「お宅」さんへ「観念論と唯物論」の話
観念論と唯物論ともに「……論」である。
「論」とは、音声・文字…言語である。
それらは、発声された音声・書かれた文字…である。
その元は、どこか? それは、人間の認識!
例えAIが、発声・打ち出したとしても、
それは、ある人物が考え出したモノを入力しているだけ…
観念論・唯物論の内容は、ともに過去の哲学者達が考え・創りだしたモノ。
それは人類の「認識像としての文化遺産」と言えよう。
元々…この世に存在しない「観念論・唯物論」を人類が創出した。
その創出は、実体のなるモノでない言語表現。
それは、その「論」を創出した・している人物の「認識」とも言えよう。
言語化した・している「論」の実体・実態は、その言語を発している人物の認識・頭脳活動と言える。
観念論も唯物論も、その実体・実態は、その人物の認識・頭脳活動。
例え、それが他人の模倣・盗用・真似…であっても、その実質は違っていても…それは発している人物の認識活動。
ここで~
「文字化・音声化した観念論」と「認識・頭脳活動としての観念論」は、相対的独立(実質は同じとは限らない)。
ここで「観念」も人間の認識・頭脳活動である。
観念論も唯物論も、その創出結果は「観念内」にある。
また…人間は生後初めて「認識活動」を「ゼロから始める」生物。
動物は生後、すぐ本能に基づき「種としての完成された本能・認識」から始まる。
ゼロから始める人間の「観念」は、
その人間が生きていく中での周囲の現実的な関りの中で「唯物的な押し付け」で創出される。
それは、生後の赤子にとっての「唯物的」だが…
世話する人間にとっては、「観念的な世話・関わり」と言えよう。
「認識的な実在である人類」は、その言動・思考…全ては、その人物の認識が決める「自由」である。
例え、他人のマネをしても、それは「他由をマネした自由」に過ぎないモノ。
人類・人間は、周囲の他人の(社会的な)観念を、(その人にとっての)唯物的に教育されて、観念的な人間に育つ。
そう~人間は、他人の観念を 唯物的に教育・押し付けられて、 自己の観念を創出・創造し育ている。
ここから~
唯物的な言動・行為。
観念的な言動・行為。
唯物的は、残念な事に、本能的でない人類にとっては、どんな時にも観念的になり得るモノ…
過去の「病気は呪い」と信じられていた時代の「治療は祈り」が唯物的。
その「祈り治療」は、現代人とっては、観念的「治療法」と言えよう。
人類にとっての「真実・真理」とは、社会的・文化遺産的な時代的な産物。
ここから「現実・事実・真実・真理」の話へ~
どうですか?「お宅さん」殿!
これでも…
↓
「自由びと氏の記述がレベルが高すぎて付いて行けません。」
「私の負けです、どうかご容赦ください。さよなら」
↑
なんて~思いますか?書けますか?書きますか?
「お宅さん」殿は、お宅を止めますか?続けますか?