名無しの権兵衛さんへ
何と!
コテハンも書けなくなる程にボケましたか♪♪♪
しかも以下の引用も、いい加減ですね♪♪♪
>「>お宅には南郷氏の「絶対矛盾」という像は創れない<
これは正確に書くなら
「まあ~お宅には、南郷氏の「絶対矛盾」という認識・像は創れないでしょうが…
「もっとも…私にも無理でしょうが…」
「それでも、創ろう・創像しよう…という思いはあるのです。」
↑全然ニュアンスが違っていますよ!!!
>2020年6月28日の「「達人」について~」の記事<とは、古い記事をよく覚えていますね…
「概念規定」の創像過程の認識化・言語化・文字化は非常にムズイものがありますね♪♪♪
>……「絶対的に違う」……<、ともニュアンスが異なります。
人間には、絶対に現実とは一致しないような思考が可能な実力がある。
その現実とは絶対に一致しないような思考と事実は、「絶対矛盾」。
現実に起こり得る事実のようなのに、絶対に起こらない思考事実…「絶対矛盾」。
まあ~言語表現は難しいでするね。
確か…南郷氏は、ある時代に哲学が完成(ミネルバのフクロウが飛びった)時、
その時代の現実社会は、既にその一歩先へ進んでいる。
だから…その哲学は決して、その時代の現実社会の歩みに追いつけない。
そう~追いついたつもりが、決して追いついていない。
出来たつもりが、決して出来ていない。
分かったつもりが、決して分かっていない。
お宅の認識・確信みたい…ですね♪♪♪
分かった!
その時代の哲学とその時代の社会は絶対に一致しない」。
「絶対に矛盾」している。
分かった!
人間の認識・像は、現実の反映であっても、常に現実とはズレがある。
人間の眼前の事実を感覚して、頭脳に到着して認識するまでには、現実の先へ変化している。
人間の現実認識は、絶対に現実には追い付けない。
人間の認識像と現実の事実は、絶対に同時に完全一致はあり得ない。
これが「絶対矛盾」。
事実を感覚した瞬間、その事実は変化している。
南郷氏の「絶対矛盾」とは、上記のようなモノなのでは?
何と!
コテハンも書けなくなる程にボケましたか♪♪♪
しかも以下の引用も、いい加減ですね♪♪♪
>「>お宅には南郷氏の「絶対矛盾」という像は創れない<
これは正確に書くなら
「まあ~お宅には、南郷氏の「絶対矛盾」という認識・像は創れないでしょうが…
「もっとも…私にも無理でしょうが…」
「それでも、創ろう・創像しよう…という思いはあるのです。」
↑全然ニュアンスが違っていますよ!!!
>2020年6月28日の「「達人」について~」の記事<とは、古い記事をよく覚えていますね…
「概念規定」の創像過程の認識化・言語化・文字化は非常にムズイものがありますね♪♪♪
>……「絶対的に違う」……<、ともニュアンスが異なります。
人間には、絶対に現実とは一致しないような思考が可能な実力がある。
その現実とは絶対に一致しないような思考と事実は、「絶対矛盾」。
現実に起こり得る事実のようなのに、絶対に起こらない思考事実…「絶対矛盾」。
まあ~言語表現は難しいでするね。
確か…南郷氏は、ある時代に哲学が完成(ミネルバのフクロウが飛びった)時、
その時代の現実社会は、既にその一歩先へ進んでいる。
だから…その哲学は決して、その時代の現実社会の歩みに追いつけない。
そう~追いついたつもりが、決して追いついていない。
出来たつもりが、決して出来ていない。
分かったつもりが、決して分かっていない。
お宅の認識・確信みたい…ですね♪♪♪
分かった!
その時代の哲学とその時代の社会は絶対に一致しない」。
「絶対に矛盾」している。
分かった!
人間の認識・像は、現実の反映であっても、常に現実とはズレがある。
人間の眼前の事実を感覚して、頭脳に到着して認識するまでには、現実の先へ変化している。
人間の現実認識は、絶対に現実には追い付けない。
人間の認識像と現実の事実は、絶対に同時に完全一致はあり得ない。
これが「絶対矛盾」。
事実を感覚した瞬間、その事実は変化している。
南郷氏の「絶対矛盾」とは、上記のようなモノなのでは?
