どこかの原住民が、
「1、2、たくさん」と数えている・いたとか…
「たくさん」のモノ・コトを一つに集約可能である。
しかし、一つのモノに集約したら、そこに変化・運動はなくなってしまう。
そこで、変化・運動を可能にし続ける為には、一つでない方がよい。
ならば、「たくさん」をたくさんのままにしていていいだろう!
確かに、人類は「たくさん」いるから、たくさんをたくさんのままでもいいのかも知れない…
それは、たくさんの人類が集まれば、変化も運動も起こり得る、から…
それでも、人類の中の一人の人間が、
たくさんをたくさんのままで満足出来ずに、
一人でたくさんを把握しようと試みた、のだろう。
「たくさん」を少量ずつ集めて・纏めて、
少なめの「たくさん」にして、
その少なめの「たくさん」を集め・纏めて、より「少ないたくさん」
最終的に「一つ」に纏める前の「二つ」で止める。
それは、言うなれば、「二つ」と言う「一つ」の事である。
「二つ」であるから、変化・運動を起こし得る、のだろう。
「真理は一つ」とは、とても落ち着く言葉である。
「真理は二つ」とは、少々落ち着かない言葉である。
しかし…考えてみれば、人間が生きている事は、
変化・運動の真っ只中で、落ち着かないのが人間でもあるだろう。
落ち着かないから落ち着く為に「真理は一つ」を納得する人間もいるだろう。
確かに、死人なら「真理は一つ」=俺は死んだ、で問題もなかろうが…
生き活かしている人間が、より善き人生の為に、
「真理は一つ」では、真に役立たない、のだろう。
「真理は一つ」とは、「神(精神)が全て)」だろう。
「真理は二つ」とは、「全ては実体(モノ)と精神」だろう。
「真理は二つ」とは、構造論であるから…
現実生活で役立たせる為には、生活過程での、
その二つの具体化が必要なのだろう。
果たして、私は如何程に、
その二つの真理を、
一つずつ具現化可能なのだろう?
私の生活過程で…!
自分の真理と、対象の真理、
私の真理と、奴の真理、
教師の真理と学生の真理、
補助員の真理と子供・児童の真理、
自分の真理と世界の真理、
私の真理と家内の真理、
私の真理と息子の真理、
親の真理と父親の真理、
父親の真理と子供の真理、
社会の真理と世界の真理、
自身の専門でしっかりと理解すべきことですよね😊
その通りですね。
他人言葉から分かるは易し、
自分の実践での適用は難し。
その実践の言語化は超至難。
自分の専門・関わっている対象から「二つの真理」を見出し、
それを対象の構造にに即して「統一」する事が至難でしょうね。
更に超至難なのは、それの言語化ですね。
伏龍さん
気張って下さい。
頑張って下さい。
楽しみ期待です。