新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

像と言葉…そして考える~

2017-12-27 12:15:41 | 想い思い考える

このブログの記事
<始まり?ひとつ?>
2017-12-17 20:03:33 | 想いのままに…で
以下のコメントを月研ぎ氏のコメントに対して書いた。


月研ぎ氏コメント

>自由びとさんは、「なんか…説明が今一つですね。」と気づいているんですね。たぶん自由びとさんは優秀な方ですから、言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。<



自由びとコメント

>言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。

「言葉で書く」のは当然です。
言葉で考えている、言葉を並べて書いている、
が正しい表現なのでは?

「像で書く」の無理です。
像を言葉にする。像を言葉で(表現)書く…が正しいのでは?です。


コメント欄の記述はここまで…


↑~上記の書き込みは昨晩であった。


以下は「言葉で書く」、「像で書く」についての再考である。

南郷継正は、「人間は像て考える」と主張している。
それでも、彼の著書には「言葉で考える」と書かれている事もある。

「像で考える」はずの人間が、「言葉で考える」とは如何なる事か?
「像で考える」といった時、それは五感覚を駆使して形成像で考える。
「言葉で考える」といった時、それは、視覚(orプラス聴覚)の使った形成像で考える。

それは、五感情像か知識像か、といった事なのだろう。

さて、「像で書く」とは、描いている像を言語化する事。
その描かれている「像」が問題である。


自由びとの
「なんか…説明が今一つですね。」と気づいているんですね。」
についてであるが…

言葉で書いている場合は論外として…

像で考え、像を文字・言語化している場合を考えるなら…
問題は、その表現・言語化しようとしている「像」である。

「像」または「五感情像」と書いても、
その「像」には、
静止像、運動像、全体像、部分像、全過程を含めての過程的像…
と様々な「像」があり得る。

更に、書き手が自らの像を正確に捉えられて視えているか?
または、正確に捉えて視えていても、それを正確に言語表現できているか?

相手の言葉が分からない場合、相手側の問題なのか?
自分側の問題なのか?
それとも両方の問題なのか?


例えば、「群盲象を評す」ではないが…
仮に、「象」の事を知らない人が、象の姿形を言葉で書かれても理解不能である。
絵にした所で、この絵が「象」と覚える事はできても、五感情像としての像はない。

それは、知る・覚える事は出来ても、分からない・実感できない、モノだろう。

更に、象の全体的姿形ではなく、象の足の像を言葉で書いたら、
どうなのだろうか?


私が思ったのは、月研ぎ氏は
自分の事を、どれ程に理解できているのだうか?、である。

自身は常に必ず相手の言葉を像化して像で分かっていると確信しているのか?
現代の学校教育をまともに受けて育った者なら、言葉の全ての五感情像化は至難であろうに…

自信たっぷりの者は、自分は出来ていると確信がある。
しかし、全てができる者、ミスのない者はいないと私は確信している。

だから、先ずは、自分のミスの可能性、そして相手のミスの可能性…
更には、私と相手の双方が、ミスをミスと思っていない可能性…
を考える必要があろう~

そんな可能性とそんな事実が、あるか、ないかを
検討する努力をしようと努力している私であるが…

如何せん…こんな私なので…
己の思い込み・勘違いの多さに呆れている毎日である。

果たして、今日の記事には、
どれほどの思い込み・勘違いがあるだろうか?

月研ぎ氏に指摘されるのが恐怖であるが…





















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29 コメント

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マトのど真ん中を射抜く (月研ぎ)
2017-12-27 17:47:12
やっぱり自由びとさんは秀才だ。