正直、私「雲海」が書いたものだということは前後の繋がりから理解できるでしょうから瑣末な話しだとも感じますけど、現実社会ではそうもいかないことも多々ありますよね。
学校のテストだとか国家試験で解答用紙に名前を書き忘れれば「他のみんなが名前を書いていたなら残りは私だと判断できたはず」などと強弁しても受け入れられずに0点でしょうしね。
私は自分の個人的な考えを述べているだけで、他の誰をも批判や非難するつもりはありません。
ちなみに、その「哲学は追いつけない」と言ったのは本に書かれていますか?それとも聞いた講義の中?
それについて私なりに考えるところがありますが、先ずは自由びとさんの考えを聞きたいものですね。
「哲学は追いつけない」と聞いて「はい、わかりました、追いつけません、そのように理解します」で終わりですか?
学校生活で「必ず持ち物に名前を明記させる理由」は以下です。
それは同じようなモノや全く同じモノがたくさんあるからです。
自分自身には、自分モノと分かっていても、
他人からは分かってもらえない、からです。
それは、教育的な観点から書くなら、自己の所有権の主張です。
ここで、コテハンを書くのは、自己の記述への責任だと考えています。
無名or他人のコテハンを使ってコメントを書くのは、責任感の欠如・所有権の放棄でしょう。
また、コテハンのない記述は、過去のコメントと連続的に読み難い…のです。
書いた当人には、理解可能な論理的連続でも、
他人が必ずその論理を正しく(書いた人の論理との一致)、読み解取れるとは限らない
さて…以下のコメントへ
>ちなみに、その「哲学は追いつけない」と言ったのは本に書かれていますか?それとも聞いた講義の中?
この言葉少々訂正です⇒「その完成した哲学が完成した時、社会は少し先へ進んでいる」
講義ではありません。
確か…「全集の三巻」が、その前に発刊された「ヘーゲル…」分厚い著書です。
今度、再読した時、そのページと記述を載せましょう。
>「哲学は追いつけない」と聞いて「はい、わかりました、追いつけません、そのように理解します」で終わりですか?
>「哲学は追いつけない」と聞いて「はい、わかりました、追いつけません、そのように理解します」で終わりですか?
あれ!
私の論理を取っていませんね。
記事「分かった!絶対矛盾」の以下の記述を論理的に読み取っていませんね。
「人間の認識・像は、現実の反映であっても、常に現実とはズレがある。
人間の眼前の事実を感覚して、頭脳に到着して認識するまでには、現実の先へ変化している。
人間の現実認識は、絶対に現実には追い付けない。
人間の認識像と現実の事実は、絶対に同時に完全一致はあり得ない。
これが「絶対矛盾」。
事実を感覚した瞬間、その事実は変化している。」
哲学的思考ではなく、完成体の哲学は「世界の観念内での反映像」です。
観念内の世界像が完成・された瞬間に、現実世界は変化しています。
なので、その観念内哲学世界と現実世界の不一致は当然なのです。
そこで、未熟な若者は、その時代の哲学を抱いて、更なる新世紀の哲学を求めていくのです。
私は南郷氏の著述も無闇に否定するつもりはないんですよ、それはご理解いただきたい。学ぶべきところがあるならば、それぞれの読み手が学べばよろしいのですから。
私は自由びとさんも南郷氏も逃げ道を塞いで追い詰めようなどとは思ってはいませんし、南郷氏が『武道講義』第一巻の「悟りとは何か」で「学問とは己れを安堵させ安らぎを生じさせるものである」と書いているように南郷氏の弟子である自由びとさんが己れが満足し安堵できるように思考し解釈することは、ある意味で自然なことかも知れませんしね。
ですけど、子供の頃の国語や算数の学びにおいても「解ってくること」「理解できてくること」は何とも名状し難い喜び・嬉しさがありますでしょう?
自由びとさんが引用した「ミネルバの梟」はヘーゲルが51歳のときに出版された『法の哲学』の一節ですが、南郷氏が『武道と弁証法の理論』(1998年、南郷氏64歳)で打ち上げた「21世紀にミネルバの梟を羽ばたかせ」た、つまりは「学苑 アテナ・ミネルヴァ」→『ZAKHEM 学城』も現実には追いつけないという自己矛盾として読むことも興味深いでしょうね。
「『歴史哲学』にコンコンと流れているヘーゲルの弁証法性を知らない御仁が、「ヘーゲルの魅力は、…時には弁証法など無視する論理展開の荒々しさ」などと新訳とやらを試みたとする人々」(『武道と弁証法の理論』p8)
やはり色々と理解が進んでいくためには知識が必要ですから、自らを大きく育て上げようと望むならば先生を選ぶことが重要でしょうね。
自分の理想・世界を目指すか!
