アキレスが亀を追い越せない理由?
アキレスは、何故に、カメの到達点を目標に、亀の後を追いかけるのか?
アキレスは、何故に、自分の歩幅を変えてまで、亀を追い抜かないのか?
考えられる、「その理由」とは~
人間的なアキレスには~
ゴールを知らない。
ゴールが分からない。
ゴールが見えない。
ゴールへの道が分からない。
ゴールへの道が見えない。
本能的な亀には~
ゴールを知っている。
ゴールが分かる。
ゴールが見える。
ゴールへの道が分かる。
ゴールへの道が見える。
だから亀の残像・地点を目指している、
ゼノンの「アキレスと亀の競争」では、
アキレスは永遠にカメに到達出来ず、
追い越す事も出来ない。
では、どうすればいいのか?
アキレスは、亀の到達点の残像地点を目指しつつ、
亀の真上を通過すると時に、亀の横に着地して、亀の歩みと共に歩を進める。
亀の横で、亀の歩に合わせて進む事で、ゴールへの到達は可能になる。
対立物の相互浸透の進行・過程…と言えよう。
ここでアキレスが、亀の動きから、ゴールへの道を知り得たなら、
アキレスは本来のスピードで、亀に頼らずゴール可能になる。
しかし、人間的なアキレスに、本能的な亀の歩みの先を予想不可能であった場合、自分の予想で亀より先へ進む事には、ゴールに到達不能の可能性があり得るだろう。
ならば、アキレスは、亀を肩にのせ・背負って進むべきゴールへの道を教えてもらいながら進む。
この時、アキレスは自分とは異なる存在である亀と共に歩む事になる。
アキレスの歩み・速さと亀の本能・実力が一体化して、最強の選手の誕生である。
矛盾とは、
「A」というモノ・コトが、
Aとは異質な「B」というモノ・コトを背負って存在している場合である。
アキレスは、自分とは異なる亀を背負っているだけなら、、
別々の存在が、別々の空間に存在している…だけである。
しかし、アキレスが亀の教え・「道」に従って走る時、
アキレスが自分の意志で、自己の認識ではない、
他者の「亀の認識」に従って、行動している事になる。
アキレスにとって、肩にのせただけ亀は、他者であり、
対立物ではあっても、「対立物の統一」には至っていない。
弁証法の一つの法則である「対立物の統一」とは、
一つ一つの独立的な存在している、ある物事と別の物事、
それらではなく、
人間が自己の頭脳内で、それら二つを一つに統一・まとめ上げる事。
ここでは、アキレスが、亀の認識・ゴールへの道程を、
自分自身の意志で、自己の認識・ゴールへの道程と信じ切った時、
それが「対立物の統一」となり得る。
絶対矛盾とは、
アキレスと亀の一緒でのゴールへの道程は、
「亀のゴールへの本能・認識」と「アキレスの行動・走り」…絶対に相互浸透しない。
人間は、動物の真似は可能でも、どんなに努力・頑張っても、動物本能的な行動はできない。
動物も、表面的な人間の真似は多少できても、本質的に人間にはなり得ない。
従って…アキレスと亀の競争じたい、動物と人間の「対立物の統一
」⇒両者の同時移動は可能でも、
それら二つは常に矛盾し続けるモノ⇒「絶対矛盾」なのだろう。
二つの統一⇒一つになるモノ「対立物の統一」⇒二つが異質な一つへの止揚…であろう。
これが、「非敵対矛盾」⇒二つの変化・運動性が一つの変化運動性へ…
二つの統一⇒二つの運動の統一⇒二つの変化・運動性の総体⇒異質な二つ運動性の総体…
これが、「敵対的矛盾」⇒一つの物事の中に二つの変化・運動性が対立的に存在している。
非敵対的矛盾とは、そのモノの中に、二つの変化運動・矛盾の存在はない。
二つの矛盾・変化運動の統一の結果を一つに統一・止揚な可能な矛盾。
敵対矛盾とは、一つに止揚できない、常に二つの矛盾の同時進行が一つ。
これこそが、変化・運動の真っ最中であり⇒変化・運動性⇒「弁証法性」そのものであろう。
異質なモノ・コトが、一つの中で、互いに刺激しあっているから、
変化があり、運動が起こり得る…これが弁証法性なのだろう
自由びとさんが時々出現する神戸の老婆のブログでも自由びとさんだけ異質なんですよね。
他の人はそれぞれ違った意見であっても読んで分からない文章はありません。自由びとさんだけが良く分からない文章を書いて概念の違いだとか変なことを述べてます。
・コメントが届いた記事
アキレスが亀を追い越せない理由?
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/123bdda0f9cf3d24e31ab3f5ef839575
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
>相変わらず良く分からない文章ですね。
↑
え?!
「…分からない…」のに、こんなに連続コメントを、どうして書けるの?不思議!