自分のミス、相手のミス、お互いのミスを、先回りして考えてしまうのだから、それは秀才の証拠ですよ。

私なんか言うときは、絶対的な確信で言い切ります。たとえ内心はおっかなびっくりでふるえていてもです。

自由びとさんも南郷先生の言葉を紹介していたではありませんか。師は弟子に負けてはいけない、と。覚悟はつねにそうあるべきです。

空手の勝負で弱気はみじんも見せてはいけない、相手に気づかれてもならない、そう教わりました。

確信をもって言うからこそ負けたとき、自分のどこがダメなのか厳密に受け止め返しができます。

はじめから曖昧に逃げの手を打って先回りしていると、いつまでたっても自分自身の発想や思考の根っこのところに直面できないままやり過ごしてしまいます。

なるべく、像を言葉にするときは、マト(対象)のど真ん中を、射抜くつもりでやらないと、相手に届かないし、それ以前に自分が表現したその言葉で自分自身を動かせないからです。
返信する
嬉しくない言葉「秀才」 (自由びと)
2017-12-28 23:19:50


月研ぎさん


南郷継正や心に青雲氏の言葉を熟知としている月研ぎさんなら、彼らの用いる「秀才」の意味を知っている筈ですね。
私の記憶が正しければ、それは、
「記憶力の才に秀でていて、知識的な習得を得意とする者」です。
南郷継正は、「秀才」という言葉を誉め言葉として用いていません。

それを知っててあえて
>やっぱり自由びとさんは秀才だ。
と言い切れる根拠は何ですか?

そもそも…
>自分のミス、相手のミス、お互いのミスを、先回りして考えてしまうのだから、それは秀才の証拠ですよ。
↑~
これは、南郷継正や心に青雲氏の意味とは異なっている、ようですが…
何故に「先回りして考えてしまう」事が「秀才の証拠」なのですか?

人間…61年も生きていると、その言葉から自分の経験・体験像を思い浮かべてしまうモノですよ。

そこから、形成された像を言葉にしたモノと、
他人の言葉だけからの「自分のミス、他人のミス、お互いのミス」があります。

知識的な秀才の拙さは、現実との関わり不足…なのでしょう。
月研ぎさんの年齢は不明ですが…
人間は、歳を取ると、その言葉から、自分的な体験・経験像を創り上げるモノです。
また、その像を、自分的な言い回し、言葉で表現する癖もついています。

言葉が分かり難い事が、像より言葉…?か
または、その像を難しい言葉で表現しているか…は他人には分かり難いのです。

私の父は、田舎もモノで標準語は不得意です。
時々、私の理解不能な事を言います。

父の認識・像と標準語が、一致していない事が多いのです。
言葉はトントンカンでも、その像は確かに父の中に存在しています。
父のように、自分の像にあった方言ではなくも、
合わない標準語を必死で記憶して話そうとしたら秀才なのですか?


ここで書いて気付きました。

私は南郷継正の言葉を覚えようとし、
その言葉から像を描こうと必死に頑張った時期があった事を~


「秀才」、「秀才」と書かれても、私は全く嬉しくなく、逆にあざ笑われているみたいで、気分が悪いです。

これが「南郷継正」を知らず、彼の使用している「秀才」の意味をを知らない者の言葉なら、喜ぶかもしれませんが…






返信する
Unknown (自由びと)
2017-12-28 23:40:02

>はじめから曖昧に逃げの手を打って先回りしていると、いつまでたっても自分自身の発想や思考の根っこのところに直面できないままやり過ごしてしまいます。

月研ぎさんには、私のコメントが
「逃げのの手を打って先回りしている」像に見えましたか…

月研ぎさんは、「将棋」、「チェス」、「中国象棋」をやりますか?
先へ先へと読みを進めて、考えるモノです。
まさか、そんな将棋を秀才のゲームとはいいませんよね!

私にとっては、闘いもそうです。
攻め手、受け手、ミスの可能性…等を考え,想像して…
迷い・怯え、それでも相手のスキを、ここだと決めて攻めます。

そんな迷い、怯え…それも、月研ぎさには、秀才に思えるのですか?


私は、亡き母に言わると
「石橋を叩いて大丈夫でも渡らず、他人が安全に渡っているのを見て初めて渡る」ような性格だ、そうです。
家内に言わせると「杞憂な人」だそうです。

そんなリアルな私を知らず、簡単に「秀才」という言葉を叩きつけないで下さい!
そのように、「秀才」という言葉をネットで簡単に、他人へ向かって使用できる月研ぎさんって…

月研ぎさんが書いた、南郷継正についての学び、心に青雲氏への学びの話が、が本当の事であるなら、
月研ぎさんの「秀才」という言葉の使用に関しては、本当の「秀才」的ですよ!




