分かるとは、「例解新国語辞典」
(一) 意味を知る。
(二) ハッキリと認められる。明らかになる。
(三)世の中の事や人情に理解がある。
分かるとは、「現代新国語辞典」
(一) 物事が明らかになる。見たり聞いたりして、知る事ができる。
(二) 理解する事ができて、意味内容が明らかになる。また、了解される。
(三) 人の気持や物事の事情を理解できる。
理解とは、物事の意味が分かること。
理解とは、物事の筋道・意味をさとること。
理会とは、物事の道理をさとること。
道理とは、理屈にあった筋道。
理屈とは、物事の筋道。もっともな論理。道理
悟る・覚るとは、
(一) 心の迷いを去り真理を会得する。
(二) 物事の意味・事情などをハッキリと理解する。また、隠されていた事柄に感づく。
「分かる」とは、上記のよう意味である。
何かが、「分かる」とは?
今まで知らなかった事が「明らかになり・知る」という事になろう。
ならば「分からない」とは?
「ハッキリしていない・知っていない」という事になろう。
さて、
当人が「ハッキリしていない・知っていない事」(分かっていない事)を
いきなり他人から「知らされ」て、それを直ぐに「分かる」であろうか?
この時、
他人から指摘された、その具体的に内容は理解できなくても、
その他人の指摘が正しいと判断可能・信じ切れるならば、
これは、自分が今まで「分からなかった」事が、他人の指摘で「分かった」となろう。
しかし、自分が長年の間、
ずっと気付けなかった事・知らなかった事を、
他人から言われて直ぐに納得・理解可能であろうか?
分からない事が、分かったとしても、
分からなかった具体的な内容を理解できるとは限らない。
例えば、
「一、二、たくさん」という数の概念しかない未開のアマゾン原住民に、
「1、2、3、4~」という物の数え方を説いても「分かる」事は不可能であろう…
彼らは、自分が算数を「分かっていない」事を、全く「分からない」(理解)できないであろう。
「何か」そのモノを、分かっていない」事と
「何か」の具体的内容が、分からない事とは、別物「分からない」である。
例えば、
赤ちゃんが「自分は人間だと」分からない事と
子供が「人間とは何か」を分かってない事は別モノであろう。
教師が児童に、「質問されたら『無言はない』、何か答えよう!」
教師―「「○○さん!分かりましたか?
○○―「分かりません!」
教師―「何が分かりませんか?」
○○―「………」
教師―「無言はないです!」
○○―「分かりません!」
教師―「だから…どこが分からないの?」
………
こんな会話が、私の小学生時代によくあったが…
本来、この児童の正解は、
「僕…何が、何処が、分からないか、分からないのです」
この児童は、自分が今までに、
「分かっていなかった事、さえも分からない」
その理由として考えられるのは以下であろう…
先生のいう事を確り聴いていていなかった。
確り聴いていたが、内容が理解できなかった。
シッカリ聴いて理解したが、先生の言う事を本当だと思えなかった。
教師の言うことが本当の事で、
自分の信じている事が間違いと思えたなら、
その児童は、
「自分が、分かっていない・間違っていた」事が「分かった」筈であろう。
その時には、
先生の言う事の具体的な内容はハッキリしていない(分からない)が、
自分自身が「分かっていなかった」事が明確になった(分かった)となろう。
(一) 意味を知る。
(二) ハッキリと認められる。明らかになる。
(三)世の中の事や人情に理解がある。
分かるとは、「現代新国語辞典」
(一) 物事が明らかになる。見たり聞いたりして、知る事ができる。
(二) 理解する事ができて、意味内容が明らかになる。また、了解される。
(三) 人の気持や物事の事情を理解できる。
理解とは、物事の意味が分かること。
理解とは、物事の筋道・意味をさとること。
理会とは、物事の道理をさとること。
道理とは、理屈にあった筋道。
理屈とは、物事の筋道。もっともな論理。道理
悟る・覚るとは、
(一) 心の迷いを去り真理を会得する。
(二) 物事の意味・事情などをハッキリと理解する。また、隠されていた事柄に感づく。
「分かる」とは、上記のよう意味である。
何かが、「分かる」とは?
今まで知らなかった事が「明らかになり・知る」という事になろう。
ならば「分からない」とは?
「ハッキリしていない・知っていない」という事になろう。
さて、
当人が「ハッキリしていない・知っていない事」(分かっていない事)を
いきなり他人から「知らされ」て、それを直ぐに「分かる」であろうか?
この時、
他人から指摘された、その具体的に内容は理解できなくても、
その他人の指摘が正しいと判断可能・信じ切れるならば、
これは、自分が今まで「分からなかった」事が、他人の指摘で「分かった」となろう。
しかし、自分が長年の間、
ずっと気付けなかった事・知らなかった事を、
他人から言われて直ぐに納得・理解可能であろうか?
分からない事が、分かったとしても、
分からなかった具体的な内容を理解できるとは限らない。
例えば、
「一、二、たくさん」という数の概念しかない未開のアマゾン原住民に、
「1、2、3、4~」という物の数え方を説いても「分かる」事は不可能であろう…
彼らは、自分が算数を「分かっていない」事を、全く「分からない」(理解)できないであろう。
「何か」そのモノを、分かっていない」事と
「何か」の具体的内容が、分からない事とは、別物「分からない」である。
例えば、
赤ちゃんが「自分は人間だと」分からない事と
子供が「人間とは何か」を分かってない事は別モノであろう。
教師が児童に、「質問されたら『無言はない』、何か答えよう!」
教師―「「○○さん!分かりましたか?
○○―「分かりません!」
教師―「何が分かりませんか?」
○○―「………」
教師―「無言はないです!」
○○―「分かりません!」
教師―「だから…どこが分からないの?」
………
こんな会話が、私の小学生時代によくあったが…
本来、この児童の正解は、
「僕…何が、何処が、分からないか、分からないのです」
この児童は、自分が今までに、
「分かっていなかった事、さえも分からない」
その理由として考えられるのは以下であろう…
先生のいう事を確り聴いていていなかった。
確り聴いていたが、内容が理解できなかった。
シッカリ聴いて理解したが、先生の言う事を本当だと思えなかった。
教師の言うことが本当の事で、
自分の信じている事が間違いと思えたなら、
その児童は、
「自分が、分かっていない・間違っていた」事が「分かった」筈であろう。
その時には、
先生の言う事の具体的な内容はハッキリしていない(分からない)が、
自分自身が「分かっていなかった」事が明確になった(分かった)となろう。