面白い!以下のブログ記事が…
以下が、自由びと「悟りを求めて…」ブログからの転写~
2012年04月21日
初めての教員生活~
『京都弁証法認識論研究会ブログ』のコメント欄で頂いた木田元殿の以下のコメントに応えたく書いてみました。
「経験主義的喧嘩拳法的発言もありましたので、許されるものでしたらお教え下さい。」との木田元殿のコメント…。
『義務的強制的に読ませられない限り、読まないだろう』このブログで書いたところで木田元殿は読まないでしょうが…
私的に木田元殿に『奴の言説は出鱈目で嘘八百!に決まっている!奴は大嘘吐きだ!』と思われる!のも心外で、しゃくにも障るので、敢えて書きました(私は根に持ち拘りタイプなので…)。
私が教鞭をとったあの学校は「各種学校」資格の学校で、こぢんまりとした家族的雰囲気の学校です。 私はそこの中等部の二十三期卒業生でした。
私が三十数名の小学三年生の担任になった時、その生徒達の保護者のほとんどがその学校での先輩達でした。 また、同僚の教師のほとんどが私の学生時代からの先生でした。
学校の教育方針も独特のものであり、こくご、さんすう、りか…の教科書は文部省(当時は)検定済でしたが、それ以外に普通の小・中学校では教えない独自の教科があり、その教科書は学校長または教科担当の教師が編纂したものでした。
私は、さんすう、りか、独自教科を担当し、他教科は他の教師が担当しました。 ここでは、普通の小学校のような学級担任性でなく、複数教科担任性?!といったようなものでした。
そこで…、教職課程をとらず教員免許もない私が教員になれたのは、私が卒業生であり、在学中の成績、学習態度…等が良く、私なら小学三年生の担任ができるだろう、という当時面接をした学校長、教頭の判断なのでしょう~。
授業は初めから、私一人で補助の先生はいませんでした。理由の一つは、当時人員不足で補助可能な先生がいなかったのだ、と思います。
以上のような学校で、教師として白紙的私が教鞭をとったのですから、学科指導は自分が過去にその学校で恩師から教えられた方法(経験主義的的方法)そのままであったし、生徒の生活指導(生徒間のトラブル、躾的側面…)に関しては行き当たりばったり的(喧嘩拳法的)なものになってしまっていました。
具体的には、宿題ノートを忘れた児童には、授業中に自宅へ取りに行かせました。あの時に、もし途中で事故にあったり怪我でもしたりしていたら責任問題だったのでしょうが…。
幸いに、保護者からは、「~子供には家の鍵を持たせるようにしたよ!」と言われただけで、特にクレームを受けた覚えはありません。
もっとも、学校長、教頭…にはクレームがあったかも知れませんが、私のところまでは伝わって来ませんでした。
その他にデパートでの集団万引きが分かった時、母親とその児童と一緒に、そのデパートに謝罪に行きました。 それはデパートの非常階段脇に置いてあったダンボールに入っていた、納品したてのファミコンのカセットでした。 デパート側には万引きされたことが分かっていなかったのでした。
確か…万引きしたのは、五、六名の児童で、その保護者の内、一人母親だけが謝罪に行くことを拒否しましたが…
まだまだ、今考えるとトンでもない指導の数々…これを私は、「 経験主義的喧嘩拳法的指導」 と表現したのです。
このように書いても、「嘘~!そんな学校、そんなお前を!教員に採用する学校なんてある筈がない!だろう!」と言われるでしょうが…
以上が私の記憶にある事実なのです。
その学校は、最近新しく建て直され、児童・生徒数も、あの頃より大幅に増加して、もう過去のあのこぢんまりした家族的雰囲気の学校ではなくなってしまったらしい~ですが…(聞いた話ですが…)。
そう~…「教師」を甘く見て、自分なら上手くやれるだろう!と思い教員になった私は、教壇に立って一週間で、「変になった」のです。
「変になった」とはどういうことか?
それは、今まで自覚したことの無いほどの強い思いを抱いてしまい、その思いが正しいと主観的に信じてしまったということです。
というより、その思いを疑うことなく、不信も抱けなかった!ということなのでしょう~か~?!。
その思いとは、『私は児童達にとっては神的存在であり、児童の為なら、私は何をしても良い!私に不可能なことは無い!』的もの、だったのです。
実際に授業中、生徒が「お腹が減った!何か食べに行こう!」と言ったので、(その思いのままに)そうか~なら、「レストランへ行こう!」と児童を連れて校門を出ようとしたところを、他の先生に呼び止められ、訳を話したら,「チョット待ってくれ!」と止められ、待っていたら校長?教頭?小学主任?(忘れた!)が来て、私は即刻帰宅させられて、数日後、母と叔父に付き添われて精神病院へと診察に~。
あの「思い」…あそこまでハッキリと意識され、その思いを否定も疑うこともせずにそれに従ってしまったあの私…
どのような~流れ~であのような思いを抱くことになっていったのか!
そして、あの教員生活、教師としての生活は、今の私にとってどんな意味があり、その当時の私にどのような変化・運動を起こしたか?