返信する
「秀才」は前提 (月研ぎ)
2017-12-29 10:44:28
「秀才」という言葉を南郷先生のような意味合いを丸呑みして、私は使っていません。「秀才」に良いも悪いもないと思っているからです。

南郷先生のところに集まる東大の知的エリートを、受験頭の秀才として否定されているのはよく承知しています。そのことはその通りです。

でもよく考えてみてください。本当に頭が悪かったら、南郷先生の本など読みますか?ましてや教えを受けて厳しい努力などしますか?

とても簡単なことです。もともと頭が良く「秀才」の資質がなければ、南郷先生の本を読んで、教を受けて、その本人が「化ける」などというこは、ありえないことです。

ですから「秀才」という言葉は、私にはあくまで「前提に過ぎない」と考えるわけです。

「秀才」という潜在能力がなければ、化けるにも化けようがないと。

なぜ南郷先生が知的エリートの「秀才」を、徹底してシゴクのか。それは化ける(転換)の可能性があると見込んでいるからにほかなりません。

私は絵を教えることがあります。
器用な人と不器用な人がいます。

私の教えたことをすぐに理解して、描けてしまう器用な人がいます。不器用な人は、のみ込みが悪く描くことができませんから、同じことを繰り返し繰り返し練習して、やっと描けるようになります。

器用な人は、教える私を読んで、先手を打ってきます。不器用な人がまごついているその先の課題を描いて見せるのです。


器用な人は覚えが速く、だから描くのも速いのです。不器用な人はゆっくり丁寧に描いて後れを取ります。

器用な人の速さは、何年たってもあまり変わりないのですが、不器用な人は、丁寧なまま年月とともに早くなっていくのです。つまり、器用な人より丁寧で速くなるのです。

こうして10年が経ちました。
器用な人は、何でもこなす、良く言えば万能、悪く言えば器用貧乏になりました。

不器用な人は、同じことの繰り返しをまったくいとわないために、つまり鈍才であることの、極端に辛抱強かったために、その繰り返しである段階から技が飛躍して、格段に高度になりました。

器用な人の万能の作品価値に対して、不器用な人の作品一点の価値は、数倍にもなるものを描き出しています。
返信する
弓術 (月研ぎ)
2017-12-30 09:41:46
先の私のコメントで、自由びとさんに本当はこの一点に、着目してほしかったのです。秀才なんて言葉なんかは、どうでもいいのです。

それはタイトルに書いた「マトのど真ん中を射抜く」という言葉です。これは認識論を弁証法的に言語表現したものだからです。

できるだけわかりやすく説明します。

弓を引く初心者は、マトを意識します。
ここで意識という言葉を使ったのは、一般の人は認識という概念は使わないだろうからです。

初心者はマトを意識するだけで矢を放ちます。いわゆるまぐれ当たりをする段階です。

次に、マトに当てようという意識で矢を放ちます。
この段階では、マトという視覚に見える具体物としてのマトに当てようとしているだけです。
決して、弓と、矢と、マトとの関係を自分が統括する意識の中での、マトに当てようというのではありません。

次は、マトに当てるのではなく、マトを狙える段階にきます。
マトが遠くに見える具体物というのではなく、自分の立ち位置と姿勢からマトの角度と方向が割り出せて、マトを具体性と抽象性の二重化としてとらえることができるのです。
いわゆるマトまでの距離が、物理的な距離ではなく、遠く見えたり近く見えたりするという思い込みの現象が起きます。これがマトが二重化したことの意味です。

マトに当たる、マトに当てる、ことができる段階に来ると、ようやくマトの中心狙いに意識が定まってきます。
この意識は身体に強烈に作用します。中心狙いの意識は、必然的に、心身の骨体力、筋体力、神経体力の不可避さという、避けることができない俗に云われるところの心技体の必要を思い知らされるのです。

こうして最後の段階で、マトの中心を当てるから、さらに踏み込んで、中心を射抜くという強さの度合いを増すことに意識がいくことになります。

弓術における認識(意識)の過程的構造を、簡単に描いてみました。
返信する
主観と客観の相違 (自由びと)
2017-12-30 10:42:10
月研ぎさん


「『秀才』は前提 」を読ませて頂きました。
一読目、ふ~ん…あ・そう~
再読目、え?そうんなんだ!

