前回、「戒律」の話が出ましたので、本日は、そのあたりをテーマにしたいと思います。
「戒律」という言葉は聞いたことありますよね?
仏教徒が守らなければならない「決まり事」だと思ってください。
「戒」と「律」には若干違いがありますが、同じようなものです。
「戒」は仏教僧侶にあるのはもちろんですが、出家者でないただの仏教徒にもあります。
出家用、在家用、それぞれに「戒」があり、その決まりを守るという約束をして、僧侶になり、仏教徒になるのです。
それを「受戒」と言います。
原則としては、僧侶は全員「受戒」しているはずです。
それが、昨日も言いましたが、仏教界の常識です。
「受戒」した者が「戒律」を破ることを「破戒」と言います。
守るべき約束事(戒律)を持っているからこそ、できることだと言えますね。
一方、守るべき約束事を持っていなことを「無戒」と言います。
当然、約束事が発生する「戒律」は授けられていません。
「無戒」の者は、はじめから、守るべき約束事がないため、「破戒」はできません。
また、原則に従えば、「受戒」が僧侶の前提ですから、「無戒」の僧侶は存在しません。
「破戒僧」という言葉は、たまに聞く言葉だと思いますが、「破戒僧」という言葉は存在しますが、「無戒僧」という言葉は存在しません。
「無戒」であれば、「僧侶」ではないのです。
それが、仏教の原則であり、常識です。
その常識は現在でも常識です。
だから、「無戒」である浄土真宗僧侶は、日本を一歩出れば、僧侶として扱われることがありません。
親鸞聖人は「破戒僧」でした。
正確に言えば、「破戒僧」から、流罪により「僧」の身分を奪われたため、一旦「無戒」の一般人に戻りますが、罪が許され、「僧」の身分が回復されて、再び「破戒僧」となられたわけですね。
しかし、「無戒の僧侶」だったことはありません。
親鸞聖人の師である法然上人は、「持戒堅固(戒律をきっちり守り破ることが無い)」の僧として高名でした。
「生涯不犯(ふぼん)」と伝えられています。
そればかりではなく、法然上人は当代随一の「戒師」として、大勢の人々に「戒」を授けていらっしゃったのです。
親鸞聖人は法然上人の弟子だったわけですから、恐らく、法然上人からも「受戒」されていたのではないかと想像します。
そんな親鸞聖人が、敬愛してやまない師匠のスペシャリティーである「戒律」というものを疎かに考えられていたとは、到底思えません。
しかし、親鸞聖人は、その大切な「戒律」を自ら破り、確信犯として「破戒僧」となられたのです。
「持戒堅固」で「生涯不犯」であられた、大好きな師匠とは、真逆の「破戒僧」に、敢えて身を落とされたのです。
何故か?
それは、
「私は、到底、戒律を守り通せるような人間ではない。」
と、自覚されたからです。
そして、高潔を装うこと嫌って、裸で、恥ずべき「破戒僧」という境涯に立たれた。
と、いうことです。
でも、そこのあなた!
「そうだよね、守れないよね。」
などと軽々しく思わないでくださいよ。
レベルが違いますからね、レベルが!
「あー、もう我慢できない、酒飲みたい、でも我慢しよ。んー、やっぱりできない。えーい、飲んじゃえ。ふーっ!俺って、弱い人間だよな。」
なんてことではないんですよ。
我慢できるかどうかという、低レベルな話ではないんだからね?
テレビCMの中の涼し気なジョッキの泡が眼に入り、
「あ、美味そ。」
と、思ったら、もうアウトなんだからね。
ウナギ屋の前を通ると漂う、あの香りに心惹かれたら!
もう、アウトなんですよ、それは。
我慢する、しない、なんてところまで来てたら、それはもう、論外ですよ。
戒律を破ることに繋がる思いが、少しでも心に浮かんだら、それがもう、立派な「破戒」なんですよ。
だから、できないんです。
我慢すればいいだけなら、誰にでも我慢はできます。
私には無理だけど。
突然、話は下(しも)へ降ります。
下だからと言って、宮本さんの話ではありません。
真面目な話です。
男の分身は、時として、意味なく起き上がります。
若ければ、猶更、コントロールは不能です。
朝目覚めると、自分よりも先に起き上がっていたりもしています。
それが許せない!
そうなる自分が許せない!
と、自分の分身を切り落としてしまったというお坊さんが、タイなどにはいらっしゃいます。
近年もいらっしゃいました。
そういうレベルで、それほどの覚悟で、ギリギリのところまで己が煩悩と向かい合い、その結果としての、
「私には守れない」
ですからね。
簡単に共感しないでね。
できる我慢もしたくないから、って、「無理」だと言ってるわけではありませんよ。
で、そんな「戒律を守ることさえできない自分」を、親鸞聖人は、
「愛欲に深く沈み、名誉ばかり欲しがる自分である」
と、悲しみ、恥じ、痛み続けられたのです。
死ぬまでね。
何故か?
「破戒」だからです。
僧侶にあるまじき「破戒」を犯していたからです。
「無戒」ではないんです。
「無戒」だと、恥じる必要がないのです。
「無戒」だと、痛くないのです。
そもそも、「無戒」には、守るべき「何か」がないのです。
それでいいの?