以上のようなことを考えながら、悟得への道が歩ければ!と想いつつ…今もこのブログを書き綴っています。
因みに、母が亡くなった時は『俺は達人になった!』との強い思い。
婚約解消問題発生時には『 俺は南郷継正になった!』 との強い思い。
そして、一昨年の暮れは 『前人未到の領域を歩いている人の気持ちが分かった!俺は悟った!』との強い思い。
そんな~ある日ある時突然…明確に意識された~強い思いの数々が…想い出されます。
何故? なぜ! ナゼ? NAZE ! Why… これらを弁証法と認識論を駆使して解明してゆけたら~♪♪♪
以下が、自由びと「悟りを求めて…」ブログからの転写~
2012年04月21日
初めての教員生活~
『京都弁証法認識論研究会ブログ』のコメント欄で頂いた木田元殿の以下のコメントに応えたく書いてみました。
「経験主義的喧嘩拳法的発言もありましたので、許されるものでしたらお教え下さい。」との木田元殿のコメント…。
『義務的強制的に読ませられない限り、読まないだろう』このブログで書いたところで木田元殿は読まないでしょうが…
私的に木田元殿に『奴の言説は出鱈目で嘘八百!に決まっている!奴は大嘘吐きだ!』と思われる!のも心外で、しゃくにも障るので、敢えて書きました(私は根に持ち拘りタイプなので…)。
私が教鞭をとったあの学校は「各種学校」資格の学校で、こぢんまりとした家族的雰囲気の学校です。 私はそこの中等部の二十三期卒業生でした。
私が三十数名の小学三年生の担任になった時、その生徒達の保護者のほとんどがその学校での先輩達でした。 また、同僚の教師のほとんどが私の学生時代からの先生でした。
学校の教育方針も独特のものであり、こくご、さんすう、りか…の教科書は文部省(当時は)検定済でしたが、それ以外に普通の小・中学校では教えない独自の教科があり、その教科書は学校長または教科担当の教師が編纂したものでした。
私は、さんすう、りか、独自教科を担当し、他教科は他の教師が担当しました。 ここでは、普通の小学校のような学級担任性でなく、複数教科担任性?!といったようなものでした。
そこで…、教職課程をとらず教員免許もない私が教員になれたのは、私が卒業生であり、在学中の成績、学習態度…等が良く、私なら小学三年生の担任ができるだろう、という当時面接をした学校長、教頭の判断なのでしょう~。
授業は初めから、私一人で補助の先生はいませんでした。理由の一つは、当時人員不足で補助可能な先生がいなかったのだ、と思います。
以上のような学校で、教師として白紙的私が教鞭をとったのですから、学科指導は自分が過去にその学校で恩師から教えられた方法(経験主義的的方法)そのままであったし、生徒の生活指導(生徒間のトラブル、躾的側面…)に関しては行き当たりばったり的(喧嘩拳法的)なものになってしまっていました。
具体的には、宿題ノートを忘れた児童には、授業中に自宅へ取りに行かせました。あの時に、もし途中で事故にあったり怪我でもしたりしていたら責任問題だったのでしょうが…。
幸いに、保護者からは、「~子供には家の鍵を持たせるようにしたよ!」と言われただけで、特にクレームを受けた覚えはありません。
もっとも、学校長、教頭…にはクレームがあったかも知れませんが、私のところまでは伝わって来ませんでした。
その他にデパートでの集団万引きが分かった時、母親とその児童と一緒に、そのデパートに謝罪に行きました。 それはデパートの非常階段脇に置いてあったダンボールに入っていた、納品したてのファミコンのカセットでした。 デパート側には万引きされたことが分かっていなかったのでした。
確か…万引きしたのは、五、六名の児童で、その保護者の内、一人母親だけが謝罪に行くことを拒否しましたが…
まだまだ、今考えるとトンでもない指導の数々…これを私は、「 経験主義的喧嘩拳法的指導」 と表現したのです。
このように書いても、「嘘~!そんな学校、そんなお前を!教員に採用する学校なんてある筈がない!だろう!」と言われるでしょうが…
以上が私の記憶にある事実なのです。
その学校は、最近新しく建て直され、児童・生徒数も、あの頃より大幅に増加して、もう過去のあのこぢんまりした家族的雰囲気の学校ではなくなってしまったらしい~ですが…(聞いた話ですが…)。
そう~…「教師」を甘く見て、自分なら上手くやれるだろう!と思い教員になった私は、教壇に立って一週間で、「変になった」のです。
「変になった」とはどういうことか?
それは、今まで自覚したことの無いほどの強い思いを抱いてしまい、その思いが正しいと主観的に信じてしまったということです。
というより、その思いを疑うことなく、不信も抱けなかった!ということなのでしょう~か~?!。
その思いとは、『私は児童達にとっては神的存在であり、児童の為なら、私は何をしても良い!私に不可能なことは無い!』的もの、だったのです。
実際に授業中、生徒が「お腹が減った!何か食べに行こう!」と言ったので、(その思いのままに)そうか~なら、「レストランへ行こう!」と児童を連れて校門を出ようとしたところを、他の先生に呼び止められ、訳を話したら,「チョット待ってくれ!」と止められ、待っていたら校長?教頭?小学主任?(忘れた!)が来て、私は即刻帰宅させられて、数日後、母と叔父に付き添われて精神病院へと診察に~。
あの「思い」…あそこまでハッキリと意識され、その思いを否定も疑うこともせずにそれに従ってしまったあの私…
どのような~流れ~であのような思いを抱くことになっていったのか!
そして、あの教員生活、教師としての生活は、今の私にとってどんな意味があり、その当時の私にどのような変化・運動を起こしたか?
以上のようなことを考えながら、悟得への道が歩ければ!と想いつつ…今もこのブログを書き綴っています。
因みに、母が亡くなった時は『俺は達人になった!』との強い思い。
婚約解消問題発生時には『 俺は南郷継正になった!』 との強い思い。
そして、一昨年の暮れは 『前人未到の領域を歩いている人の気持ちが分かった!俺は悟った!』との強い思い。
そんな~ある日ある時突然…明確に意識された~強い思いの数々が…想い出されます。
何故? なぜ! ナゼ? NAZE ! Why… これらを弁証法と認識論を駆使して解明してゆけたら~♪♪♪