さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【生かされて生きることの意味 その1】

2020-06-22 21:42:44 | 仏教講座

阿弥陀さんの御利益によって、生まれてこられたし、今、生きていられる。
というお話をしてきたかと思います。
つまり、私たちは、
「阿弥陀様に生かされて生きている」
と、言えるわけです。


問題は、その視点に立つと、どんな世界観と出会えるかということですね。
それが、人生にとってプラスになるなら、はっきりと「御利益」ですよね?
さあ、どうでしょうか?


まず、これまでの学習を踏まえて、「阿弥陀様に生かされて生きている」私が、社会的存在として、どのように社会と対峙しているのか?ということを考えてみましょう。


この世界に存在するのは、「自分」と「自分でないもの」でしたね。
その「自分」と「自分でないもの」は、「自分」から見た場合、
「自分」を「自分でないもの」が支えている(存在させている)
という関係性で繋がれています。
「縁起」ですね。
「縁起」は無限に連鎖しますから、
「自分でないもの」=「自分でない(すべての)もの」
と、いうことになります。


「自分は、自分以外のすべてのもの(無限=阿弥陀如来)に支えられて生きている」
それが、自分と社会との関係性です。
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
と、言うこともできますね。
これ、誤解の余地がある表現ですけどね。


歎異抄に「親鸞一人がため」という言葉が出てきますが、この認識です。
「五劫思惟の願」についてよく考えてみると、という文脈で使われていますが、「五劫思惟の願」とは、この場合、阿弥陀如来を表わす記号でしかありません。
「五劫思惟の願」の内容など、眼中には無いのです。
「五劫思惟の願」=「阿弥陀如来」=「自分でないすべてのもの」
という視点です。


ちなみに、私は、二次資料以下でしかない「歎異抄」という書物には、それほど価値が無い、という立場をとっていますが、利用できる文言は利用しますね、便利ですから。


さて、この、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
という世界観に立った時、あなたには何が見えますか?
目に見えるすべてのものが、あなたを生かすために働いていてくれるのです。


ちょっと、自分の経験をお話しします。


もう、二十年近く前のことですが、当時の私は、
「阿弥陀さんって何?」
ということを、延々と考え続けておりました。
ちょうど、思考の矛先が龍樹菩薩の「空」に向かっていたのだと思います。
台湾へ行くために中部国際空港行きのバスに揺られている最中でした。
ほとんど客のいないバスの中でも、私の頭の中では「空」が駆け回っていました。
「あ、ぜんぶ繋がってるんだ!」
突然、私、閃きました。
「空(縁起)」が理解できた瞬間です。
そこからは、芋づる式に、あれよあれよと阿弥陀様まで繋がり、ほどなく、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれているんだ!」
という実感が沸きあがってきました。
「ありがとう!お前ら、みんな、ありがとう!」
冗談抜きで、目に入るものがすべて、キラキラと光って見えました。
嬉しさのあまり、
「お前も、ありがとう!」
と、目の前の空席の背もたれを、抱きしめて頬擦りしてしまったほどです。
おそらく、傍目には完璧メンヘラ―と映ったことでしょう。


車窓から見える風景が、あれほど新鮮に感じられたことはありません。
有頂天な私は、ついには、
「あれ?いや、その、俺、もしかして、覚った?のか?」
とまで、舞い上がってしまったのです。
アホだと言われても、返す言葉がありません。
お恥ずかしい限りでございます。
しかし、そのままご機嫌で、
「今日から、俺も仏陀か?おい、どうする?」
と、一人ほくそ笑みながら飛行機に乗り込んだ私は、その、わずか3時間後に、入国審査待ちの行列にイラつく自分を発見し、静かに項垂れることになったのでありました。


まあ、本当に馬鹿馬鹿しい話ではありますが、私にとっては大切な経験となっています。
問題が解けたという学問的喜びもさることながら、それ以上に、
「信仰の領域に立つと、ものの見え方が変化する」
ということを実感できたこと、それが嬉しかったのだと思います。
今にして思えば、それでようやく、「仏教研究の出発点に立てた」ということなんでしょうがね。


さて、次回は、この問題を、もう少し考えてみたいと思います。

(見真塾サルブツ通信Vol.0017より)


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