「白旗の少女」(3) 少女が見た地獄
沖縄の戦場をたった一人で逃げ回り、白旗を掲げて投降した話は、「沖縄戦 家族を失い投降」(8/6付)、二枚目の写真の真相(8/5付)で詳しく述べたので、興味のある方はどうぞ読んでいただけると幸いです。
今回は、たった一人で沖縄の戦場を45日間に渡り、死の恐怖と空腹に襲われ、
彷徨(さまよ)った少女が見た地獄の光景を少女の手記「白旗の少女」より抜粋してお知らせします。
(講談社・単行本 品切れ)
(講談社青い鳥文庫・入手可)
砲弾の破片か爆風にでもやられたのでしょう、胸から血を流してぐったりしている母親の胸で、その流れる血をすすっている一歳ぐらいの赤ちゃんの姿です。 …略… 赤ちゃんは私を見つけると、口といわず頬といわず、顔中を血まみれにしながら、「だっこして」とでもいうように、両手を伸ばしてくるのです。その両手も母親の血で真っ赤に染まっていました。 …略… それはもう地獄でした。わたしには、ほかに表現する言葉も文字も見つかりません。
七歳の幼い少女が見た地獄は、その後の彼女の人生にどんな影響を与えたのでしょう。
爆弾や砲弾のために命を落とした人をまたいだり、暗闇で死人とわからず、転んだりしながら歩く」
少女・比嘉(ひが)富子さんのけなげな姿と生命力の強さに驚きます。
ガマの中から赤ちゃんの泣き声が聞こえました。 …略… 大声で泣き続ける赤ちゃんをおぶった若いお母さんが、四、五人の兵隊に押し出されるようにガマの入口にあらわれました。お母さんは、ガマの中を指でさしながら、兵隊たちに何度も何度も頭をさげていました。きっと中に入れてくださいとお願いしていたのだと思います。しかし、兵隊たちは、お母さんを入れるどころか手で追いはらい、とうとうお母さんは、ガマの外に追い出されてしまいました。(※ガマ=住民や日本兵の避難場所や野戦病院として利用された)
ずいぶんひどい話です。
国民の命を守れない兵隊に何が守れるというのか。
投降しようとする者は住民、兵隊の区別なく逃げる背中に向かって拳銃を撃つような狂気が充満し、
「国を守る」という大義名分のもとに、多くの人々が命を落とした。
この文節は次のような展開をします。
悲しいのは、これに類似した話が、他の戦場でも起きていたということです。
そのとたんです。ダダダッと機銃の音がしました。おかあさんの体が、クルクルクルッとコマのようにまわったかと思うとバタッと倒れて、そのまま動かなくなりました。その背中では、赤ちゃんがまだ泣きつづけていました。そのとき、ガマから黒いかげがツツッと地面をはうようにしてあらわれ、たおれているお母さんのそばにかけよると、その背中から赤ん坊をひきはなして、岩かげに走りこんでいきました。赤ちゃんの泣き声がしだいに遠くなっていって、急に泣き声が聞こえなくりました。ガマはふたたび静まりかえり…………
自分たちの命を守るために、無抵抗の命を奪うことが黙認されるような狂気が戦場では、数えきれないほど起きました。
それにしても、自分が生き残るためには、たとえ相手が味方の兵隊であっても、それどころか、なんの抵抗もできない母親でも、わたしのような子どもでも、そして、赤ちゃんでさえも殺さなければならないなんて……。
七歳の少女は、沖縄の戦場をたった一人で、
地獄の風景の中を彷徨い、「白旗」を掲げて投降することを勧めてくれた老夫婦の隠れ住むガマにたどり着きます。 (2015.8.16記)
次回は、少女がたどり着いたガマの中の老人夫妻と「白旗の少女」として少女が投降するまでをお話ししたいと思います。
※ 「白旗の少女」は七歳の時に、沖縄戦で体験した逃避行のすえ、米軍に白旗を掲げて投降した比嘉(ひが)富子さん(77)の手記です。あとがきによ れば、昭和62(1987)年ごろから、自分の記憶の鮮明な部分を整理し、こつこつと書きすすめてきた。その結果出来上がったのが本書です。1989年刊行 講談社 写真の単行本は現在品切れですが、同じ講談社から「講談社青空文庫」としても発行され、こちらは入手可能。
つづく
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