赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」が熊本の慈恵病院に設置されて、明日で丸10年となる。
10年前の2007年5月10日に、「ゆりかご」は運用開始した。
各メディアは、そのことをしっかり伝えようとしてくれている。
まだ…、忘れられていない。
でも、10年が過ぎても、日本にはまだ一カ所しか、赤ちゃんポストは存在していない。
しかも、東京や大阪といった超大都市にではなく、また博多でもなく、熊本に、だ。
二つ目となるゆりかご構想は、市の同意が得られず、厳しい局面に追い込まれている。
…
それにもかかわらず、この10年で、125人ほどの赤ちゃんが「ゆりかご」に預け入れられた。
この数字は、赤ちゃんポスト発祥の地であるドイツと比べても、決して少なくない数字だ。
それだけ、赤ちゃんポストを必要としている「緊急下の女性」がこの国にもいる、ということだ。
僕も10年以上、この問題に関わってきて、そのことは常々痛感している。
…
しかし、そんな10周年の直前に、茨城の大洗で、また悲痛な事件が起こってしまった。
男児の遺体をトイレに遺棄 無職の33歳母親を逮捕 茨城・大洗
出産した男児の遺体を自宅のトイレに遺棄したとして、茨城県警水戸署は8日、死体遺棄の容疑で同県大洗町磯浜町の無職、鈴木美香容疑者(33)を逮捕した。容疑を認めている。
逮捕容疑は今年2月ごろ、自宅のトイレに産んだばかりの男児の遺体を遺棄したとしている。
同署によると、鈴木容疑者の自宅で作業をしていたトイレのくみ取り業者が同日午後2時ごろ、ポンプが詰まったことを不審に思い調べたところ、男児の遺体を発見。「子供の遺体のようなものがある」と近くの交番に届けた。
鈴木容疑者は母親(54)と長女(2)の3人暮らし。
同署は、司法解剖して男児の死因を特定するとともに、遺体を遺棄した経緯などを調べる。
引用元はこちら(産経)
トイレに乳児の遺体遺棄=容疑で33歳母逮捕-茨城県警
自宅トイレに生後間もない乳児の遺体を遺棄したとして、茨城県警水戸署は8日、死体遺棄容疑で母親の無職鈴木美香容疑者(33)=同県大洗町磯浜町=を逮捕した。同署によると、容疑を認め、「トイレに産み落とした」と供述しているという。
逮捕容疑は2月ごろ、自宅のトイレに乳児の遺体を遺棄した疑い。
同署によると、鈴木容疑者は母親(54)と長女(2)の3人暮らし。自宅のトイレはくみ取り式で、8日午後2時ごろ、くみ取り作業をしていた業者の男性従業員がポンプが詰まったため確認したところ、乳児の遺体を発見。業者側が警察に届け出た。
同署は今後、司法解剖を行い、詳しい死因を調べる
引用元はこちら(時事通信)
「自宅で作業をしていたトイレのくみ取り業者」ということは、いわゆる「ぼっとんトイレ」だったということだろうか。
それよりも、気になるのは、鈴木さんの家族構成。母親と長女と三人暮らしの家庭だったということか。一部のネット情報だと、シングルマザーの家庭に育った女性(鈴木さん)もまた、シングルマザーだった、ということらしい(未確認)。
今回の事件では、2歳になる長女がいる、ということが気になる。児童遺棄・殺害となれば、実刑は免れないし、執行猶予もつかないだろう。数年刑務所に行くことになる。そうすると、2歳の長女は、数年、ママと会えないのみならず、かけがえのないママが「犯罪者」となってしまった、という現実に直面することになる。また、今の時代、「個人情報」はネット上に半永久的に残るので、後に2歳の子が大きくなって、自分の母親を検索して、「過去の事件」に気づく時が来るかもしれない。
この鈴木さんも、きっと「誰にも相談しなかった」のだろう。「誰にも言わなかった」のだろう。ひょっとしたら、54歳の母親は知っていたかもしれない。ただ、それは本質的な話ではない。
孤立する3人の三世代家族の存在が浮かび上がってきた。そこに「男性」の存在はない。
もし、茨城に「こうのとりのゆりかご」があったら…
あるいは、(このブログの読者ならすぐに思い浮かぶと思うが)「匿名出産」「内密出産」があったら…