>「秀才」に良いも悪いもないと思っているからです。
>「秀才」という言葉は、私にはあくまで「前提に過ぎない」と考えるわけです。
>「秀才」という潜在能力がなければ、化けるにも化けようがないと。
>なぜ南郷先生が知的エリートの「秀才」を、徹底してシゴクのか。
>それは化ける(転換)の可能性があると見込んでいるからにほかなりません。

>不器用な人は、同じことの繰り返しをまったくいとわないために、
>つまり鈍才であることの、極端に辛抱強かったために、
>その繰り返しである段階から技が飛躍して、格段に高度になりました。

>器用な人の万能の作品価値に対して、
>不器用な人の作品一点の価値は、数倍にもなるものを描き出しています。

思い出しました~左手の訓練・鍛錬を…
不器用で箸もまともに使えない左での食事の繰り返しが、
結果的に、更により立派な右手の創出へと繋がる事を~

そう言えば、南郷継正の著書を読むようになって、
いつの間にか…好きではなかった~
物事の繰り返しを自分からやるようになっていました。

昔から、性格はしつこい癖に、
同じ事の繰り返しは嫌でした。
読書も一度読んだ本は、
自分からは二度読もうとしませんでした。
もっとも…気に入っていた
マンガ本は何度でも読み返していましたが…

それでも…私が「秀才」ですか?
私的には「秀才」とは思えません。

でも、中一の時に学校で実施した
知能テストでクラス一番を取り、

当時の担任から事あるごとに
「〇×!お前は頭がいいのに勉強しない!」と
説教されたモノでした。

父親からは、「お前は頭の回転が速い!」と、よく言われました。

頭がいい、頭の回転が速い…とは、
「像の展開が速い」と師範が言ってました。

「この像の展開が速い」の長所と短所は如何!
それは、、像の変化・運動性に優れている。
しかし、一つ一つの静止像が定着し難い。

目にも止まらない空手技とゆっくり過ぎる太極拳技の相違なのでしょう。
頭・像の使い方としては、優れていても、
頭・像の創り方としては、劣っている。
これは、勝負論と上達論の違いですね♬♪♫

そうなのです!
私の短所は、新しい像の定着の、難しさ、遅さ、
…ですかね。

月研ぎさん


「『秀才』は前提 」を読ませて頂きました。
一読目、ふ~ん…あ・そう~
再読目、え?そうんなんだ!

>「秀才」に良いも悪いもないと思っているからです。
>「秀才」という言葉は、私にはあくまで「前提に過ぎない」と考えるわけです。
>「秀才」という潜在能力がなければ、化けるにも化けようがないと。
>なぜ南郷先生が知的エリートの「秀才」を、徹底してシゴクのか。
>それは化ける(転換)の可能性があると見込んでいるからにほかなりません。

>不器用な人は、同じことの繰り返しをまったくいとわないために、
>つまり鈍才であることの、極端に辛抱強かったために、
>その繰り返しである段階から技が飛躍して、格段に高度になりました。

>器用な人の万能の作品価値に対して、
>不器用な人の作品一点の価値は、数倍にもなるものを描き出しています。

思い出しました~左手の訓練・鍛錬を…
不器用で箸もまともに使えない左での食事の繰り返しが、
結果的に、更により立派な右手の創出へと繋がる事を~

そう言えば、南郷継正の著書を読むようになって、
いつの間にか…好きでなかった~
物事の繰り返しを自分からやるようになっていました。

昔から、性格はしつこい癖に、同じ事の繰り返しは嫌でした。
読書も一度読んだ本は、自分からは二度読もうとしませんでした。
もっとも…気に入っていたマンガ本は何度でも読み返していましたが…

