私の中国投資・出張・旅行日記

約30前に香港より当時広州への航空便が難しく、汽車にて中国本土広東省広州に入国し、光景にビックりしたのが始まりです。

中国料理上海

2021-07-04 19:00:07 | 中国料理

中国料理事情-225    前回は上海街中心部准海路近くのモダンなレストラン店内での料理写真を掲載しましたが、品目は少し日本人向きのメニューが多かったのではないでしょうか。今回はどちらかと言えば中国人向きの品目を多く注文した時の写真を掲載します。一般的には上海・広東・北京・四川の各省の四大料理、其の他、山東・四川・江蘇・広東・安徽・浙江・福建・江南、八つの地域で構成される八大中華料理等と呼称される事があります。日本人がよく食べる焼き餃子などは焼飯と同じくあまり注文しません、家庭で作る料理のようです。しかし東北地方に行くとほとんど水餃子を目方で注文します。中国では一般的に少し多く注文しますが、残った物はパックに入れ持ち帰る習慣があります。店もパックを用意し対応をします。       

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中国料理事情

2021-06-14 12:10:17 | 中国料理

中国料理事情-224   中国には沢山の種類の料理がありますが、一般的には私の印象では南の料理は淡白で海鮮料理よく食べ、北の料理は味が濃・色が濃い印象です。中国人は食事に行く前によく今日は何を食べるかではなく、何処の地方料理を食べますかと問われます。基本的に中国料理は大きく分けて蒸し料理・油で揚げた料理・炒め物料理・スープ類等に分けられるようです。それには私の印象では香辛料も多く、中国の水・過去の食材の衛生管理に起因する加熱殺菌処理するのではないでしょうか。日本人がよく食べる焼飯等は中国人曰くレストランにて食べる料理ではない、自宅で残り物を入れて料理するものだそうです。レストランでは野菜・海の物・山の物を選択し程よく食べます。一般的なレストランのメニューは日本のレストランに比較すると大変多く種類があります。発注するにも多くの時間を費やする文化があります。今日は上海の街中心部准海路近くのモダンなレストラン店内で料理の一部を写したものです。      

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上海市内泰康路芸術街(田子坊)-3

2019-06-07 11:25:58 | Weblog

上海市内泰康路芸術街(田子坊)223-3  前回2回に渡り記載しました田子坊については観光地でもあるため、訪問された人も多くありますがもう少し写真を掲載します。未開発の芸術家村路地が発展的にショッピングエリアとなったために、迷路のように店舗が入り組んでいます。物販・飲食店が軒を連ね日本の店らしき店舗もあります。レストランは中国料理以外の各国料理店も多い。現在では豫園や新天地に次ぐ上海の観光ショッピングエリアとなっています。

     

 


中国上海古民家田子坊-1

2017-10-15 11:33:56 | 中国投資

中国旧市内古民家街223-2 前回記載しましたが田子坊(泰康路ともいう)詳しくは上海市の新黄浦区の南は泰康路、北は建国西路、東は思南路、西は瑞金ニ路に囲まれた地域にアートやショッピングやグルメの店が立ち並ぶ地域です。上2枚の写真は田子坊入口付近です。    

 

豫園や新天地に次ぐ上海の観光地です。大資本が街を改造した新天地とは異なり田子坊は住宅地であった場所に自然発生的に店が発生した街です。外国観光客も多く店のオーナーは外国人も多く、日本人が経営する店もあるそうです。元々は画家・彫刻家の陳逸飛が1999年にアトリエを開いたのがこのエリアの始まりとされております。前回に記載したとうり狭い道の両側に色々な店が立ち並び迷路のような街です。現在では住宅と店舗が混在し一般市民の生活も垣間見える地域です。近くには大きなショッピングセンターが開業し街は変わりつつあるようです。      


中国上海古民家田子坊

2017-01-01 17:13:19 | 中国旅・旅行・出張

中国旧市内古民家街-223-1 上海市内観光地区田子坊は南京路・淮海路の南に位置する建国中路にある古民家街の観光地です。 

  古くからある民家の観光向け商店街です。現在も居住としても使用されている家もありますが殆ど店舗として使われています。今回はその中で現代風と思われる喫茶店の内部・お客さん・メニュウー・近隣等の写真を掲載します。狭い道(通路)の両側に店舗が連なる地域ですが、この喫茶店は横道に入った地域にありました。居宅を改装した小さな店の店内はお客さんで満員でした。私は少し従来の建物より前に建てました部分の入口に近い席に座り、混雑路を歩るいてきたので、中国にしてはハイカラなメニュウーよりソーダ-水を注文しましたが、一口飲んで止めました。

しかし、田子坊は多くの外人・中国人の上海観光客が訪問し休日といえども通路は歩くのが困難な程の状況でした。             


張府内部施設-2

2015-11-08 16:42:07 | Weblog

張府内部施設-2

軍閥と張学良-222   当ブログ221の続編。写真は張軍閥の居城のようなもので入口に建てられている銅像は息子の学良で彼の人生は「波乱万丈の人生100年」と言われています。内部は大変整理され見学しやすいようにされています。建物はその当時では様式でモダンな様式です。私が最初に瀋陽を訪れたと時には中華人民共和国内では評価に問題があったようで庁舎は整備されず見学が出来なかったと思います。

近年評価が変わったようです。最近の中国は豊かになり数年前より国内旅行が盛んになりました。私が中国人に交じり上海より十数年前(香港人以外。外国人は私1人)中国国内を旅行した時に驚いた事は、朝は8時出発帰りホテルに到着は午後8時以後、夜食は午後9時頃とハードな日程でした。そして各行先夫々は大変な人で施設に入場するには長い列の入場待ちでした。掲載の写真でも観光人数が多いのは感じられると思います。その頃の国内旅行者層がビサの緩和とともに日本に来ているのではないでしょうか。日本でラーメン店などに入るのに長者の列をなす中国人は行列に慣れているのではないかと思います。      

