自由とは、
他から制限されたり邪魔されたりしないで、
自分の思い通りにできる事。
制限とは、
一定の範囲を決めて、それを越える事を許さない事。
宇宙は無限であり、制限のないモノ、
そこには、無限の自由がある、と言える。
宇宙は、宇宙自体として自由である。
自分は、自分自体として自由である。
宇宙は、モノ自体から構成されている。
モノ自体には、無限の変化・運動性(弁証法性)=性質がある。
宇宙=モノ自体である。
モノ自体は、
その性質が決まった時、
物質(物の性質)として実体化する。
モノ自体は、
無限の性質=無限の弁証法性が故に、
あってなきモノなのだろう。
性質があっても、性質そのモノが変化・運動しているのだろう。
その無限の弁証法性が有限な弁証法性化した時、
それは、モノ自体が実体化した「物質」と言えよう。
ヘーゲル哲学では、モノ自体の性質を「絶対精神」と表現している。
「絶対精神」の実体化していく過程で、物質、生命、生命体…となるのだろう。
唯物論的世界観では、初めからあるのは、「モノ自体」。
観念論的世界観です、初めからあるのは、「絶対精神」。
唯物論的世界観では、宇宙の実体=モノ自体の存在を始原とし、
観念論的世界観では、宇宙の機能=モノ自体の機能を始原とした。
では、「世界観」の始まりはと言うと、それは「観念論」である。
「観念論」から「唯物論」へ、
そこから、「観念論的世界観」・「唯物論的世界観」へと~
自分は自分として自由である。
それは、自分の精神世界という制限内での自由。
自分の思い通り…が「自由」と言っても、
そこには「自分の思い」という制限がある。
この中身は、自分は、自分という制限内での「思い通り…」という自由。
また、全ての自由には、人間としての制限、子供、大人…としての制限がある。
全く制限のない自由とは、無限の宇宙・モノ自体(絶対精神)なのだろう。
全ての物質の自由とは、その物質という制限内でのモノである。
なので、全てのモノには自由がある。
しかし、無制限の自由=真の自由はない。
人間以外の物体・生物は、環境に合わせて、
その性質で存在⇒消滅し、他のモノへ変わる。
それらは、自己の存在し方、生き方を変えられない。
人間には意志がある。
人間は、自分の意志で生き方・存在の在り方を変えられる。
だから…~…~…~…
問題は、
自分が自由に生きる、
存在し続ける為には、
どうするか?
という事なのだろう…