金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

「砲声は買い」とは言うが・・・・

2006年07月18日 | 株式

先週ニューヨークの株式相場がイスラエルのレバノン攻撃を受けて下落していたことから、日経平均も二百数十円下げて連休明け相場が始まっていた。そんな時知り合いの証券会社の課長から電話が架かってきた。「大分下げていますが、そろそろ底かもしれませんからインデックスでも買いませんか?」「そうだね。底が近いかもしれないけれど、日本で反発する材料もないしね。今週はバーナンキ議長の議会証言もあるしちょっと様子を見ようか?」と言って私は電話を切った。その時私はウオール・ストリート・ジャーナル紙の記事を読んでいた。それは「砲声で株を買い、勝利のトランペットの音で売る」というネーサン・ロスチャイルドの金言に関するものだった。記事のポイントは以下のとおりだ。

  • 過去の中東紛争を見ると、この金言が的を得ていることが分かる。ほとんどの中東紛争は米国株式に長期のダメージを与えなかった。短期的な株価の下落は買いの機会を提供している。ただし経済の基盤が深刻な影響を受ける時~通常は原油供給の崩壊という形だが~、中東紛争は深刻な株式市場のトラブルを引き起こす。
  • 過去の紛争を見ると1967年5月の六日間戦争(第三次中東戦争)の時、ダウ平均は勃発の1日後は1.8%下落したが、1週間後には1.34%上昇し、1年後には5.11%上昇した。1990年と2003年の2回の米国のイラク侵攻の後も株式市場は良好だった。
  • しかし1973年の十月戦争の後はトラブルに見舞われた(1年後の株価は39.8%下落した)。恐らくこれは戦争勃発の数日後、アラブの産油国がイスラエルを支持する国に対して原油の輸出を禁止し、原油価格を4倍に引き上げたことによる。
  • 1980年のイラン・イラク戦争の後も株価は下がっている(1年後9.97%下落)が、これは景気後退の影響の方が大きいだろう。

ということで今回の「ヒズボラのイスラエル攻撃」(ウオール・ストリート・ジャーナル紙)が、株価にどのような影響を与えるか?ということは原油の供給と価格が影響を受けるかどうかに係るということになりそうだ。それはヒズボラを支援するイランがどう動くか?ということにかかわって来る。イランの動きは北朝鮮のミサイルの出来具合に係って来るところがある・・・・という様に世界は連環しているのである。

砲声は買い・・・かもしれないが、もうちょっと様子を見てみよう。日本株の急激な反発もないだろうから。

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目から鱗のベースボール・グリップ

2006年07月18日 | ゴルフ

私は素人考えを述べる人が嫌いである。より正確に言うと会議などで「素人考えですが・・・」などと前置きして発言する人が嫌いなのだ。会社の会議というものは真剣勝負の場だ。素人考えなど聞いているヒマはないのである。

こんなことを言い出すと私がゴルフの話をすること自体自己矛盾になってしまう。しかし素人ながら敢えて目から鱗が落ちるようなグリップの話をしよう。

この前会社の仲間とリバーサイドフェニックスという河川敷のゴルフ場でプレーした時43・42の85が出たので少し気を良くしていた。ところが数日後の夜の反省会で仲間の一人が「ドライバーが振り切れていませんでしたね。もっと振り切れると後2,30ヤードは飛びますよ」と言う。そこでこの週末に近所の田無タワーの下にある練習場にいってみた。

このゴルフ場は無料でワンポイントレッスンをしてくれる時がある。そこで巡回してきたレッスンプロの人のドライバーを見て貰ったのだ。「うーん。力があるけれどクラブの返りが弱いね。グリップを今の右手小指を重ねたグリップから左右全部の指で握るベースボールグリップに変えてごらん。」と言うのが私の球筋を見たプロのアドヴァイス。

実際グリップを変えて打ってみた。1発、2発、3発・・だんだんボールの掴まり具合が良くなってきた。プロは「私もベースボールグリップで打っているのですよ。私は指が短いがあなとも指が短い様だ。指が短い人はベースボールグリップが良いのですよ」と言った。

その後別の日にベースボールグリップをもう一度練習してみたが、私にはしっくりいく様だ。古いゴルフの教科書には「ベースボール・グリップは右腕が利き過ぎるという欠点があるので、右手小指を左手人差し指と中指の間に乗せたオーバーラッピング・グリップが良い」とあるが、インターネットではベースボール・グリップを推奨しているものもある。

