海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑦ 待っていたのは……
付き添いの保護者や学校関係者の心配や不安をよそに、
学童たちは初めての航海に興奮し、
まるで修学旅行の夜のようになかなか寝付くことができなかった。
ちょうどその頃、
米国潜水艦ボウフィン号は学童疎開船団の進行方向の海域20㌔先で、
船団が近づくのを待ち構えていた。
船団から発信された暗号は、米国軍によって解析され、
航路や到着時刻まで正確に把握されていた。
夜10時監視員の交代があって間もなく、
左舷の遠くに五本の白い線の動きを発見。
次の瞬間彼は、
伝声管に向かって叫んでいた。
「雷跡発見! 距離500! 本線に向かって失踪中」
第一魚雷は船首前方を掠め、
第二魚雷も船倉左舷を通過した。
運命の第三魚雷は左舷船倉の第一船倉、
第四魚雷も同じ左舷の第二船倉に命中。
いずれも学童を収容した船倉の真下です。
最後の魚雷は左舷第七船倉の一般疎開者の入る真下に牙をむいた。
時刻は22時12分をさしていた。
船体は中央から裂け、
泡立った海水が甲板にせりあがってきた。
1944(昭和19)年8月22日22時23分頃、
吐噶喇(とから)列島の悪石島付近の海域にて沈没。
最初の魚雷攻撃から船が沈没するまで、
わずか12分の出来事だった。
(對馬丸の沈没地点 毎日新聞2018.8.16)
攻撃を受けた船団は、海軍佐世保基地に遭難の緊急信号を打電する。
しかし、この緊急発進も米軍は把握していた。
沖縄 奄美大島等の西南諸島海域は米軍の制海権下にあり、
日本側の情報は筒抜けであったと言われている。
過日、顎鬚仙人様から次のような短歌を紹介していただきましたので掲載します。
いつまでも消ゆることなき少女らの声
「宮城先生」と細りゆく声
新崎美津子
紹介者の長谷川櫂の解説
對馬丸に乗っていた教師の短歌。作者は筏で漂流して生き残った先生で「宮城」は作者の旧姓。
(読売新聞2023.7.13 長谷川櫂の「四季の歌」より)
※短歌の作者・新崎美津子さんは、2011年2月に90歳で逝去され、たくさんの短歌を残されました。
「對馬丸番外編」として後日紹介したいと思います。
(つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№31) (2023.8.12記)
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