ここ最近は、公案と縁遠かったが…
過去のブログ「悟りを求めて…」の
1916年の記事を再読して気が付いた。
それは、禅問答の正解について、である。
南郷先生が以下のような事を書いている。
「禅とは、問題を問題とする己を問題にして…」
ここから類推して、
禅問答の正解とは、
「全ての禅問いへの即答である」
それが、客観的に、正解・不正解は無関係であり、
己が、全ての解答を正解と確信しての即答である。
そこで、
少しでも迷ったり、躊躇したりすれば、
それは、不正解となり得る。
問題を問題としない認識とは、
全ての禅問いに瞬間的に返答可能な認識である。
問題ではなく、普通事なら、当然に迷いもなく、躊躇もない筈であろう。
問題ではないなら、考える事無く、普通に瞬時に返答・対応可能なのだろう。
全ての事柄が問題となり得ない認識こそが、禅的悟りと言えよう~
しかし、禅としての正解が、社会的には不正解になり得てしまう。
または、禅としての正解が、学問的には不正解になり得てしまう。
そして、禅としての正解が、道徳的には不正解になり得てしまう。
ここで、禅問答の正解が分かったところで、
日常生活で発生するのすべての事柄に対して、
瞬時に普通に対応可能になり得るのは至難であろう。
現代社会での「悟りとは、
宗教的悟り、学問的悟り、武道的悟り、
の統一なのだろうか?!
それは、全ての問いに対して学問的正解、武道的正解の即答であり、
「禅的感情」と「学問的頭脳」と「武道的実技」との三位一体化だろう…