そうしたら、鈴木さんは、人知れず、望まない妊娠によってできた「新たな命」を誰かに託し、「逮捕」されることもなかっただろう。2歳の子も、大好きなママと離れて暮らすことにもならなかっただろう。こうのとりのゆりかご10年を迎える直前に、こうした事件が起こったことに、この問題の根深さを感じずにはいられない。
いつでも、どこでも、望まない妊娠に苦しみ、中絶可能期間を過ぎ、そして誰にも相談できずに苦しみ、臨月を迎え、一人で出産しようとする女性たちがいる。
「育てられないなら産むな」という反論は常に出てくる。でも、現実的には、育てられなくても、赤ちゃんはできてしまうのである。男と女がいる以上、赤ちゃんはできてしまうし、それを否定してしまったら、男女の関係(ないしは動物的性交)そのものが否定されてしまう。いつでも、女性たちは、「妊娠のリスク」と向かい合っているのだ。それを責めることは誰にもできない。
こうした児童遺棄・殺害事件においては、現法では、相手の男性が逮捕されることは、(共犯しない限り)決してない。常に、逮捕されるのは、「女性たち」だ。ゆえに、男性的な理屈での批判(捨て子を助長する等)は、どれも唾棄する。ゆりかごへの批判は、そのまま男性への批判として受け取ればよいだろう。(育てられないなら、するな、と)
ゆりかごが茨城にあったら、33歳のママと2歳の女の子、この二人の人生や運命を変えられたかもしれない。トイレにではなく、ゆりかごに預けてくれたら、その赤ちゃんにも「人生」が与えられただろう。また、54歳の母親も、全く違った「老後」が待っていただろう。
関連記事
◆赤ちゃんを死なせてしまうかもしれないお父さん・お母さんへ◆
***
赤ちゃんポスト・こうのとりのゆりかごは、決して、表舞台に出るようなものではないし、これからも「グレーゾーン」に留まり続けるだろう。違法とは言えないものの、合法には決してなり得ないものである。
でも、人間の具体的な生々しい現実というのは、常に、合法と非合法のあいだにあるようなものである。人間の現実社会は、そんなに美しいものじゃないし、綺麗なものでもないし、道徳的なものでもないし、理性的なものでもない。かといって、グロいだけじゃないし、汚いだけでもないし、反道徳的なものだけでもないし、本能的なものだけでもない。僕らの生活世界そのものが、「グレーゾーン」にあるのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
世の中、正義だけで成り立っているわけではない。かといって、正義の反対が悪であるわけではなく、正義の反対もまた別の正義だったりもする。鈴木さんがトイレで赤ちゃんを産み落とした瞬間、何を考えていたのだろうか。あるいは、何を感じたのだろうか。その時の彼女は、悪者だったのだろうか。僕はそうは思わない。きっと「ごめんね」と心の中でつぶやいただろう。その瞬間はパニック状態で何も思わなかったとしても、きっと、その後、「ごめんね」とつぶやいただろう。
ゆりかご10年の記事を読んでいると、「ゆりかご以後」の話ばかりが先行しているように思えてならない。そして、ゆりかごの「問題点」をなんとか引き出そうとしているように思えてならない。
けれど、ゆりかご10年を迎える今、もう一度、原点に立ち返る必要がある。それを気づかせてくれたのが、鈴木さんという一人の女性の存在だった。そして、その鈴木さんの2歳になる長女の存在だった。
おそらく今日も、全国で、忌々しい「人工妊娠中絶」が実施されることだろう。何人もの胎児が、今日、天国に行くのだろう。しかも、人為的・かつ合法的に…。
また、今後も、鈴木さんのように、自宅出産・車中出産など、医療機関以外の場所で、孤立無援の状態で、出産する女性が現れてくるだろう。僕らは、こうした「名前のない母子」のために、もっともっと知恵と汗を流すべきだろう。「女性」と「子」は、歴史的にみても、地理的に見ても、いつでも「迫害される側」である。
それと戦い続けることこそが、ある意味での「承認をめぐる闘争」であるし、また、アウシュヴィッツや広島の悲劇を繰り返さないための「平和への戦い」なんだと思う。
メメント・モリ。
ゆりかご10年を迎えて、この本は是非とももっと多くの人に読まれてほしいな。