新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

<運動と休息>・<疲れと回復>の話

2024-12-13 14:24:44 | 「わたし事・学」


<運動と休息>・<疲れと回復>の話
「運動と疲れ」・「労働と疲労」の話


師範が曰く~
動物の運動継続の結果は「疲れ」。
人間の労働継続の結果は、「疲労」。


両者の違いは~
「本能的運動」をする動物。
「目的・認識・意識的な運動・行動・行為」をする人間。

動物の疲れは、あ本能的な運動を長く継続した結果…
人間の疲労は、思惟・思考…考え続けての労働を長く続けた結果…

まあ~この辺は適当に~


問題は~
「いのちの歴史の物語」の中の進化の過程での
「単細胞体」の「運動と休息」とは?


そう~疲れるのは運動を長く継続したから、
でも…「走って」いて疲れたら「歩けば」少し元気になる・回復する…
それは、何故…「異なった運動に変えたから…?」


では…そもそも~
「運動とは?」・「疲れとは?」という「疑問を抱いた!」

その時、二天さんの「いのちの歴史の物語」的に思惟する…を想い出し…
では、進化の過程での「単細胞体段階」の生命体の「運動とは?」と問い掛けた~


神経も肉もも筋肉も…ない、あるの「細胞液と細胞膜」…
そんな、単細胞体の「運動・原動力は~どこから来るの?」
その時の「疲れの回復力・方法は?」


運動は、昼間の太陽光エネルギーに熱せられた岩石の高低温度変化による「細胞液の温度上昇・下降」結果の膨張運動。
休息は、夜に月光エネルギーによる比較的に低く安定した岩石温度変化による「細胞液の状態」


温度変化による運動・回復と言えよう~


そうだから…人間は睡眠中は、体温が下がる。
運動中は、体温が上がる…体温が上がる事で運動が活性化する。
だから、「ウォーミングアップ」で、ゆっくり体温を上げる。


細胞液の温度調整が直接自分では、できない「単細胞体」
でも…目的意識的に殆どの運動が可能な人間は、運動によって自己の体温の変化・調整が可能…

そう考えると…睡眠中に動くと「体温が上がる」だから「疲労回復を邪魔になる」。
もぞもぞ…運動は、冷えすぎた体温を少し上げる事が可能。

特に、年寄は、睡眠中体温が冷えすぎて眠れない事がある。
子供は、体温が熱すぎて、眠れない事がある。


「運動・休息の源基形態」が~
「太陽光・月光・エネルギーの岩石の温度変化」とは、私的には大発見!!!

「いのちの歴史も物語」様様様を思い出させてくれた二天様様様~ですかね♪♪♪


そうそう…単細胞体は、直接太陽光での細胞液の温度上昇はてきない…
岩石の表面温度の上昇があって…初めて「細胞液の温度は上昇可能」








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昨日の話

2024-12-13 13:25:30 | 「わたし事・学」

昨日の話



昨日は家内の誕生日、昨日で還暦を迎えていた筈の家内の誕生日…
そんな昨日に、以下の記事と同じような事を思っていた私だった事に、
今朝のパソコンへの「goo blog」知らせに気付き見たら発見できた。

ただ…昨日は、以下の記事のような「不思議感」はなく、
私的意識の無い・私のいない世界、真っ暗な私世界があるだろう。
そんな世界がずっと続いていくのだろう…
それが不思議ではなく当たり前に思えた。
過去の私が消え、今の私の存在がある。
小さい頃の息子は消え、今の一人前の社会人の息子が存在している。

過去の皇帝は、一人で行くのが寂しくて…家来を皆殺しで道連れ…
時代は変わり、人ではなく泥人形を道連れに「逝った」のだろう…
家内はひとりで逝き、私もきっとひとり逝くのだろう…

否…私は、私の世界を道連れに、私の世界と共に、旅立って逝くのだろう…

でも…その前に、この世界でやれる事・やりたい事・やるべき事…
そんな事々を可能な限り、悔いの残らないように、やり遂げるべきであろう…
でも…しかし…私・自由びとは、何をやりたい!やり遂げたい!のだろう???






