新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「分かる」と「分からない」…

2022-03-02 13:09:57 | 悟得びと認識論
分かるとは、「例解新国語辞典」
(一) 意味を知る。
(二) ハッキリと認められる。明らかになる。
(三)世の中の事や人情に理解がある。


分かるとは、「現代新国語辞典」
(一) 物事が明らかになる。見たり聞いたりして、知る事ができる。  
(二) 理解する事ができて、意味内容が明らかになる。また、了解される。
(三) 人の気持や物事の事情を理解できる。



理解とは、物事の意味が分かること。
理解とは、物事の筋道・意味をさとること。

理会とは、物事の道理をさとること。

道理とは、理屈にあった筋道。
理屈とは、物事の筋道。もっともな論理。道理


悟る・覚るとは、
(一) 心の迷いを去り真理を会得する。
(二) 物事の意味・事情などをハッキリと理解する。また、隠されていた事柄に感づく。


「分かる」とは、上記のよう意味である。


何かが、「分かる」とは?
今まで知らなかった事が「明らかになり・知る」という事になろう。


ならば「分からない」とは?
「ハッキリしていない・知っていない」という事になろう。


さて、
当人が「ハッキリしていない・知っていない事」(分かっていない事)を
いきなり他人から「知らされ」て、それを直ぐに「分かる」であろうか?


この時、
他人から指摘された、その具体的に内容は理解できなくても、
その他人の指摘が正しいと判断可能・信じ切れるならば、
これは、自分が今まで「分からなかった」事が、他人の指摘で「分かった」となろう。


しかし、自分が長年の間、
ずっと気付けなかった事・知らなかった事を、
他人から言われて直ぐに納得・理解可能であろうか?

分からない事が、分かったとしても、
分からなかった具体的な内容を理解できるとは限らない。


例えば、
「一、二、たくさん」という数の概念しかない未開のアマゾン原住民に、
「1、2、3、4~」という物の数え方を説いても「分かる」事は不可能であろう…
彼らは、自分が算数を「分かっていない」事を、全く「分からない」(理解)できないであろう。



「何か」そのモノを、分かっていない」事と
「何か」の具体的内容が、分からない事とは、別物「分からない」である。

例えば、
赤ちゃんが「自分は人間だと」分からない事と
子供が「人間とは何か」を分かってない事は別モノであろう。


教師が児童に、「質問されたら『無言はない』、何か答えよう!」

教師―「「○○さん!分かりましたか?
○○―「分かりません!」
教師―「何が分かりませんか?」
○○―「………」
教師―「無言はないです!」
○○―「分かりません!」
教師―「だから…どこが分からないの?」
………
こんな会話が、私の小学生時代によくあったが…


本来、この児童の正解は、
「僕…何が、何処が、分からないか、分からないのです」

この児童は、自分が今までに、
「分かっていなかった事、さえも分からない」


その理由として考えられるのは以下であろう…

先生のいう事を確り聴いていていなかった。
確り聴いていたが、内容が理解できなかった。
シッカリ聴いて理解したが、先生の言う事を本当だと思えなかった。

教師の言うことが本当の事で、
自分の信じている事が間違いと思えたなら、

その児童は、
「自分が、分かっていない・間違っていた」事が「分かった」筈であろう。

その時には、
先生の言う事の具体的な内容はハッキリしていない(分からない)が、
自分自身が「分かっていなかった」事が明確になった(分かった)となろう。













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