新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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続・構造の構造

2023-03-11 09:34:45 | …弁証法…
続・構造の構造




>▼ コメント ────

>・コメントが届いた記事
>投球が止まって見える」とは?

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>https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/404e814180e2c65cac24c59474ba3a27

>・コメントを書いた人
>雲海

>・コメント
>しかし「文は人なり」で書いてるものを読むと自由びとさんが何も考えていないことが了解されますね。



この上記の「自由びと…何も考えてないが了解…」の構造とは?

雲海お宅が、自由びと記述を自由びとの思考・思惟に則って理解していない。
そのお宅の理解の内容・結果が、非自由びと的であろう。
その理解が「自由びとは何も考えていない」。

「何も考えず」に、こんな事が書けるでしょうか?
この言葉は、不適切です。

この「何も考えない」の構造は?
お宅の「理解できない」自由びとの記述を、
「自由びと何も考えていない」結果だと考える事で…
結果的に、お宅自身を安心・安堵させている…



それは、その思考レベルであり、自由びとの思惟レベルではなかった。

私は・これまで散々に考え続けていた。
何故に、
私は子供を叱ってしまうのだろう?
この子は何故、そんな事を言うのだろう?
この子は、何故に怒っているのだろう?
この子は、何故に学校から脱走しようとしているのだろう?
この子は、何故に「面倒臭い!」を連発しているのだろう?

私の思い・考えとその子の思い・考えを合わせて思惟し続けている。
その子の日々の様子・言動、その時の言動…を総合的に思考…


他人の思考・思惟は、
その他人の現実・生活を知らないと…
なかなか理解し難いモノがあります。


>「成り切るの構造」って、構造という言葉をどういう意味で使っているのですかね?恐らくは既に指摘したように南郷さんの本に「現象論、構造論、本質論」という武谷三段階論の言葉や「論理構造」という言葉が書いてあったから意味も分からずに丸暗記したのでしょうけれど(嘆息)。

>私が考えるに「構造」というのは家や人体の構造と同じく「どういう部分がどのように構成されて全体を作っているか?」ということですよ。ですから「家の構造」でしたら玄関があってリビングがあって寝室があって応接間があって、それがどういう理由でどんな位置関係になっているか?というのが構造ですよ。

>だから南郷さんの武道論なら技を作るという稽古の箇所と実際に試合うという勝負の箇所という二大構造に分かれていて、足幅を広くとった騎馬立ちや前屈立ちはその稽古の初期の段階に位置づけられる、という位置関係が構造だと思いますけどね。

>「成り切る」というのは禅ですから所謂「平常心、不動心」で「打てなかったらどうしよう」だとか「ストレートに山をはっていてカーブだったらどうしよう」だとかの迷いも無く「無心」で来たボールを打つだけということですよ。それが練習だとか試合だとかの関係性に分けられるのが「構造」じゃないかと考えますけど「成り切るの構造」ってどういう意味?



「成り切るの構造」とは~

初めは、
役者が「自分的に勝手に」で演技するのではなく、
登場人物の生い立ち・性質を想像して、そ「の人物の言動・態度・認識」で演技する、ように…「成る」

次に、
その繰り返しから、役を演じのではなく、自分の言動そのものが、その役の人物そのモノになれた時「成り切る」となる。

子供がヒーロー・仮面ライダーに憧れて、それに「成り切って」遊ぶ…そんな感じです。




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