名前を呼ばれて視線を向けると近づいてくるのは金髪の女性だ、ケーキを食べに来たのかと思ったが、相手は軍服姿だ。
女はアームストロング・オリヴィエですと名乗ると自分はブリックス勤務ですので直接の面識はありませんが、偶然、お見かけしてと頭を下げた。
「突然ですが、大佐からのお話、できれば了承して頂きたいと思っております」
マルコーは不思議そうに相手を見た。
「一週間前、こちらから正式にお伝えしたのですが」
「な、何の事だね」
すると女の眉間に皺が、いや、青筋が立った、すると、スキンヘッドの、これも軍服姿の大男が追いかけてきた。
「姉上、いきなり、このような店に」
「アレックス、こちらはドクター・マルコー殿だ、おまえも、ご挨拶を」
自分達が視線を集め、注目されているのを感じながら、頭を下げる男はプライベートな時間を邪魔するのはと低い声で耳打ちした。
「ドクター、あなたを正式に勤務医として迎えたい、ブリックスは過酷な土地ですが、あなたのような人材が是非とも必要なのです」
「姉上、このような話をするのは」
大男は焦る、だが、金髪女は動じる事もなくでと一礼をして去って行った。
二人の軍人が去った後、マルコーは脱力した、まさか、ケーキを食べに来て、こんな話を聞かされる事になろうとは思わなかったからだ。
「ブリックスって、ここから遠いんですか」
軍人達が去るまで無言だった彼女が口を開いた、さっきまでケーキ全種類を食べますよと、にこにこと笑っていたのに、タイミングが悪すぎるとマルコーは思った。
「診療所は、どうするんです」
こんな話は即決で決められるものではない、しかも一週間前に話を通していると言われても青天の霹靂だ、大佐の元に話が届いていなかったのか、ただ、忙しくて忘れていただけだったのか、いや、あり得ない、どちらにしてもだ。
とにかく、重苦しい空気をなんとかしなければとマルコーは思った。
「この苺のケーキ、美味しそうじゃないか」
半分に切った小さなケーキをフォークに突き刺すと、さあ食べなさいと女の口元に運んだ、恥ずかしいと気持ちはあっだが、この際、見ないふりだ。
「キッシュとデザート、私が取ってこよう」
何か、お勧めの本はあるかね、振り返ったラストは相手の声と顔を見て驚いた、どことなく元気のないマルコーの顔だ、そういえばどうして、ここに居るのと疑問を抱いたのも無理はない、イシュヴァールに帰ったと思っていたからだ。
「色々とあってね、予定は未定というやつだ」
もうすぐ終わるからお茶でも飲まないとラストは言葉をかけた、そして今に至るのだ。
「それって引き抜きってことかしら」
「私だって驚いている、まさか、あんな場所でブリックスの軍人に会うとは思わなかった」
でしょうねと頷きながらラストはマルコーを見た、男の目の前には、この店でも人気の高い苺のケーキとリンゴのタルトタタンの皿があるのだが、手はつけられていない。
「それで彼女は落ち込んでいるって訳ね」
あー、いやと言葉を濁しながら、わずかに視線を逸らす相手の顔を見て、ラストはガクーッとなった。
「もし、行く事になったとしても、今より給料も待遇もいいかもしれないわよ」
そんな簡単に割り切れない、地元の患者の事もあると言われて確かにとラストは思った、ティム・マルコーは患者に対して親身になってくれる良い医者だ、地元の人間も彼がいなくなれば痛手だろう。
「それで、あなたは困っているというわけね、ブリックスの人間って強引だから断れないと思っているんじゃない」
「少将か、やり手という印象は受けた」
このとき、ラストは思い出すような表情になった。
「雪崩じゃないかしら、それで怪我人が増えたって事は」
マルコーは、ここ数日の新聞記事を思い出した、だが、そんなニュースは聞いたことがないと首を振った。
あそこは秘密主義だからとラストは笑ったが、一瞬、真面目な顔になった。
「昔、ブリックスで実験が行われたらしいけど、ああ、石がらみではないのよ」
宿に戻ったマルコーは自分を出迎えてくれたスカーの顔つきが、いつもと違う事に気づいた。
何かあったのだろうかと尋ねるとブリックスに戻る事になったと言われて、またかと思ってしまった。
