まだ梅雨は明けきらないないが、靖国を巡る議論は活発になってきた。私もブログの中で「政教分離」や「靖国神社の変遷」を論じてきたが、最後にA級戦犯分祀論を述べたいと思う。なお私がA級戦犯を分祀すべきであると主張するのは、中国や韓国等に配慮するからではない。A級戦犯として刑死した人の中に「国と軍の指導者として犯してはならない過ちを犯した人物」がいるからである。その過ちとは東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」ではない。それは主に日本国民に対する誤った戦争遂行による罪である。その罪を歴史の中で風化させないために、A級戦犯を合祀するべきではないというのが私の主張である。A級戦犯分祀論は巷に多いが、私の様な論拠で分祀論を展開している人は極めて少ないと思う。
A級戦犯の国内法処理の概要
最初に事実関係を簡単に整理しておこう。極東軍事裁判所において28人がA級戦犯として起訴され、東条英機等7人が絞首刑、16人が無期懲役、2人が有期懲役、1人が病気による免訴そして2人が裁判中に病死という結果になった。
1953年国会は「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」を可決。関係諸国の同意の下にA,B,C級戦犯を釈放した。また翌1954年には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を定め、軍事裁判での死亡者を戦死者と同様に「公務死」と扱った。厚生省は1956年に合祀事務を開始、これは戦前陸海軍省が行なっていた「戦没者名簿」を靖国神社に送る作業である。紆余曲折はあるが1978年にはA級戦犯者達も合祀された。
ここで巷間良く耳にする議論は「極東軍事裁判そのものが勝者が敗者を裁いた裁判で無効である」という極東裁判の有効性に関する議論や「公務死が認定されたのだから、A級戦犯者ももはや罪人ではない。だから戦死者と同様に靖国神社に祀って良い」といった国内法を盾に取った議論である。私自身極東裁判については一つの意見はあるが、この議論の本筋には関係がないのでここでは触れないことにする。
祀るとはどういうことなのか
一方A級戦犯者を公務死と認定したから靖国神社に祀っても良いという意見については、厳しく批判しておく。公務死と認定したことは遺族に恩給を支給する手続き上必要なことであり、そのことが東条英機等当時の政治・軍事面つまり国の指導者層が靖国神社に祀られて良いということとは全く別の話である。
そもそも神社に人を祀るとはどういうことなのか?と考えると「その人の記憶を長くとどめる」ということに尽きる。今日的な靖国神社の意義に即して言えば、国のために命を捧げた将兵の魂を「集合的」に顕彰しその記憶を留めることにより遺族の悲しみを緩和するということになる。
将帥の基本的資格を欠いた指導者達
ここで東条英機等戦争当時の指導者層が顕彰し祀るに価するかどうかということについて私見を述べる。まず戦争開始責任である。孫子は真っ先に「兵は国の大事。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」と無謀な戦争を戒める。つまり勝てない戦争をしてはいけないのだ。このための情報収集は極めて大切な活動である。東条英機等はこの基本的動作を著しく欠き、ビューのないまま戦争に突入した。これは主君を補佐し、国政を預かるものとして極めて大きな過ちを犯したと批判されてもしかたがない。
又孫子は言う。「爵禄百金を惜しみて敵の情を取らざるものは不仁の至りなり。人の将にあらず」 つまり情報活動をして敵と己の力を計るとともに、効率良い作戦活動を取ることが将の条件であり、それを行なわないことは部下に対する愛情を欠き、将の資格がないと孫子は喝破する。戦争中軍部は情報収集を軽視するとともに、虚偽の情報を国民に喧伝しミスリードした。その責任は極めて重たい。
