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フェイクニュースを哲学する ─ 何を信じるべきか (山田 圭一)

2024-12-29 11:08:36 | 本と雑誌

 いつも利用している図書館の新着本の棚で目につきました。

 “フェイクニュース” にしても “哲学(する)” にしても、とても気になるキーワードですね。
 特に昨今の「選挙」では、SNSで流布された玉石混淆の情報がその結果に大きく影響したこともあり、そういった時流の背景を理解するのに大いに参考になるのではと思い手に取ってみました。

 期待どおり興味深い指摘が多々ありましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきます。

 まずは、本書での議論に無用な混乱を生じさせないために、著者の山田圭一さん「フェイクニュースの定義」を試みています。

(p5より引用) フェイクニュースは「情報内容の真実性が欠如しており(偽であるか、ミスリードである)、かつ、情報を正直に伝えようとする意図が欠如している(欺くことを意図しているか、でたらめである)」ものとしてひとまず定義することができる。

 と整理しながら、「必ずしもその意味をひとつの定義に切り詰めて考える必要はない」とも語っています。

(p8より引用) 「フェイクニュース」という言葉は、自分と異なる相手の意見を抑圧したりその発言を無効化したりするための道具として用いられる危険性をもっている。

との指摘のとおり、現実的には、明確な言葉の定義よりも、その言葉が伝える意図や効果をしっかり認識しておくことの方が重要でしょう。

 次は、「第3章 どの専門家を信じればいいのか」の中で示された “知的自律性” の論考の中での山田さんからの示唆です。

(p113より引用) つまり知的に謙虚であるためには、自分の知的な限界を広く見積もりすぎ る知的傲慢と、狭く見積もりすぎる知的隷属の中間を縫いながら、自分の知的限界を正しく見極め、その限界に対して適切な仕方で対処する必要がある (Whitcomb et al. 2017)。この点で、判断を委ねるべき場面で判断を委ねるべき相手にきちんと判断を委ねることができる人こそが知的な謙虚さという徳をもっている人であり、その判断を自律的に行える人こそが本当の意味で知的に自律している人だといえるだろう。

 私たちが日々、様々な機会で接する情報の真偽を判断する際、“知的自律性に依拠した検討プロセス” を辿ることが重要ですが、その際の要諦ですね。

 そして最後は「陰謀論」をテーマにした議論。
 「第5章 陰謀論を信じてはいけないのか」にて山田さんが指摘している “陰謀論の社会的弊害” です。

(p174より引用) 陰謀論の脅威は、まさにこの悪循環のスパイラルにある。それは単にある特定の偽なる信念をもたらすだけでなく、陰謀論を正しい「知識」とみなす人々の認識を信頼するようになり、そうでない人の信頼度が下がり、その信頼度に基づいて新たな「知識」が獲得されていく・・・・・・という真理から遠ざかる螺旋運動をもたらすのである。
 このような認識的な信頼関係の根本的な配置転換を行った人たちとそうではない人たちとの あいだには、「何を真であるとみなすのか」の分断(真理の分断)だけでなく「何を認識の基礎とみなすのか」の分断(正当化の分断)が生じる。このことは、本書でみてきたような社会のなかで知識を基礎づける構造を共有不可能なものにし、われわれの知識の土台を根こそぎ掘り崩すことになる。この意味で、やはり陰謀論はわれわれの社会にとって深刻な脅威となりうるものである。

 こういったコメントのように、本書において山田さんは、昨今出現が顕著になったコミュニケーションにおける病理ともいうべき「フェイクニュース」や「陰謀論」といった現象を取り上げ、

(p179より引用) 「真理を多く、誤りを少なく」という認識目標や、「真なることを伝えるべし」「真偽を吟味すべし」といった認識的規範が機能しなくなるさまざまな状況・・・

をわかりやすく解説し、それに相対するための “知的思考プロセス” を示しています。

 要は “真理への関心”を持ち、“真理を探求し続ける” こと。
 そういう “知を尊ぶ姿勢(=哲学)” の大切さを伝えることを目指した著作ですが、タイトルに “哲学する” とあるように、「自律的に考えるための作法」を丁寧に紹介した良書だと思います。

 ただ、本書でも言及していますが、特に昨今 “知を尊ぶ姿勢” とは次元の異なる思想に基づく現象が生じています。“真実など二の次” 、SNS上でのアクセス稼ぎを目的とした行動(投稿)です。
 これは、発信者だけでなく、それに引寄せられ踊らされている受け手の存在も併せて事象を捉え論じなくてはならないのですが、考察にあたっては、そもそもの “人間の本性”  という心理学的・社会学的議論にも踏み込む必要があるでしょう。
 本書を嚆矢として、こういったテーマを扱った著作にもトライしてみたいですね。

 

 

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