それでも…私が「秀才」ですか?
私的には「秀才」とは思えません。

でも、中一の時に学校で実施した知能テストでクラス一番を取り、
当時の担任から事あるごとに
「〇×!お前は頭がいいのに勉強しない!」と説教されたモノでした。
父親からは、「お前は頭の回転が速い!」と、よく言われました。

頭がいい、頭の回転が速い…とは、
「像の展開が速い」と師範が言ってました。

「この像の展開が速い」の長所と短所は如何に?
それは、、像の変化・運動性に優れている。
しかし、一つ一つの静止像が定着し難い。

目にも止まらない空手技とゆっくり過ぎる太極拳技の相違なのでしょう。
頭・像の使い方としては、優れていても、
頭・像の創り方としては、劣っている。
これは、勝負論と上達論の違いですね♬♪♫

そうなのです!
私の短所は、新しい像の定着の、難しさ、遅さ、…ですかね。


そんな短所を、いつも「そんな知識不要!」と自己正当化して…。


ここは~

案ずるよりも、、産むが易し。
案じて産まぬより、産んで苦労するがよし。
と考えて、

若くても歳を食っていても、
苦労は買ってでもしたいモノですね。…









返信する
コメントの意味 (月研ぎ)
2017-12-30 11:12:24
自由びとさん、こうこなくっちゃいけません。面白く読ませていただきました。

「像の展開が速い」

この言葉は、南郷先生の本で読んだことはないですね。自分でも一度も使ったことはありません。
ありがたいです。

こういう答えが返ってくることがあるから、コメントする意味があるんですよね。
返信する
認識(意識)の過程的構造 (自由びと)
2017-12-30 11:48:16
月研ぎさんへ


>先の私のコメントで、自由びとさんに本当はこの一点に、
>着目してほしかったのです。秀才なんて言葉なんかは、どうでもいいのです。

すみません…
どうも…つい…感情的になって、自分を見失ってしまっていました。

相手の言葉に囚われてしまう事が多々あって本当に困っています。

なので一言~コメント「主観と客観の相違 (自由びと) 2017-12-30 10:42:10」を、
書き終えたのは、コメント「弓術 (月研ぎ)2017-12-30 09:41:46」の前ですよ!






>それはタイトルに書いた「マトのど真ん中を射抜く」という言葉です。
>これは認識論を弁証法的に言語表現したものだからです。

① 弓を引く初心者は、マトを意識します。
初心者はマトを意識するだけで矢を放ちます。
いわゆるまぐれ当たりをする段階です。

② 次に、マトに当てようという意識で矢を放ちます。

③ 次は、マトに当てるのではなく、マトを狙える段階にきます。

④ マトに当たる、マトに当てる、ことができる段階に来ると、
ようやくマトの中心狙いに意識が定まってきます。

⑤ こうして最後の段階で、マトの中心を当てるから、
さらに踏み込んで、中心を射抜くという強さの度合いを
増すことに意識がいくことになります。


>弓術における認識(意識)の過程的構造を、簡単に描いてみました。


凄いですね♪♪♪
月研ぎさんって、弓道もやるのですか?
なんて…これは愚問ですね!

認識(意識)の過程的構造が、
具体的な像から論理的な像へと量質転化化されていれば、
それを「弓道」的に表現する事は、容易いモノなのでしょうから…

いや~私の未熟さを痛感しました。
61歳なんて…人生経験で押し切ろうなんて…
お恥ずかしい限りの行ったり来たり~です(反省)

このコメントは、もっと読んで、もっと思って、もっと考えて、記事に書きたいと思います。

さて、このコメント「マトのど真ん中を射抜く」を自分の事として生かすには?