私なら、もし「分からない」ならコメントを書く以前に分ろうと努力するし…
それでも…分からず、それでも分かりたい時は、直接的に質問するし、
分かりたくない時は、「スルー」ですね。
>自由びとさんが時々出現する神戸の老婆のブログでも自由びとさんだけ異質なんですよね。
↑
分からないから「異質」とは?
それって…お宅の自分勝手な暴論なのでは?
>他の人はそれぞれ違った意見であっても読んで分からない文章はありません。
↑
お宅は、↑これが「お宅の自分な解釈は?…とは思いませんよね!
>自由びとさんだけが良く分からない文章を書いて概念の違いだとか変なことを述べてます。
↑
文章の概念ではなく、「一つ一つの言葉の概念の違い」ですが…
犬を見た事・触った事…もなく、写真を見て、本で知った者の「イヌ」という動物のアバウトな認識像・概念と実際に「イヌ」を飼って世話した者の「イヌ」のアバウトな認識像・概念…そんな相違ですかね。
なんて書いても、どうせムダでしようが…
ですが、実際は世間的には全くの無名の本当に60代半ばの教員補助の人かも知れません。
それで全く素性の知らない不特定多数の中でも玄◯に関わりがあるという情報から「概念の労苦」ということを他の一般の人と比較して重要視している可能性を想定できるんです。
自由びとさんは「犬の概念」の話しをしましたけど、犬という言葉には「嗅ぎ回る」ことからの連想で「警察」や「スパイ」にも結びつく言葉ですよね?
例えば自由びとさんが「私、犬を飼っているんです。」と言ったなら私が「何を飼っているんです?」と聞いたとします。
その時、普通は自由びとさんは「何って犬って言ったでしょ」とはならないで「何」というのは犬の中でも犬種は何なのかを聞いているのだと判断して「ラブラドール・レトリバーを飼っているんです」とか答えるんだと思うんですよ。
ところがここで、「私、動物を飼っているんです」と言われたら「動物?」という戸惑いが生じますし、更に「私、生物を飼っているんです」と言われたなら「生物?」という怪訝な思いに襲われます。ましてや「私、あるモノを飼っているんです」と言われたなら「あるモノ?どうしてハッキリ言わないのだ?しかし「飼っている」と言ってるのだから生き物なのだろうけれど、意味が分からんな」と興味関心が薄れる人間もいたって不思議じゃありませんよね?
私が自由びとさんに持っているイメージはそんな感じですけども、過去の自由びとさんのコメントを持ち出してきて「ほら、これがそうなんですよ」と指摘する気には今はなりませんよね。
私は考えるんですけど、自由びとさんが言うように実際に身近に経験・体験して詳しく知っているならば漠然とした語彙を使って「中身の概念だけは違っているのだ!」などと強弁することなどしないで「チワワ飼ってるんです」とか「シェパード飼っているんです」と「最小・最適な語彙」を持ってくるんじゃないかと思うんですよ。
詳しく知るということは、それを指示する言葉の意味範囲が狭くなることだと思いますから、敢えて数学的に言うならば「X」という何だか分からない数値が「1<X<6」と範囲が限定されて、さらに「X=3」だと定まれば「ハッキリと解った」ということだと思いますけど、
自由びとさんの思考は「ある種の思考方法」に則ろうとしていて、「達人とは何か?アル事柄に熟達した人間のこと」だなどと「目の前で経験して詳しく知っている達人の誰か」から考えるのではなく、武道の達人か将棋の達人か学校の教育指導の達人か分からないけど「達人という言葉」から考えよう!みたいな「やり方」なんですね。
これは自由びとさんがご自分で2ちゃんねるにリンクを貼ってここのブログでの「達人概念の創出」か何か分かりませんけど自信で自慢の思考過程を披露したことから判断できるんですけどね。
・コメントが届いた記事
アキレスが亀を追い越せない理由?
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/123bdda0f9cf3d24e31ab3f5ef839575
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
>私は自由びとさんが誰なのか正直まったく分からないんです。だから世間的に名前がでている玄◯に関わりがある人を想起して思考の隙間を埋めようとしたりします。
>ですが、実際は世間的には全くの無名の本当に60代半ばの教員補助の人かも知れません。
↑
ストカーお宅の本領発揮ですね。
私の個人情報など…どうでもいいのです。
昔に⒉チャンネルで、初めて「⒉チャンネルって何?」的な質問した時、
本物の椿さんが、「ここ(ネット界・⒉チャンネル)では書かれたモノが全てだ!」といった回答を頂いた。
今、考える…「個人の特定・情報…なんてどうでもよく」、「その記述の内容が全て」…といった意味だったのだろうか?4
>それで全く素性の知らない不特定多数の中でも玄◯に関わりがあるという情報から「概念の労苦」ということを他の一般の人と比較して重要視している可能性を想定できるんです。
↑
一般の人は、「概念の概念」なんて興味がないのです。
でも、一般ではなく「哲学者ヘーゲル」は、「概念の苦労」を重要視していました。
「概念の苦労」の結果が、南郷氏的に書くなら、
人間の「観念的な世界」の「現実の世界的化」…
自己の観念・実態・実体を、現実の個々のモノ・コトの実態・実体に近づける…
>自由びとさんは「犬の概念」の話しをしましたけど、犬という言葉には「嗅ぎ回る」ことからの連想で「警察」や「スパイ」にも結びつく言葉ですよね?