太平洋戦争中の日本は「戦争と戦争目的」が倒置していたことも大きな問題であった。戦争の善悪は別として、戦争も外交交渉と同様、国の対外的な意思・欲望を相手に承服させる手段である。しかし戦争は目的ではない。例えば国民が玉砕して国土が残ったところでそれはどんな意味があるのだろうか?従って玉砕戦法などというものは最も戒めるべきっものである。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓も国際的な戦争ルールを逸脱するとともに、人命を軽視している上で厳しく批判されなければならないものである。
以上は日本の戦争指導者が如何に将帥の資質を欠いていたか?ということの極一例である。このことを日本国民が記憶し、過ちを繰り返さないためにA級戦犯を靖国神社に合祀してはいけないのである。合祀をすると指導者の責任が曖昧になってしまうのだ。指導者の責任は誠に重たいといわざるを得ない。
分祀など技術的な問題に過ぎない
A級戦犯の分祀論を述べると必ず靖国神社から「一端合祀したものは分祀することはできない。これは灯明の火を分ける様なもので分けても元の火は残る」という反論が出る。これについて細かい技術論はさて置き私は分祀は可能で、靖国神社は分祀したくないから技術論を述べていると判断している。その根拠を以下で述べよう。
- もともと靖国神社は明治時代に政府の手で創られたものである。人の手で創られたものが人の手で動かせない訳がない。
- 今日の神道は神道の国教化を進めた明治政府が作り出したところが大きい。日本ではその時々の権力により神社の祭神すら変わっているのだ。例えば神田明神の元々の祭神は平将門の霊一座であった。ところが明治の初め宗教行政を担当していた教部省は、神田明神の祭神から朝敵であった平将門の霊を除くことを主張し、将門の霊を本殿から追い出して摂社に移してしまった。この結果現在の主祭神は大己貴(おおなむち)命、第二神が少彦名(すくなひこな)命で将門は三番目になっているのだ。
- 以上のようなことを考えると、神道上分祀が出来ないなどということは「やりたくないための理由付け」に過ぎないということになる。
国の姿勢が問題
上記の様に私は分祀可能論を取るが、では靖国神社が独自の判断でA級戦犯者の霊を分けて良いか?ということになるとそれは極めて困難であると考える。何故なら靖国神社は国(戦前は陸海軍省、現在は厚生労働省)から戦没者の身上が記された「祭神名票」(戦没者身分等調査票)を貰い、重複がないかなどを調べて合祀祭を行うという受動的立場にある。靖国神社はAは祀るけれど、Bは祀らないといった判断は行なっていないということである。A級戦犯を合祀する時も国の判断で合祀を行なったのであり、分祀を現在の靖国神社単独の判断で行なうことは極めて困難であるといわざるを得ない。
では現在の枠組みの中で国が靖国神社に分祀を指示することができるのか?というとこれは憲法20条の問題に抵触してしまう。
この堂々巡りの状態を打破するためには「靖国神社を国家的施設にする」しかないという結論になる。これについてはもう少し丁寧に説明しよう。
何故靖国神社を国家的施設にする必要があるのか?
国として何らかの戦没者慰霊の施設を持つことに反対する声は少ないと思う。国民として国家のために死んだ人を何らかの形で追悼したいと思うのは当然だからだ。これについて靖国神社以外例えば千鳥が渕に新たに慰霊施設を設けるべしという声もあるが、私はこれには反対である。何故なら「神社の様な記憶装置は遺族を中心とした残された人々が故人を偲ぶよりしろ」であり、残された人々の納得感が大切だからだ。つまり残された人々は「戦死者が靖国神社に祀られると思って死んだ」と考えているので、靖国神社以外はよりしろ足りえないのである。靖国神社は神社の名前が付いているが、神社本庁の下に入っていないし、教義も一般の神道とは異なる。つまり慰霊の施設という面を強調すれば国家施設とすることは「政教分離の原則」と両立しうると私は考えている。
実際昭和49年の田中内閣時代に靖国神社の国家護持を定めた法案が衆院を通過し、参院で否決されたことがある。これをそのまま打っちゃっておいたのは政治家の先送り主義のつけかもしれない。あるいは時間が経過しないと片付かない問題だったのかもしれない。
以上のようなことをまとめて述べると「A級戦犯を分離(祀)する前提で靖国神社を国家的施設として維持する」ということが私の結論である。そして首相がこのようなビューの下で現在の靖国神社を参拝するのであれば、それは推奨するべきことであると考えている。