「問題」とは、そこにがあるのではなく、
人が、「ある事」を問題として捉えるコトから生じるモノ。
その「ある事」とは、「ある状態」とも言える。
誰かが言っている~
「問題が起こった時、そこには解決がある」と…
これは、
人がある事を問題として捉えられる時、
その人の中には、自覚・無自覚に関わらず、
その問題の先にある理想像の認識がある、と言える。
しかし、その人には、
問題のある今、そしてその先にある理想像はあっても、
その過程である問題消滅像はない、のだろう。
確かな問題解消像のある者にとって、
その事は問題ではなく、ただの普通事なのだろうから~
そこで、問題解決を希求する者は、
その問題の生々・生成・発展を確り自覚。認識する事から始める必要がある。
その問題である事とは、ある状態であり、ある事の結果生じたモノでもある。
そこで考えるのは、自分は何故に、その事を問題視するのか?、である。
例えば、
授業中の児童の勝手な立ち歩きを、問題視するのは何故?
児童が教師を呼び捨てにするのを、問題視するのは何故?
授業中の自分勝手な私語を、問題視するのは何故?
教師を指示に従わない事を、問題視するのは何故?
他人の物を勝手に使用する事を、問題視するのは何故?
教師に対しての暴言を、問題視するのは何故?
やりたくない事をやらないのを、問題視するのは何故?
嫌いな食べ物を食べない事を、問題視するのは何故?
友達と遊ばずいつも独りでいる事を、問題視するのは何故?
自閉症を、問題視するのは何故?
情緒障害を、問題視するのは何故?
学習障害を、問題視するのは何故?
発達障害を、問題視するのは何故?
…………
こんな・そんな・あんな問題は限りなく生じてくるモノであろう。
そもそも「ある事」を問題・問題視するのは、その人にとって、
その事・状態が、己の理想状態・像達成の障害となり得るから、なのだろう。
例えば、
授業中の児童・生徒達は、
静かに先生の言葉に集中する事が、
理想の教師にとって、
立ち歩き、勝手な私語、居眠り…等は、問題視される。
しかし、
授業とは、勉強であり、
勉強とは、「勉めて強いる」の習得であると
像化・認識している教師にとって、
児童・生徒が初めから、
静かに座って授業を受けられない事は当然であり、
それらの事を問題する事はない。
確かに、その子供にとって「楽しければ夢中・集中できる」…
しかし、その子にとって、その授業は勉強にはなっていない。
暑ければクーラー、
寒ければ暖房、
上り下りはエスカレーター・エレベーター、
叱るより褒めて伸ばそう、
魚が嫌いなら肉を食べ、
肉が嫌いなら豆を食べ、
得意で好きな教科を頑張れば、嫌い不得意教科はどうで…
大変で苦労する事は、機械化しよう。
楽で快適な日々の生活を追及しよう。
現代社会・世界、本当に、それで良いのだろうか?
これは、生い先が長くないだろう、私にとって問題ない。
しかし、生い先が長く、夢も将来ある児童・生徒にとっては???
嫌な事がやれない!
嫌いな食べ物が食べられない!
自分の嫌な感情を直ぐに他人にぶつけてしまう!
失敗・過失を自分だけの責任にして自閉してしまう。
失敗・過失を他人だけの責任にして他人責めてしまう。
自閉症・情緒障害・学習障害…等の発達障害は、
成長過程で、以下のような認識が未発達なのだろう~
嫌な事でもやるべき事はやる努力をする認識。。
嫌いなモノでも食べる努力をする認識。