読書案内「紙の月」(2) 角田光代著
何処にもいない自分 お金で買えるものが自分を自分らしくするのか
帰りたい、帰りたい
タイに失踪した梨花の心境を作者は次のように描写する。
なにが怖いんだ。あんなことをしでかして、今さら何がこわいんだ。
……梨花は心の中で叫び続けたまま、スコールの中にじっと立ちつくす。
いけ、動けという心の声とは裏腹に、梨花の足はどうあっても一歩すら踏み出すことができない。
そして最後「パスポートを拝見させてもらってもいいでしょうか」と言って近づく警官らしき男に梨花は叫ぶ。
「私をここから連れ出してください」
その言葉は過って梨花の不倫相手の若い恋人が、
梨花の腕の中から飛び去ろうとしたときの言葉と同じだった。
どんなにもがこうが決して自分から逃れることのできない虚ろな闇が
梨花を包んでいた。
大金を横領し、堕ちるところまで堕ちた梨花が手にしたものは何だったのだろう。
失ったものさえわからない。
人生そのものから梨花は失踪したかったのではないか。
『紙の月』とは、ストレートに解釈すれば、『紙で作った月』ということだが、ここから転じて
実態のないもの、偽物などの意味があるようです。
小説の中で2度、『月に触れている個所』が出てくるので、紹介します。
若い恋人・光太と花火を見るシーン。
「花火の向こうに月がある」ぽつりと光太が言った。たしかに切った爪のように細い月がかかっていた。花火が上
がるとそれは隠され、花火の光が吸い込まれるように消えるとそろそろと姿をあらわした。
夫・正文との実のない会話をしている時、梨花が仰いだ空に、月があらわれる。
さっとナイフで切り込みを入れたような細い月がかかっている。いつかどこかで見たことのある月だと梨花は思っ
たが、いつ、どこで、だれと見たのか思い出せなかった。
どちらの月も、細い月である。心が満たされるような満月ではなく、『折れそうに細い月』だ。
この月は、梨花の心象風景をあらわしている、淋しいとがった月だ。
梨花は、この月を以前にもどこかで見たことがあると思うのだが、いつ、だれと見た月なのか思い出せない。
梨花の潜在意識に住み着いた『紙の月』。
これがこの小説のテーマなのだろう。
著者は最後の文章を次のように結ぶ。
前述したように、梨花とかかわりを持った人たちが、
梨花が起こした横領事件をどう受け止めているのかという視
点で描くことによって、梨花の人生を浮かび上がらせようとした手法は
最後に、買い物依存症の中條亜紀の描写で終わる。
亜紀はその経済観念のなさに、夫から離婚され、娘の親権さえ奪われてしまう。
月に一度だけ娘に会うことが許されるが、
その娘にすら、娘が欲しいというものは、何でも与えてしまう。
娘と別れた後、『ひどくみすぼらしく』思える自分を引きずりながら、
梨花のことを思い出すシーン。亜紀の足取りは重い。
親とはぐれ、知らない町で迷子になったような気分だった。
帰ろう、帰ろうと思ううちに涙まで出てきた。なんで涙なんか、と思いながら亜紀は、
頬を伝い顎に滴る涙を拭くこともせず、帰ろう、帰ろうとくりかえしながら必死に歩いた。
小説はここで終わる。
亜紀もまた、どうしようもない自分に流されていく。
帰り着く場所のない亜紀は、梨花の投影でもある。
タイに失踪した梨花の苦しみが伝わってくる。
「私をここから連れ出してください」
梨花の無言の叫びが聞こえてくる。
(2017.01.21記)
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