先ず、自分の狙いたい「マト」を特定する。
その「マト」の姿を見いだす。
ここでは、私の求めているマト=「悟り」の姿形の特定。

それには、
先ず、先人の言葉から「悟り」像を求め知る。
それと同時に、その悟りの習得・修行過程を知る。

宗教家からは、宗教的な悟りと修行過程、
哲学者からは、学問的な悟りと修行過程、
武道家からは、武道的な悟りと修行過程、

私の求めているのは、「人生的な悟り」なので…
う~ん…
宗教家としての人生の悟り、
哲学家としての人生の悟り、
武道家としての人生の悟り、

……
ここでの問題は、
私が残りの人生をどのような者としての人生を生きたい・歩みたい、という事ですね…
現在の仕事は公立小学校の特別支援学級の補助員です。

さてさて…
私は残りの人生に何を求めるか?
私に、どんな事・何が可能か?


先に「何が可能か?」と問うのは秀才的。
鈍才的なら、「何をしたいか?」ですね。

答えは分かっています、決まっています。

でも、
決めたくない!
決定したくない!
書きたくない!
そんな意識・像があるのでしょうね。

そこを敢えて書くなら、
子供と関わる仕事、
子供と関わるコトですね

マトの真ん中が「子供」なら、
周りは、
子供の保護者や周囲の大人…、
更にはその子供の周囲の社会的ヒトとモノ…

私の最も不得意分野である、
人間関係での悟りもあり、なのでしょう…

この辺りは、今後も想い、思い、考え続けます。


返信する
私も… (自由びと)
2017-12-30 12:08:28


>この言葉は、南郷先生の本で読んだことはないですね。

やっぱり、そうでしたか…
私も、南郷継正は書いていないかな…と思って、
「師範が言っていました」、と書きました。

また、この言葉は、私自身の像の展開のような気がしたので、今でも確り記憶されていたのでしょうね。



>自分でも一度も使ったことはありません。

今後は、使えるようなれると、いいですね♪♪♪



>ありがたいです。

私も色々と教えて頂けて、とてもありがたい、です。



返信する
急ぎ働き (月研ぎ)
2017-12-30 13:25:40
先の自由びとさんのコメントで、「頭の回転が速い」とは「像の展開が速い」と師範が言っていたと、書いていました。

ここは立ち止まって考えどころですね。

私は十代の終わり頃に手塚治虫というマンガ家のアシスタントをしたことがあります。まあ毎日何本もの締め切りがある殺人的なスケジュールで、手塚治虫もアシスタントも、待機する編集者も、常にピリピリ状態の仕事場でした。

手塚さんがアシスタントに、原稿のエンピツのラフ描きの下絵を示しながら説明をして、ここの資料は本棚の「そこ」にあると指示します。

頭の回転の速いアシスタントは、その下絵を見ながら本棚の資料の場所に見当をつけます。手塚さんが指示する前に、本棚から取り出してくるのです。

これは雑誌の何号の何ページの真ん中あたりに描いてあったと、頭の回転の速いアシスタントは普段から見て記憶しているのです。こういうアシスタントは、よく気が利くと重宝がられます。

これができないアシスタントは、叱られます。手塚さんの機嫌を損ねると原稿が遅れるから、編集者も気の毒でも庇う余裕がありません。

ところがこのアシスタント、頭の回転が速いためにミスして怒鳴られることがあります。

手塚さんの指示が明確でない場合があります。いくつかの指示対象からアシスタントに選択をまかされるんです。

そうして背景を描き仕上げて、手塚先生のOKをもらいに行くと、何だこれは、こういうのを、早飲み込みの半助っていうんだよ、と描き直しを命じられます。

締め切りが過ぎているのに、手塚さんの手が離れて多というのに、仕上げの段階のアシスタントの描き直しは、編集者にとって一番やり切れないのです。

頭の回転がよいアシスタントは、どうしても最短で仕上げる方法を考えるクセがあります。俗に云う、描く手が速い、というものです。

もちろん本当に手が速い人になると、下描きにたっぷり時間をかけて、ペン入れで飛ばすんです。頭の回転が速い人は、下描きもペン入れも飛ばしてしまうから、時代劇でよく言う、急ぎ働きになるんです。



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