情緒障害は、直接見る事は出来ない。
私は、
特別支援学級の中で情緒障害児とされている児童の中に、
それを視て取ろうとしてきた。
実体的事実として情緒障害はない。
機能的事実としてはある。
実体があっての機能であるなら、
実体の変化・運動を通して情緒障害を視て取る事は可能だろう。
では、それはどんな発達障害なのだろう?
私には、自己の感情コントロールの発達障害と思えた。
正確には、感情表現の社会的化・社会的制御と言える。
感情は個人的モノでも、その表現は社会的モノ。
もっとも…周囲に誰もいない状態ならば別であるが…
赤ちゃんが、何かあると大泣きして保護者に訴える。
一年生が、それと同様に、大泣きで訴えたら…
二年生が、やったら?
三年生が…四年生が…
それでも、
周囲の人々が、その子の大泣きの理由を理解でき、
そうなんだ…と共感可能なら、それは障害とは言い難い。
何故なら、それは誰もが起こり得るモノだから…
情緒障害児達は、五感・感覚が過敏で、
そんな・こんな事でそこまで怒る?泣く?笑う?
そして
そこまで狂暴になる?
そこまで荒れる?
そんな事をそこまでする?
普通の児童なら、
越えられないラインを軽々と越えてしまう子供達と言える。
それは、良い事も、悪い事も…色々とである。
例えば、
怒って、担任・先生の髪の毛を思いっ切り引っ張る。
悔しくて、給食をひっくり返す。
喧嘩中に転んだ友達の顔面を蹴る。
普通に話していて、突然に友達の顔面をパンチする…
嬉しくて、担任・先生に抱き着いてくる。
嬉しくて、担任・先生の後ろから思いっ切り飛びつく。
感情の豊かさ・大きさ・敏感さ…は個性であろう。
しかし、その感情の表現は社会的モノとなり得る。
その表現が、他人の許容範囲を越えたなら、
それは個人的ではなく、社会的な問題となり得る。
社会的な感情表現の習得には、その手本・見本が不可欠である。
社会的な感情表現の修得なら、同年代の子供との共生が必要だろう。
ならば…自閉症とはどのような障害なのだろう。
端的には、感情表現が苦手で、感情の変化・運動を避ける事を求めたモノ?
情緒障害が、積極的な感情表現の制御障害・出し過ぎなら、
自閉症は、障害による積極的感情表出の放棄…かな?
それらは、
情緒障害が、感情の変化・運動の過剰な表現状態なら、
自閉症は、それを避けて安定した世界の中にいる状態。
一方が、過激な感情表現で周囲と上手くいかない状態なら、
他方は、感情表現ないが故の周囲からの無理解状態だろう。
何事も積み重ね。
大願成就を祈ります。
書かないなら無。
何かを書けば有。
無なら何も生じない。
有なら何かが起こる。
それが何であっても…