「真実は一つ」と「真実は一人に一つ」~
どちらも真理と言えよう。
そもそも「事実は一つ」であっても、
それを言葉にするなら一人一人違った言葉になろう。
真理が一つであっても、それを言葉にするなら~
「真理はある」とするのも真理なら「真理はない」とするも真理。
そもそも…事実も現実もあるがないモノと言い得る。
事実・現実という言葉はあっても、
その事実に100%合致する事実・現実は存在し得ない。
「私」は存在していても、100%同じ「私」は存在しない。
「私」は「私」であっても、常に違っている「私」である。
それでも、その違いの中に共通性を見出し「私」と認識している。
労働とは、人間が対象に目的・意識的に働き掛け、
対象を変化させる事で人間自身も変化していく、
その一連の行為・行動を言う。
人が、対象に目的意識を持って働き掛けるのが労働なら、
人が、目的意識的に対象に働き掛けないようするのも労働。
労働しようとするのが労働なら
労働しないようするのも労働。
「好き」で関わろうとするのも目的意識的な行為なら、
「嫌い」で避けようとするのも目的意識的な行為である。
自分自身の目的を意識できていなくても、そこに「目的意識」がある。
人は腹が減って食事をする。その目的は生きていく為のモノである。
人は、その目的を意識・自覚しているのだろうか?
人は「生きていく為」という目的を「楽しむ為」と変えていないだろう?
「生きる為に身体が必要なモノを食べる」と「楽しむ為に自分が食べたいモノを食べる」。
「食事は楽しんでするモノ」と「食事は静かにするモノ」。
楽しむ人生があれば、苦しむ人生もある。
生き急ぐ人生もあれば、死に急ぐ人生もある。
結局、どんな人生で、最後は「死」で終了だろう。
どうせ死んで終わりなら楽しむ人生を~。
どうせ死んで終わりなら苦しむ人生を~。
どうせ死んで終わりなら悲しむ人生を~。
どうせ死んで終わりなら自分の為の人生を~
どうせ死んで終わりから人間の為の人生を~
どうせ最後は死んで終わりなら納得できる人生を~
どうせ最後は死んで終わりなら今すぐ死んでも同じだ。
どうせ最後は死んで終わりなら死ぬまで必死に生きる。
私は死んでも息子は生きる、
息子が死んでも孫は生きる、
血縁者が死んでも人類は生きる、
人類が滅びても、生物は生きる、
生物が滅びても地球は残る、
全てが滅びても、新たに何かが生まれる。
「ある」とは、「ある」という状態がある。
「ない」とは、「ない」という状態がある。
「0」 とは、「0」という数字が「ある」。
全く何も存在しない「絶対0」・「絶対無」とは?
私が死んで逝った時、そこに「私的な無」が、
人類が滅び去った時、そこに「絶対無」が…起こり得るのだろう。
宇宙・世界を宇宙・世界と認識するモノがなくなれば、
宇宙も世界も、そこにあっても、それはないモノなのだろう。