一度本番で70台を出した上で体験に基づくベースボール・グリップ推奨論をブログに乗せたかったが、そんなことを待っていたのでは何時になるか分らないので「素人意見ながら」グリップ論を書いてみた。私と同じようにクラブの切り替えしに悩んでいる人に参考になることがあれば幸甚である。もっとも素人意見ですから、自己責任でグリップの改造にお取り組み頂きたいことをお断りしておきます。

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富岡製糸工場に寄ってみた

2006年07月17日 | まち歩き

7月の三連休の中日は雨だったので、山歩きは止めて富岡製糸工場跡を見学して帰ることにした。今回初めて知ったが今同工場を世界文化資産にしようという運動があるのでちょっと楽しみにして訪ねてみた。白樺湖北の姫木平を9時に出発し、ずっと一般国道を走り内山峠を越えて製糸工場跡に11時15分到着。内山峠を過ぎた辺りから見る荒船山の岩場は中々迫力があった。

富岡製糸工場は現在は現在は富岡市の所有になっており、無料で建物の外部を見学できる。駐車場は東繭倉庫の裏(入り口の右側奥)にある。ボランティアの方が説明をされる時がある。私達夫婦は11時からの説明に少し遅れて参加した。詳しくは次のホームページをご参照。http://www.city.tomioka.gunma.jp/worldheritage/

Tomioka1

写真は繰糸工場を正面から見たところだ。

この写真は繰糸工場内部の機械。昭和62年まで操業をしており、今も使える状態にあるということだ。

Tomioka3

屋根を支える三角の木組みが当時では最新式だったそうだ。Tomioka2 次の写真は東繭倉庫の概観だ。

次の写真は富岡製糸工場の建設当時から指導に当たったフランス人ブリューナが住んでいた建物ブリューナ館である。

Tomioka6

製糸工場の中にあった年表の主要部分を転記しよう。明治3年2月 渋沢栄一、器械製糸工場の設立を政府に上申。同年7月ブリューナが工場適地(武蔵、上州、信州)を視察。同年10月富岡に開設を決定。

明治5年10月操業開始。明治6年女工数404人。明治23年民間払い下げを決定し、明治26年入札により三井家に譲渡。昭和13年9月片倉製糸紡績株式会社富岡製糸所となる。

昭和62年3月 工場の操業停止。

なお世界遺産には古いお城や教会、寺院などが多く登録されているが、19世紀から20世紀にかけて建築された近代工場なども登録されている。よって富岡製糸工場が登録される可能性は十分ある訳だ。

日本は開国直後から西欧の先端技術を取り入れ、工業化を目指し世界史上希に見る高度成長を遂げたがその原点の一つがここにある。日本が世界に誇るべき遺産というべきだろう。早く建物の内部等も見学できる様にして欲しいものである。

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梅雨の合間の麦草峠

2006年07月16日 | 

7月の三連休は天気が悪そうなので、遠出はしない予定だった。しかし直前の天気予報で、土曜日の日中は持ちそうだということが分り急遽蓼科方面に行くことにした。

土曜日の朝8時前にワイフと車で北八ヶ岳の麦草峠に向けて出発。関越自動車道で大渋滞に巻き込まれ、午後1時頃麦草峠に到着。白駒池まで散歩する。

Shirakomaike

午後の池面には波が立ち余りきれいな写真にはならなかった。梅雨明け宣言はまだだが、雲は夏の雲だ。

林の中にギンリョウソウ(銀竜草)を見つけた。腐った木や葉の上で育つ腐生植物だ。

Ginnryousou2

麦草峠から白駒池往復は1時間程度だった。白駒池だけを目指すなら、白駒池の駐車場に車を留めると良いが、麦草峠から白駒池までの鬱蒼とした原生林を歩くのも悪くはない。

麦草峠の野草園で幾つか写真を撮った。最初はクリンソウ。

Kurinnsou

クルマユリの花では虫が蜜を吸っている。

Kurumayuri

ミヤマハナシノブは風に揺れて撮りにくい。南アルプス北岳大樺沢横のミヤマハナシノブの大群生が見事だという話なので一度見てみたいと思っている。

Miyamahanasinobu

チシマギキョウ。高山植物でも人気の高い花の様だ。千島という言葉が北の世界へのロマンを呼ぶ。

Chishimagikyou

さてこの日の夜は白樺湖から少し北に入った姫木平のアンデルマットというホテルで一泊した。前日楽天で予約したもので、宿泊料は一泊二食で一人1万円弱だった。良いことは安いことととそこそこその温泉風呂があること。夕食のしゃぶしゃぶは食べ放題だが、良し悪しは人によって分かれるところだろう。私の様にダイエットを考えている者にとって食べ放題は有難い話ではないが、若い人には魅力だろう。