>例えば自由びとさんが「私、犬を飼っているんです。」と言ったなら私が「何を飼っているんです?」と聞いたとします。
その時、普通は自由びとさんは「何って犬って言ったでしょ」とはならないで「何」というのは犬の中でも犬種は何なのかを聞いているのだと判断して「ラブラドール・レトリバーを飼っているんです」とか答えるんだと思うんですよ。
>ところがここで、「私、動物を飼っているんです」と言われたら「動物?」という戸惑いが生じますし、更に「私、生物を飼っているんです」と言われたなら「生物?」という怪訝な思いに襲われます。ましてや「私、あるモノを飼っているんです」と言われたなら「あるモノ?どうしてハッキリ言わないのだ?しかし「飼っている」と言ってるのだから生き物なのだろうけれど、意味が分からんな」と興味関心が薄れる人間もいたって不思議じゃありませんよね?
↑
バカだね。
現実世界の会話と、この私の記述・観念的世界での会話が同一である筈がないのに…
私とお宅の思考・思惟・認識は、絶対に不一致なのに…
お宅は、お宅自身の「問い・答え」を、私の「問い・答え」だと錯覚している。
>私が自由びとさんに持っているイメージはそんな感じですけども、過去の自由びとさんのコメントを持ち出してきて「ほら、これがそうなんですよ」と指摘する気には今はなりませんよね。
↑
出会った事のない人の、自分勝手なイメージが、正しいとは限りませんからね…
私は、「お宅のイメージとしては外れ!」かもしれないが…
お宅が、コメントを寄越し続ける姿やコメントから、私は自分勝手に思ったお宅のイメージを書いているのです。
>私は考えるんですけど、自由びとさんが言うように実際に身近に経験・体験して詳しく知っているならば漠然とした語彙を使って「中身の概念だけは違っているのだ!」などと強弁することなどしないで「チワワ飼ってるんです」とか「シェパード飼っているんです」と「最小・最適な語彙」を持ってくるんじゃないかと思うんですよ。
↑
>「中身の概念だけは違っているのだ!」
↑
そんなの、分るでしょう!
だって、「お宅は、私の記述を、私の伝えた事と同じには理解していない」のは事実です、から…
>詳しく知るということは、それを指示する言葉の意味範囲が狭くなることだと思いますから、敢えて数学的に言うならば「X」という何だか分からない数値が「1<X<6」と範囲が限定されて、さらに「X=3」だと定まれば「ハッキリと解った」ということだと思いますけど、
>自由びとさんの思考は「ある種の思考方法」に則ろうとしていて、「達人とは何か?アル事柄に熟達した人間のこと」だなどと「目の前で経験して詳しく知っている達人の誰か」から考えるのではなく、武道の達人か将棋の達人か学校の教育指導の達人か分からないけど「達人という言葉」から考えよう!みたいな「やり方」なんですね。
え!
「武道」・「達人」と言う言葉の意味が分からない子供が、
実際に現実の「武道の達人」に出会って、「この人は武道の達人」と思えますか?
確かに、多くの大人が、そう言えば・そう思うかも知れません。
しかし、子供自身の独力で「武道の達人」は分かりません。
お宅は、お宅の記憶・知識で、物事を考え・判断していますが…
その記憶・知識は、他人の体験・記憶…記述、他人の知識の宅の記憶…
所詮は、他人の力、他力本願ですね。
他力にならない為に、自力での本願の為に、「武道とは?」、「達人とは?」…を問い続けるのです。
>これは自由びとさんがご自分で2ちゃんねるにリンクを貼ってここのブログでの「達人概念の創出」か何か分かりませんけど自信で自慢の思考過程を披露したことから判断できるんですけどね。
↑
思考過程は、過程であって結果ではありません。
己の思考過程で、現実の事物・事象を思惟する時、「考える」過程は同じでも…
思考の結果・結論と思惟の結果・結論は、異なってきます。
まあ~
こんな事を書いても…
雲海お宅にとっては「へんてこりんな話」で終了!でしょうが…ね!
↑
知的・理性的なゴールへの道程!
そして、双方を当時に抱ける頭脳(アタマとココロ)!
三位一体