「この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!」
2023-12-11 15:49:27 | ♬~我が悟りへの道程~♬
この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!


昨日書いていたなら「この不思議感は何なのだろうか?」
でも…今日書いているので「あの不思議感は何だったのだろう?」になるが…


この・あの不思議感とは、私の感情であり、それは「ある事」の妄想・幻想・夢想から生じた感情。

妄想とは、現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事。
幻想とは、現実に存在しないものや起こり得ない現象などを心に思い描く事。
無想とは、現実からかけはなれた場面を思い描く事。


感情は頭脳活動であり、そこには認識・像が伴なうモノ。
今回の「突然・再び」・「再びの突然」の想起から生じた「この・あの不思議感」の認識像とは?

私は、何年前からであろうか…その原因・理由も不明だか゛…
この・あの「想い」が、突然に生じてくる。
日頃は全く意識に上らない「あの・この認識」の正体とは?


初めて思った?考えた?時には、
特に今回のような「不思議感」はなかった。

その妄想・幻想・夢想とは~

私の死後の、この世界の様子である。
私はいない!でも、この世界はある。

私の、今この瞬間のような思い・考え・認識…がない!消えている筈…
それでも、そこに私がいる。

この私がいる・私の認識があるのに、そこに私はいない!

そこに私はいない筈なのに、私の認識がその世界を想像できるのに…
その世界に私はいない!

何もない筈!私がいない!でも世界はある。



以前、映画「僕だけがいない街」を観たが…私のこの認識は、それ以前から時々起こった。
それは、ある時・ある瞬間に突然に生じてくる~

この「私の存在していない世界」での私の認識が、非常に「ふ・し・ぎ」!
特に、今回は、その不思議感が以前に増して強烈であった!

それも、昨日までの話であり、今日には薄らいでいるが…
これは、「感情の量質変化」であろうか…

当初めは、強烈な感情でも…その継続・時間がある程度伸びると、
その感情に慣れてしまい…当初の強烈さが減少していく。
この事は、「家内の死」に対する私の「強烈な悲しみ」感情にも言えている…



そう~数日前の私は理由もないのに何故か「ウキウキ」♪♪♪
でも、一昨日の私は「シズシズ」で何故か少々の落ち込み…
それでも、今の私は、訳も分からずに「ウキウキ」。


その理由は、今の私には薄ぼんやりと、みえてきている…
それは、私が、私自身の感情・変化を捉えようとしているから…
感情は、生活している瞬間・瞬間に変化している筈なのに…
それなのに…多くの人は、そんな自分の些細な感情変化を殆ど気にする事はない…のだろう。
私の潜在的感情は、何気ない出来事・他人の態度に過敏に呼応されている、ようだから…



今ここに生きている私が、私の死後の私の存在しない世界を想像する事は矛盾であろう。
そんな想像を妄想・幻想・夢想レベルで、やり続けた結果が、あの・この「ふ・し・ぎ」感であろう。


ありえない想像なのに、幻想・夢想なのに、私は、それを妄想だと認識し続けてきた結果であろう…
それとも、想像し続けた結果の量質転化化の結果が、想像・幻想・夢想が、
妄想(現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事)に量質転化したのだろうか…


まあ~こんな他愛のない妄想なら、私・他人へ害を及ぼす事のない話だから…問題ないだろうが…


この今の私・今のような認識が、永遠にない世界は、想像不能の筈なのに…
その想像を繰り返し・妄想を繰り返している私は、ある無意味精神異常者なのかも…


ただ…この妄想に囚われて日々を妄想的に生活したら、真の精神異常者だろう…
幸いに…私は非常に忘れっぽい者なので…
数日経つと妄想内容は覚えていても、その感情は忘れてしまう。
ただ「ふ・し・ぎ」だった言葉は覚えているだろうが…
この不思議感は、忘れているのだろう…


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