例えば、誰からプレゼントを頂いた時、
頂いた物が気に入った時、「嬉しい」と言った。
これは、偽りなき自分の気持ち?
頂いた物が気に入らなかったのに「嬉しい」と言った。
これは、偽りの自分なのだろうか?
「頂いた物は嬉しく」ても
自分が、その相手から物をもらえない立場なら、
「物を頂く事は嬉しくない」となり得る。
また、その頂き物は「気に入らなく」ても、
その相手の気持ちが「嬉しい」場合もある。
相手の気持ちが迷惑で、
その贈り物も気に入らない、のに~
「嬉しい」と言った場合。
自分の気持ちを相手に偽って表現した事になるが…
それでも、自分で偽らない自分を見つめているのも事実。
迷惑なのに「嬉しい」と自分を誤魔化したり、
気に入らない物なのに、「嬉しい」と自分を誤魔化したり、
そんな時は、自分で自分を偽って捉えている事になり得る。
迷惑な事は、「嬉しい」コトではない。
気に入らない物は、「嬉しい」モノではない。
それでも、
気に入って・好きな人からの迷惑は「嬉しい」。
気に入って・好きな人のその気持ちは「嬉しい」。
贈り物は、「贈る気持ち」と「贈くられた物」の二重性がある。
それら二つをゴチャゴチャにする事無く、
分けて捉える事は、
一つの事を二つにして考える弁証法であろう。
コテハンをコロコロと変えて、
一つ一つが、さも別人の如く、
コメントを寄越すなら、
それは、偽りの者とも言えるだろう…
もっもと…
ネット界のコテハンを現実界の氏名と
同様に認識するなら…であるが
それでも、
その本質・人格が、偽れないなら、
それは、偽りのない自分なのだろう。
名前・コテハンを偽る事が可能でも、
その本質・人格を偽る事は至難だろう。
本質・人格が偽れるなら、それは二重人格だろうが…
それでも、その二重人格という本質は偽れない事になる。