というわけで、次回に続きます。
「戒律」という言葉は聞いたことありますよね?
仏教徒が守らなければならない「決まり事」だと思ってください。
「戒」と「律」には若干違いがありますが、同じようなものです。
「戒」は仏教僧侶にあるのはもちろんですが、出家者でないただの仏教徒にもあります。
出家用、在家用、それぞれに「戒」があり、その決まりを守るという約束をして、僧侶になり、仏教徒になるのです。
それを「受戒」と言います。
原則としては、僧侶は全員「受戒」しているはずです。
それが、昨日も言いましたが、仏教界の常識です。
「受戒」した者が「戒律」を破ることを「破戒」と言います。
守るべき約束事(戒律)を持っているからこそ、できることだと言えますね。
一方、守るべき約束事を持っていなことを「無戒」と言います。
当然、約束事が発生する「戒律」は授けられていません。
「無戒」の者は、はじめから、守るべき約束事がないため、「破戒」はできません。
また、原則に従えば、「受戒」が僧侶の前提ですから、「無戒」の僧侶は存在しません。
「破戒僧」という言葉は、たまに聞く言葉だと思いますが、「破戒僧」という言葉は存在しますが、「無戒僧」という言葉は存在しません。
「無戒」であれば、「僧侶」ではないのです。
それが、仏教の原則であり、常識です。
その常識は現在でも常識です。
だから、「無戒」である浄土真宗僧侶は、日本を一歩出れば、僧侶として扱われることがありません。
親鸞聖人は「破戒僧」でした。
正確に言えば、「破戒僧」から、流罪により「僧」の身分を奪われたため、一旦「無戒」の一般人に戻りますが、罪が許され、「僧」の身分が回復されて、再び「破戒僧」となられたわけですね。
しかし、「無戒の僧侶」だったことはありません。
親鸞聖人の師である法然上人は、「持戒堅固(戒律をきっちり守り破ることが無い)」の僧として高名でした。
「生涯不犯(ふぼん)」と伝えられています。
そればかりではなく、法然上人は当代随一の「戒師」として、大勢の人々に「戒」を授けていらっしゃったのです。
親鸞聖人は法然上人の弟子だったわけですから、恐らく、法然上人からも「受戒」されていたのではないかと想像します。
そんな親鸞聖人が、敬愛してやまない師匠のスペシャリティーである「戒律」というものを疎かに考えられていたとは、到底思えません。
しかし、親鸞聖人は、その大切な「戒律」を自ら破り、確信犯として「破戒僧」となられたのです。
「持戒堅固」で「生涯不犯」であられた、大好きな師匠とは、真逆の「破戒僧」に、敢えて身を落とされたのです。
何故か?
それは、
「私は、到底、戒律を守り通せるような人間ではない。」
と、自覚されたからです。
そして、高潔を装うこと嫌って、裸で、恥ずべき「破戒僧」という境涯に立たれた。
と、いうことです。
でも、そこのあなた!
「そうだよね、守れないよね。」
などと軽々しく思わないでくださいよ。
レベルが違いますからね、レベルが!
「あー、もう我慢できない、酒飲みたい、でも我慢しよ。んー、やっぱりできない。えーい、飲んじゃえ。ふーっ!俺って、弱い人間だよな。」
なんてことではないんですよ。
我慢できるかどうかという、低レベルな話ではないんだからね?
テレビCMの中の涼し気なジョッキの泡が眼に入り、
「あ、美味そ。」
と、思ったら、もうアウトなんだからね。
ウナギ屋の前を通ると漂う、あの香りに心惹かれたら!
もう、アウトなんですよ、それは。
我慢する、しない、なんてところまで来てたら、それはもう、論外ですよ。
戒律を破ることに繋がる思いが、少しでも心に浮かんだら、それがもう、立派な「破戒」なんですよ。
だから、できないんです。
我慢すればいいだけなら、誰にでも我慢はできます。
私には無理だけど。
突然、話は下(しも)へ降ります。
下だからと言って、宮本さんの話ではありません。
真面目な話です。
男の分身は、時として、意味なく起き上がります。
若ければ、猶更、コントロールは不能です。
朝目覚めると、自分よりも先に起き上がっていたりもしています。
それが許せない!
そうなる自分が許せない!
と、自分の分身を切り落としてしまったというお坊さんが、タイなどにはいらっしゃいます。
近年もいらっしゃいました。
そういうレベルで、それほどの覚悟で、ギリギリのところまで己が煩悩と向かい合い、その結果としての、
「私には守れない」
ですからね。
簡単に共感しないでね。
できる我慢もしたくないから、って、「無理」だと言ってるわけではありませんよ。
で、そんな「戒律を守ることさえできない自分」を、親鸞聖人は、
「愛欲に深く沈み、名誉ばかり欲しがる自分である」
と、悲しみ、恥じ、痛み続けられたのです。
死ぬまでね。
何故か?
「破戒」だからです。
僧侶にあるまじき「破戒」を犯していたからです。
「無戒」ではないんです。
「無戒」だと、恥じる必要がないのです。
「無戒」だと、痛くないのです。
そもそも、「無戒」には、守るべき「何か」がないのです。
それでいいの?
というわけで、次回に続きます。