悪いところは部屋が狭いこと、テレビが病院の様に天井近くにあること、全般に従業員の対応速度が遅いことであった。

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靖国の夏-A級戦犯分祀論

2006年07月13日 | インポート

まだ梅雨は明けきらないないが、靖国を巡る議論は活発になってきた。私もブログの中で「政教分離」や「靖国神社の変遷」を論じてきたが、最後にA級戦犯分祀論を述べたいと思う。なお私がA級戦犯を分祀すべきであると主張するのは、中国や韓国等に配慮するからではない。A級戦犯として刑死した人の中に「国と軍の指導者として犯してはならない過ちを犯した人物」がいるからである。その過ちとは東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」ではない。それは主に日本国民に対する誤った戦争遂行による罪である。その罪を歴史の中で風化させないために、A級戦犯を合祀するべきではないというのが私の主張である。A級戦犯分祀論は巷に多いが、私の様な論拠で分祀論を展開している人は極めて少ないと思う。

A級戦犯の国内法処理の概要

最初に事実関係を簡単に整理しておこう。極東軍事裁判所において28人がA級戦犯として起訴され、東条英機等7人が絞首刑、16人が無期懲役、2人が有期懲役、1人が病気による免訴そして2人が裁判中に病死という結果になった。

1953年国会は「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」を可決。関係諸国の同意の下にA,B,C級戦犯を釈放した。また翌1954年には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を定め、軍事裁判での死亡者を戦死者と同様に「公務死」と扱った。厚生省は1956年に合祀事務を開始、これは戦前陸海軍省が行なっていた「戦没者名簿」を靖国神社に送る作業である。紆余曲折はあるが1978年にはA級戦犯者達も合祀された。

ここで巷間良く耳にする議論は「極東軍事裁判そのものが勝者が敗者を裁いた裁判で無効である」という極東裁判の有効性に関する議論や「公務死が認定されたのだから、A級戦犯者ももはや罪人ではない。だから戦死者と同様に靖国神社に祀って良い」といった国内法を盾に取った議論である。私自身極東裁判については一つの意見はあるが、この議論の本筋には関係がないのでここでは触れないことにする。

祀るとはどういうことなのか

一方A級戦犯者を公務死と認定したから靖国神社に祀っても良いという意見については、厳しく批判しておく。公務死と認定したことは遺族に恩給を支給する手続き上必要なことであり、そのことが東条英機等当時の政治・軍事面つまり国の指導者層が靖国神社に祀られて良いということとは全く別の話である。

そもそも神社に人を祀るとはどういうことなのか?と考えると「その人の記憶を長くとどめる」ということに尽きる。今日的な靖国神社の意義に即して言えば、国のために命を捧げた将兵の魂を「集合的」に顕彰しその記憶を留めることにより遺族の悲しみを緩和するということになる。

将帥の基本的資格を欠いた指導者達

ここで東条英機等戦争当時の指導者層が顕彰し祀るに価するかどうかということについて私見を述べる。まず戦争開始責任である。孫子は真っ先に「兵は国の大事。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」と無謀な戦争を戒める。つまり勝てない戦争をしてはいけないのだ。このための情報収集は極めて大切な活動である。東条英機等はこの基本的動作を著しく欠き、ビューのないまま戦争に突入した。これは主君を補佐し、国政を預かるものとして極めて大きな過ちを犯したと批判されてもしかたがない。

又孫子は言う。「爵禄百金を惜しみて敵の情を取らざるものは不仁の至りなり。人の将にあらず」 つまり情報活動をして敵と己の力を計るとともに、効率良い作戦活動を取ることが将の条件であり、それを行なわないことは部下に対する愛情を欠き、将の資格がないと孫子は喝破する。戦争中軍部は情報収集を軽視するとともに、虚偽の情報を国民に喧伝しミスリードした。その責任は極めて重たい。

