
仁賀保駅前からすぐのところに秋葉神社があります。
静岡の秋葉山本宮の秋葉神社から遷宮されたもののようです。

上古は「岐陛保神ノ社」(キヘノホノカミノヤシロ)といったそうですが、中世両部神道の影響を受けて「秋葉大権現」と言うようなったそうで、明治初年教部省の達で権現号を改め「秋葉神社」となりました。

更に昭和27年全国の秋葉神社の総本宮であることから「秋葉山本宮秋葉神社」と改称しました。


主な交通手段は徒歩だった時代、秋葉道者(秋葉山への参詣者のこと)は各地で宿泊しながら本宮を目指しました。
そのため遠州各地の宿は道者で賑わい、秋葉山山麓にも多くの旅籠が軒を連ねていました。参詣者の多くは午後三時頃に山上に到着し、一晩参籠して明朝祈祷を受けて下山するのが常でした。
明治維新後、当社は「県社」の社格をもって遇されました。

文明開化のなか全国で鉄道が整備されましたが、秋葉山周辺では多くの参詣者の要望を受けて遠州鉄道や秋葉馬車鉄道(のちの静岡鉄道秋葉線)、鉄道・バスといった交通網がいち早く整備されました。山頂の参籠者が一晩に400人になることもあり、広い宿泊設備のある二階建ての社務所兼参籠所が建造されました。
この社務所は「秋葉弘道館」と呼ばれる教育機関でもありました。

神職や文化人により神職を志す若者や教育を受ける機会のない青少年に学問を教授しました。写真に写る袴姿の少年たちがその学生で常時20名ほど在籍し、彼らは給仕などの手伝いをしながら、読み書き算盤をはじめ神道、和漢の古典を学びました。
御祭神は、火之迦具土大神ヒノカグツチノオオミカミで伊邪那岐・伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神です。

火の光は時間的、空間的に人間の活動範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢れを祓い去ります。
光と・熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められてまいりしました。

文化科学の町に発展した仁賀保は秋葉神社に支えられているのかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます