人を騙すのと、神に守られていない人を騙すのと、どちらが、より罪の意識を感じると思いますか?
「騙す」「盗む」くらいで済めば良いんですけど、どこの国でも、組織犯罪者の皆様とか、スラムの方々、わりと信心深い方が多いんですよ。
やんちゃな彼らも、死ぬのは怖いんでしょうね。


なんだか「地球の歩き方」みたいになってきましたが、そういうことなんですよ「無戒」って。


あ、今、?ってなりましたか?
説明します!
「信仰を持つ」ということは、取りも直さず、「神仏に縛られる」ということなんですよ。
だから、「無戒」であるということは、「信仰を持たない」のと同じことなんです。
「破戒」は違います。
信仰を持っていなければ、その戒めを破ることもできないからです。
信仰があるからこその「破戒」です。
だから「破戒」は痛いのです。


ところが、仏教が育んできた倫理観が「戒律」となっているとしたら、その知恵を放棄するのが「無戒」です。
放棄するというよりは、存在そのものに触れない、知りもしない、と言うのが適切かもしれません。
「破戒」と違って、破るものがありません。
「破った」という自覚が生まれなければ、「痛み」も感じません。
痛くないので、反省することもありません。
それでは、「信仰を持つ」利点が何もないのではないか?
信仰を持っていない、つまりは「無宗教」であることと、何も変わらないのではないか?
と、私は思うのです。


ま、「無戒」で「宗教者」が気取れることに甘えていたいだけの人たちには、それでいいのかもしれませんが、そんなの意味ないよね?


それはそうとして、浄土真宗の僧侶が「受戒」していない問題については、形式的なことも含めて、改めて考えたみた方が良いと思いますよ。


そういう業務上の問題は別として、実は、阿弥陀様は、私たちに、「戒律を守る」なんてことよりも、ずっと重い、非常に厳しい縛りをかけておられます。
「戒律」なんて、そのほんの一部に過ぎない、と、言っても過言ではないかもしれません。
それはもう、「戒律」というよりは、「呪い」とでも言うべき、恐るべき「拘束」です。


それでは、皆様、ゆっくりとお考え下さい。


(見真塾サルブツ通信Vol.0033より)