「禅」については、師範が以下のような事を書ている。
「問題を問題とする己を問題として、その問題を解決する方法」
「では、その具体的解決法とは?」を考えてみた。
先ずは以下公案・禅問答からである。
「野鴨」
師匠が弟子と歩いている。すると野原から野鴨の一群が飛び去っていった。
それを見た師匠が、弟子に聞いた。
「あれは何だ」
「野鴨です」
「どこへ飛んでいったのか」
「わかりません。ただ飛んでいったのみです」
答えを聞いた師匠は、急に弟子の鼻を強くつまんだ。
「痛い!」
「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」
弟子は悟りを開いた。
これを私的に書き変えるなら~
「あれは何だ」
「野鴨です」
「どこへ飛んでいったのか」
弟子「え!何が?」
師匠「そうか…(行ってしまったか)…」
「風になびく旗」
風になびく旗を見ながら、二人の僧が言い争っていた。
「これは旗が動いている」
「違う。風が動いているのだ」
そこに通りかかったもう1人の僧侶がいった。
「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」
以上の二つの例文について…
「野鴨」と「風になびく旗」の共通性は?
「運動している対象」と「それを認識している己」。
では、相違は?
なびく運動を認識持続可能な「旗」と飛び去って運動認識不能な「野鴨」。
対象が「なびく」運動に必要なモノは、旗の構造と旗をなびかせ風・空気の存在。
「なびく旗」を認識する己に必要なモノは、その「なびく」運動を感覚する感覚器官と頭脳。
「禅」に必要なモノは、対象に囚われない己の自由な心である。
もっとも…私的には自由な頭脳活動であるが…
「野鴨」の鴨は飛び去ったのに、
「鴨はどこへ行った?」と問うのは、
「鴨の事が気になっている」⇔「まだ心に鴨がいる」
だから師匠の言葉「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」
それは鴨は飛び去った筈の鴨が、
弟子の心に「ただ飛び去ったのみ…」の鴨という形で残っている。
その事を師匠は指摘したのだろう。
この問答の正解は、
「対象の鴨が飛び去った」なら「己の心の中に鴨も飛び去った」
心の中から飛び去った鴨だから
師匠の「どこへ飛んでいった?」に対して
弟子は「え!何が?」となり得る。
この質問が
「鴨はどこへ行った?」なら解答は「どの鴨?」。
「さっき鴨はどこへ飛んでいった?」なら「師匠の心!」
「あの鴨はどこへ行くのだろう?」なら「私達の心へ!」
ここで思い起こすのは「人は二度死ぬ」と言葉である。
一度目は自身の現実的な死であり、
二度目は他人の記憶の中の死消滅。
「なびく旗」では、「野鴨」とは違って「なびく旗」は認識可能。
一度「なびく」と認識し、なびき続けているなら
認識している人の心の中ではそのまま変わっていない・「動いて」いない。
だから「旗がなびく」のも「風が動く」のも運動である。
でも、旗がなびき続ける、風が動きつづける、なら
それは、「なびく・動く」という運動が変化していない。
自由な心とは常に変化し続ける心。
その現実に常に対応し続けるのが心。
禅とは生きる事。
生きるとは生物が常に現実の変化ついていけてる事。
人間が現実に対応するとは、頭脳活動が現実に対応する事。
頭脳活動の対応とは、アタマの対応とココロ対応、である。
生きる為の頭と生きる為の心とは?
現実は無限の連続で存在するモノ。
その対応には、線的対応と点的対応が考えられる。
アタマに求められる対応は「線的」であり、
ココロに求められる対応は「点的」である。
と私は考えた。
ふっと目にとまった旗を見て「なびく旗」と認識した瞬間はココロの働き・感情でも、
同じなびく旗を見続けているなら感情は変化しない・動かない、
同様に「風が動いている」と認識したらから、
その後は心・感情も動かない。
それなので感情的に動き続けているのは
「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」
となったのだろう。