太平洋戦争中の日本は「戦争と戦争目的」が倒置していたことも大きな問題であった。戦争の善悪は別として、戦争も外交交渉と同様、国の対外的な意思・欲望を相手に承服させる手段である。しかし戦争は目的ではない。例えば国民が玉砕して国土が残ったところでそれはどんな意味があるのだろうか?従って玉砕戦法などというものは最も戒めるべきっものである。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓も国際的な戦争ルールを逸脱するとともに、人命を軽視している上で厳しく批判されなければならないものである。

以上は日本の戦争指導者が如何に将帥の資質を欠いていたか?ということの極一例である。このことを日本国民が記憶し、過ちを繰り返さないためにA級戦犯を靖国神社に合祀してはいけないのである。合祀をすると指導者の責任が曖昧になってしまうのだ。指導者の責任は誠に重たいといわざるを得ない。

分祀など技術的な問題に過ぎない

A級戦犯の分祀論を述べると必ず靖国神社から「一端合祀したものは分祀することはできない。これは灯明の火を分ける様なもので分けても元の火は残る」という反論が出る。これについて細かい技術論はさて置き私は分祀は可能で、靖国神社は分祀したくないから技術論を述べていると判断している。その根拠を以下で述べよう。

  • もともと靖国神社は明治時代に政府の手で創られたものである。人の手で創られたものが人の手で動かせない訳がない。
  • 今日の神道は神道の国教化を進めた明治政府が作り出したところが大きい。日本ではその時々の権力により神社の祭神すら変わっているのだ。例えば神田明神の元々の祭神は平将門の霊一座であった。ところが明治の初め宗教行政を担当していた教部省は、神田明神の祭神から朝敵であった平将門の霊を除くことを主張し、将門の霊を本殿から追い出して摂社に移してしまった。この結果現在の主祭神は大己貴(おおなむち)命、第二神が少彦名(すくなひこな)命で将門は三番目になっているのだ。
  • 以上のようなことを考えると、神道上分祀が出来ないなどということは「やりたくないための理由付け」に過ぎないということになる。

国の姿勢が問題

上記の様に私は分祀可能論を取るが、では靖国神社が独自の判断でA級戦犯者の霊を分けて良いか?ということになるとそれは極めて困難であると考える。何故なら靖国神社は国(戦前は陸海軍省、現在は厚生労働省)から戦没者の身上が記された「祭神名票」(戦没者身分等調査票)を貰い、重複がないかなどを調べて合祀祭を行うという受動的立場にある。靖国神社はAは祀るけれど、Bは祀らないといった判断は行なっていないということである。A級戦犯を合祀する時も国の判断で合祀を行なったのであり、分祀を現在の靖国神社単独の判断で行なうことは極めて困難であるといわざるを得ない。

では現在の枠組みの中で国が靖国神社に分祀を指示することができるのか?というとこれは憲法20条の問題に抵触してしまう。

この堂々巡りの状態を打破するためには「靖国神社を国家的施設にする」しかないという結論になる。これについてはもう少し丁寧に説明しよう。

何故靖国神社を国家的施設にする必要があるのか?

国として何らかの戦没者慰霊の施設を持つことに反対する声は少ないと思う。国民として国家のために死んだ人を何らかの形で追悼したいと思うのは当然だからだ。これについて靖国神社以外例えば千鳥が渕に新たに慰霊施設を設けるべしという声もあるが、私はこれには反対である。何故なら「神社の様な記憶装置は遺族を中心とした残された人々が故人を偲ぶよりしろ」であり、残された人々の納得感が大切だからだ。つまり残された人々は「戦死者が靖国神社に祀られると思って死んだ」と考えているので、靖国神社以外はよりしろ足りえないのである。靖国神社は神社の名前が付いているが、神社本庁の下に入っていないし、教義も一般の神道とは異なる。つまり慰霊の施設という面を強調すれば国家施設とすることは「政教分離の原則」と両立しうると私は考えている。

実際昭和49年の田中内閣時代に靖国神社の国家護持を定めた法案が衆院を通過し、参院で否決されたことがある。これをそのまま打っちゃっておいたのは政治家の先送り主義のつけかもしれない。あるいは時間が経過しないと片付かない問題だったのかもしれない。

以上のようなことをまとめて述べると「A級戦犯を分離(祀)する前提で靖国神社を国家的施設として維持する」ということが私の結論である。そして首相がこのようなビューの下で現在の靖国神社を参拝するのであれば、それは推奨するべきことであると考えている。

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