過去から現在までの延長線上の理想・世界を目指すか!
過去から現在までの過程を踏まえての理想・世界を…
宇宙・地球・人類の歴史の過程・延長線を踏まえて、その結節点を踏まえて、の理想・世界を…
結局…まあ~
お宅と私の目的意識・認識の大きな相違ですよ!
もっとも…その違いは大きのですが…
それでも、その根底はチョットした・モノ大したモノではありません。
それは、本人の気持ちの持ち方・現実認識・世界を、
世界そのモノとして正しく全体的に観ようとする意識ですかね。
>私は自由びとさんも南郷氏も逃げ道を塞いで追い詰めようなどとは思ってはいませんし
↑
なんと…まあ非弁証法的な言葉!
非常口は、地震・火災…非常時の逃げ道です。
南郷氏の言説は、知識万能の現代社会から非常口・避難道ですかね。
お宅に…私の南郷認識への道を塞げる実力がある!とは思えませんが…
雲海さんって自身過剰のナルシストお宅なのでは♪♪♪
>やはり色々と理解が進んでいくためには知識が必要ですから、自らを大きく育て上げようと望むならば先生を選ぶことが重要でしょうね。
知識は何の為?
世界を知る・識る・悟る為!
哲学的な世界を知らない者の言葉・知識は、世界の一部の知識に過ぎない。
「群盲象を撫でる」ですよ!
ある事実を専門的に捉えられた知識と同時に全体的に捉えた知識…
そんな二重の知識を現実の己の事実で再体験・再措定できて、
初めて、その知識の智慧化が達成可能です。
知識を先生から学んだ事で満足・納得しているお宅って…幸せ者ですね。
南郷氏の言説は、暗記しただけで満足できるモノではありません。
更に、自分の生活・事実を通しての満足・納得・安堵…は至難ですよ。
それに比べたら他の知識なんて、暗記して、その他人の事実での適用で満足・納得・安堵可能なモので…
それは、楽勝レベルです。もっとも…知識の記憶量によっては至難ですが…
それに比して、南郷氏の言葉は、私にとって知識的な暗記は至難でも…
その根本的な論理・理論を分かる・体得すると案外シンプルですよね。
>ですけど、子供の頃の国語や算数の学びにおいても「解ってくること」「理解できてくること」は何とも名状し難い喜び・嬉しさがありますでしょう?
お宅には、先生の話・説明が素直に聞けず「いつも分からない」で、
授業が辛い・つまらない児童達の気持ちは分かり難い、ようですね。
そんな鈍才児童達は、自分では真面目に聞いている…と思い込んでいるのですよ。
彼らは、鈍才が故に、知識の記憶法・暗記法が分からない不得意なのです。
そんな児童達でも、日頃の子供同士の遊びの中ではなかなかのモノですよ。
その子達は、遊びを通して全身的・智慧的な学び得意でも、
授業での視覚・聴覚的・知識的な学びは不得意なのですよ。
まあ…何事にも、お宅のような主観的な自信は、全くないより、ある方が良いのですが…
でも、お宅のように、その主観的な自信をもって確信的な、他人への反論・異論は…
時に…「裸の王様」的で、笑えるモノが発生しますよ。
わ!は!は!~なんて私は決して笑いません♪♪♪
だっ…私でも初めは知識的にしか学べなかったから……
私は自由びとさんよりも実年齢としては随分と若者でしょうけれど、自分と異なる見識に強硬に反逆するには少し齢を重ねてしまっているのでしょうね。
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいますが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で解っていけば解っていくほど相手に対して優しくなれる自分がいますね。
乞食に対抗意識をもつ職業人もいないでしょうし。
解ってくれば解ってくるほど、南郷氏の述べた「学歴コンプレックス」ということが著述の核心として理解され、自由びとさんに対して優しい気持ちになっている私がいますね(笑)