「お前も一緒に来れないか」
まさか、この男から言われるとは思わなかったとマルコーは顔をしかめた。
「それは命令されてのことかね」
今の自分は、はいそうですかと素直に頷くつもりはないとスカーを見ながらアームストロング少尉から言われたのかねと言葉を続けた。
「一応、上司だからな、俺が首に縄をつけて引っ張ってでも連れて行くと言ったら」
無茶苦茶だとマルコーは肩を竦めた。
「とにかく、詳しく話を聞きたい、いきなりだよ、急すぎるとは思わないかね、少尉がこちらに来ているが、直接、言われたのかね」
「それは知らなかった」
ケーキバンキングでの事を話していなかったことに、このときマルコーは気づいた、そんな気分ではなかったのだ。
ブリックスって遠いのか、年中、雪が積もっているって南極、北極、富士山なんかと比べたら寒そうだな、嫌だな、寒いの苦手だわ。
床に寝転んだまま、スカーに言われたことを頭の中で反芻しつつ、本を開いたり閉じたりしているとドアが開いた。
お帰りなさい先生と女は慌てて体を起こした、シーツにくるまったままの姿を見て、マルコーは思わず笑いたくなるのを堪えた。
「先生、もしかして、ブリックスへ行くんですか」
「な、何だね、急に」
ついさっき、スカーさんに会いに来た人がいたんですと言われてマルコーは、そうなのかと頷いた。
「もし、もしもだよ、行く事になったらどうするね」
来なくてもいいといえば彼女はそうするだろう、だが、そうなったら自分の方が余計に心配をして落ち着かないのは目に見えている、側にいてくれる方が安心だと思ってしまう、まるで、なんとなくだが周りから、ブリックスに行けと仕向けられているようだ。
「あちらにも看護師がいるだろう、だが、自分としては」
マルコーは視線を向けると笑った。
「君が居てくれる方が心強いよ」
「イシュヴァールの歴史」「あなたは宗教に何を求めるか」「自由と平等の権利」「他民族の介入がもたらす弊害」「軍人の支配の抑圧、我々は何を求めるか」
本のタイトルを見て、本当にいいのかと言いたげな顔でマルコーはラストを見た。
「彼女ね、街中でイシュヴァール人に間違えられるの、でも、あの肌色だし、傷の男みたいな褐色だったらいいけど、相手も興味を抱くのよ、何処の国の人間かって」
最低限の知識を知っておいた方がいいと思わないと言われて確かにとマルコーは思った。
診療所と村を行き来するだけの単調な生活では必要なかったが、ここは違う、先の事を考えると知識はあった方がいいにこしたことはない、というか彼女自身も心強いだろう。
「そうか、しかし少しは娯楽的なものも」
「だったら料理本は、イシュヴァールの料理、お菓子とか、帰ったら作って貰ったらいいんじゃない」
選択を間違えたと思った、本を読み聞かせながら、時折、ベッドで寝ている彼女を見ると難しい顔、いや、真剣な顔だ、額に皺まで寄せている、しかも手にはメモとペンを持ち、時折、大事な部分をメモしている。
寝ながら仰向けでという体勢でだ、途中で腕が疲れるのか、体を横向きにしたり、正直、器用な事をやるものだと感心するが、読んでいる途中で、今の所もう一度と言われる。
「近年、移民が増えてきた為か、純粋なイシュヴァール人の存在は珍しくなってきた、その為、移民同士での争いも珍しくはない」
なるほどと呟く彼女はメモを取る、だが、気になって時計を見ると遅い時間だ、今日は、ここまでにしようかと声をかけた。
「美夜、夜は、ちゃんと寝ているかね」
「も、勿論ですよ」
返事はいい、だが、顔を見れば目は少し腫れぼったい、時折、あくびをかみ殺している。
最近、遅くまで部屋に灯りがついているので、部屋を覗いてみれば熱心に、スカーに聞くと昼間も熱心に本を読んでいるらしい。
「今夜は、もう寝なさい、この本は預かっておく、遅くまで起きているだろう、風邪は治りかけが大事なんだ」
医者の言葉と言いつけは守らなければというと困った顔をする、大人だろうと言うと返す言葉がないのか、はいと頷いた。
「週末までに治れば、外出もできるだろう」