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張府内部施設-1

2015-06-05 21:46:02 | 中国旅・旅行・出張

張府内部施設-1

 

軍閥と張作霖-221   当ブログNo.188.189に一部記載しましたが、張府の基礎を築いた張作霖は中華民国初期の軍閥政治家で満州の統治者である張学良の父でした。張作霖は遼東半島出身で当初吉林省に渡り馬賊に投じ当時の東三省で馬賊の頭目となります。その後日露戦争が勃発し、ロシア側のスパイとして活動し捕まるが、その時陸軍参謀長・児玉源太郎の助言で助かり、今度は日本側のスパイとして活動した。その後、清朝に帰属し東三省を総括する地位に就く。その後黒竜江省・吉林省も含めた東三省全域を勢力圏に置き「満州王」と呼ばれ君臨するほどの威勢を誇った。その後も勢力を高め1926年には北京で大元帥に就任し中華民国の主権者を宣言する。しかし、その後時代は変化し北京のソ連大使館捜索などの事件を起こしたため、ソ連は張に圧力をかけた。一方蒋介石の国民革命軍が欧米の支持を得て対峙し張は孤立し敗北した。日本も張を積極的に支持せず、済南での国民革命軍との敗戦も重なりついに北京を脱出する。張作霖は自らの根拠地である奉天(瀋陽)に向かったが奉天近くの皇姞駅で列車爆破により死亡する。その後、張の支配地域は長男・張学良が継承した。府跡には日本人との関係・周恩来との対話等模型が展示されその他会議室等が見られます。又、瀋陽博物館入口写真も掲載します。瀋陽の故宮の宝物は蒋介石が台湾に持ち去ったと伝えられ博物館には多くは残っていないそうです。    

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広東省寺院風景-220

2015-01-12 18:48:26 | Weblog

広東省寺院風景

 

発想の転換‐220   永年中国に渡り合弁をして事業の展開を志してきました。相手方の一人の当事者が共産党党員の高級経済士(日本での国家公務員上級職合格者の名称)の資格がある為、資格社会の中国では地位の昇進が早く市・省の重要なポジションに次々に就きました。そこで当社は発想の転換をはかり、現在彼が出来うる事業の展開を志し、その為に当方の通訳を伴い指定の場所に赴きました。当方の通訳を同伴したのは中国では重要な仕事の打ち合わせは相手の通訳を通じては出来ない。それは利益の配分に関し特殊な打ち合わせが必要だからです。打ち合わせでは当時新規拡張空港の設備に関する発注・ゴミ処理に関する計画等の大規模な事業計画の一部への参画でした。その案件を持ち帰り日本の上場企業に問い合わせたところ日本の弱小企業の持ち込んだ案件には色好い返事がもらえなかった。このような大案件は商社を通じ来るものとゆわれました。中国では当時商社と言うもの否定しておりました。この事業案件はすでに完成をしております。又、上記人物は現在ある省の大幹部です。中国はこの十年GDP日本の数倍の勢いでのび、数年でアメリカを凌ぐ勢いは周知の事実です。掲載した写真はこの話をした際帰り路案内された寺院です。寺院は広東省内ですが名前・位置等の関係は不明です。     

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寒山寺京杭大運河-219

2014-10-01 21:05:58 | 中国旅・旅行・出張

寒山寺京杭大運河-219

寒山寺五古-219    張家港より寒山寺の稿にて寒山寺のことを掲載した折に寒山寺へ「金一封を寄付」と記載しましてから、その時寒山寺より何か頂いたのを思い出し、探しましたところ淡路のセカンドハウスの押し入れより軸が見つかりました。すっかり忘れていました。早速写真を写し掲載することにしました。左端に寒山寺の朱印・蘇州寒山寺・その下に人物名がかかれております。文字はご覧のとうり「常楽永(和)康」と記載されています。寒山寺五古とは寒山寺(古寺)、楓橋・江村橋(古橋)、鉄鈴橋(古関)、楓橋古鎮(古鎮)、京杭大運河(古運河)を指すそうです。前回鉄鈴橋の手前で写した写真をけいさいしましたが関を抜け楓橋から運河を写した写真を掲載します。この京杭大運河は北京から浙江省までの長距離流れる運河で春秋戦国時代から隋が工事を進め中国物流の大動脈であり、蘇州からは杭州・揚州を経て洛陽へと通じているようです。 蘇州見学後同伴者と食事をしました。  

 

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広州アジア大会-218

2014-08-03 11:40:41 | 中国旅・旅行・出張

広州アジア大会

中国アジア大会夢の後-218    2010年に中国広州で開かれた夏季アジア大会の夢の後の開発。街は整備され大会の施設の多くは病院・役所・学校等に転用整備されています。選手宿泊施設の多くは住宅として売りに出されました。此の住宅は少し街から離れている割には数千万もしたようです。立地的には何も無かった処に会場が造られたために乗り入れの為の道路は大方整備されました。しかし、我が国風に言えば大量の輸送機関は無く、バスが乗り入れの手段です。少し遠く離れ高速鉄道が整備されています。1913~1934年まで、日本、フイリッピン、中国の3カ国で開かれていた競技会が起源のアジア大会は基本的にはオリンピック同様のスポーツが行われますが、軟式テニス・囲碁・中国象棋・ガバデイ・空手道等アジアの地域性を反映した競技が行われます。2014年には韓国で開かれるようです。    

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