以下のコメントへのコメントを記事にした。
・コメントを書いた人
フロイト
・コメント
私の質問はスンナリ了承されるのではないでしょうか?自由びとさんが素直なご自分を記述されているのなら。
だって弁証法について書けないし書かないのに弁証法について書きたいというのは自然じゃありませんからね。
これが未成年でこれから自分がどこに向かっていくのかも皆目わからない子供でしたら分からなくもありませんが。
自由びとさんはご結婚されていて子供もいらっしゃるんでしょう?それなのに最大の関心事は自分でも良くわからないことだなんて変じゃありませんか?
客観的にみたならば、自由びとさんが弁証法について書けないし書かないのは弁証法というものに大して興味ももっていなければ必要ともしていないと結論づけて構わないように思いますし。
もしも自由びとさんが偽りなき自分をブログに綴っているのなら、このブログに描き出された人格が自由びとさんそのものでしょう。
↑~
>私の質問はスンナリ了承されるのではないでしょうか?自由びとさんが素直なご自分を記述されているのなら。
↑~
「スンナリ了承」したからといって、「素直なご自分を記述」するとは限らない。
それは、質問者の人格に素直に心を開けるか否かがカギである。
児童と教師の関係も同様である。
教師がどんにに正しい指導をしていても、
嫌いな(心を開けない)教師の言葉は聴けないのが普通である。
でも、家庭での躾が確りできている児童なら、
自分の感情を否定して、「正しい指導」を受け入れられるモノである。
ここでの「フロイト」は、
私の教師でないし…
私への指導でもないし…
だから、
コメント・質問に素直に答える必然性は皆無である。
ブログの記事なら、
自分で自分の心を自分に対して素直に開いて書ける。
でも…「フロイト氏」コメントには、
本能的に素直に心を閉じてしまっているようだ。
>自由びとさんはご結婚されていて子供もいらっしゃるんでしょう?それなのに最大の関心事は自分でも良くわからないことだなんて変じゃありませんか?
↑~
「最大の関心事」の決定は、時に至難である。
それは、色々な事があり、その一つ一つに忙しく関わっている場合。
諸々の事から、「最大の」を限定する為には、
忙しい現実を一旦離れる必要がある、ようだ…
>客観的にみたならば、自由びとさんが弁証法について書けないし書かないのは弁証法というものに大して興味ももっていなければ必要ともしていないと結論づけて構わないように思いますし。
↑~
どうぞ!どうぞ!ご自由に!
これもフロイトさんの人格がなせる技なのだろう。
>もしも自由びとさんが偽りなき自分をブログに綴っているのなら、
>このブログに描き出された人格が自由びとさんそのものでしょう。
このコメントには、弁証法性が感じられない。
そもそも~偽るとは?自分とは?
「偽りなき自分」とは?
人間として、
社会的自分として生きる為に、
個人的自分を偽り生きる事は、
社会人として偽りなき自分である。
自分の迷いを素直書いた場合、
自分の意志を素直に書いた場合、
自分の感情を素直に書いた場合、
自分の実感する・した弁証法を書いた場合、
自分が、正しいと思う弁証法を書いた場合、
師範が正しいと思っている弁証法を書いた場合、
学問的に正しいと思われる弁証法を書いた場合、
全て弁証法に対する偽りない自分の記述である。
でも、その時々で、記述は異なってしまう。
それでも、それらは偽りなき自分である。
私としては、自由びとさんと私とでは住んでいる精神世界が違う人間だとしか述べる言葉はないですね。