意外だったのか驚きの顔になった彼女に一冊の雑誌を手渡した、赤い丸で囲まれた部分を見なさいと言葉かける、それはケーキバイキングの記事だ。
「も、もしかして連れてってくれるんですか」
「風邪が治ったらね」
やったーと両手を上げてばんざいをすると、先生も一緒ですよねと言われてマルコーは断りたいと思いつつも頷いた、本音を言えば正直、遠慮したいところだ。
「こういうときはね、ご褒美よ、じっと寝ているだけでは駄目よ」
先日、始まったデザートブッフェはどうと言われて、だったら金は自分が払うから彼女と二人で行けばいいとマルコーはラストに頼んだ、ところが彼女は首を振った、そして、ここを見てと記事を指さした。
「百名限定でカップルだと半額になるの」
マルコーの表情がわずかに曇った。
「ドクター、ここのバイキングはね、最近、人気のパティシェが手がけていて値段も高いのよ、代金を払うのは、あなたよ、彼女はタダで無料なら遠慮なしというタイプなのかしら」
それはとマルコーは言葉に詰まった。
「うまくいけば半額、もし、駄目でもあなたも一緒なら、気持も少しは軽くなるでしょ」
言われたマルコーは雑誌を見た、確かに値段は安くはない、写真のデザートも美味しそうだ。
「しかし、こういうところは若い女性が多いと思うが」
自分みたいな男、しかも年寄りは場違いというか、絶対浮いているのではというとラストは、ふうっと小さな溜息を漏らした。
「男でも甘い物を食べるでしょう、弱気になる事ないわよ、一人じゃないんだし」
「それは、いや、まあ」
「まさか、傷の男に頼もうなんて考えてないわよね、元が取れるまで食べそうね、視線が集中砲火、間違いなしね」
ここまで言われては諦めるしかなかった。
鏡に映る女の顔は別人だ、それを見てラストは思った完璧だわ、自分の顔にメイクをするのは慣れているから短時間で素早くできるが、他人の顔にするのは初めてだ、最初は、うまくできるだろうかと思ったが、バイト先の本屋で初めてのメイク術、今、流行のメイク術と化粧品紹介などの雑誌を見て調べて研究したのだ。
ケーキバイキングに行くのにと最初は難色を示した彼女にラストは、駄目よと首を振った。
「この店は軍の官舎にも近いからドクターを知っている人間だっているかもしれないでしょ、連れている女がくたびれた、おばさん丸出しの女なら、どう」
言葉に詰まる彼女にラストは分かっているのねと頷いた。
「こういうところは女に視線が集まるし、見られるのよ」
あたしの服とアクセも貸してあげるからとラストは言葉を続けた。
「ドクターに恥をかかせないようにしなくてはね」
店内に立ちこめる甘い匂いで一杯だ、女性が多いと思っていたが、そうではなかった。
内心ほっとする自分に座っていてくださいケーキを取ってきますと言われてマルコーは店内を見回した。
女性達は皆、必死だ、正直、あの中に入ってケーキを取ってくるなど自分はできそうにないというか遠慮したい思った。
待っているとワゴンを押した店員が飲み物はいかがですかと声をかけてきた。
甘いケーキを食べるのだから、飲み物はさっぱりしたものがいいだろう、紅茶を二つ頼むと彼女が戻ってきた、トレイの上のケーキは決して大きくはない、だが、数が多い。
「二人で半分ずつ食べれば制覇できますよ、全種はちょっと無理かもしれないけど」
マルコーは一瞬、絶句した。
「ケーキは二〇種、他にムースやババロア、キッシュもありますからね」
「そんなに食べられるのかね」
「風邪も治りましたからね、大丈夫です」
食べ過ぎて今度は腹を壊さなければいいが、そんな事を思っていると目の前の皿に半分に切られたケーキが並べられる。
「はい、どうぞ」
突然、口を開けてと言わんばかりに目の前にケーキが出てくると、慌ててマルコーは首を振った、だが。
「風邪のときは食べさせて貰いましたからね、さあ」
人に見られでもしたら、すると皆、ケーキに夢中で他人の事なんか見てませんよと言われて思わず周りを見てしまう。
「美味しいですよ」
これは食べなければいけないのか、仕方なく口を開けたときだ。
「マルコー先生ではありませんか」
名前を呼ばれて、ぎくりとした。