大佐とアームストロング少尉が言い合った、しかし、喧嘩というわけではないらしい。
生来、女に弱い性格のマスタングなので最初から形勢は不利ではと周りは見ていたようだが、結果は正直、白黒、はっきりとはつかなかったようだ。
先日、偶然にも街中でドクター・マルコーに、お会いしたのですと切り出した金髪美女の台詞にマスタングは内心、本当だろうかと思った。
そんな簡単に偶然が、あまりにも都合がよすぎないか、しかもわぞわぞブレリックスから出てきた初日にだ。
「何故か、こちらが先日もうした、例の件をご存じなくて驚きました、しかし、つまるところ、大佐殿は私の、いや、こちらの言葉を軽く見ておられていたのだろうか、いや、多忙な貴方のこと、うっかり忘れていたのかもしれない」
「少尉、実は」
いやいやと、美女は頭を振った。
「勿論、人の上に立つも者の立場もある、しかしだ、つい、うっかり忘れていたとかなどという言葉で己の立場を誤魔化そうなど思っておられるなら」
マスタングの顔色は少しずつ、どんよりと暗い表情になっていくのを女は冷ややかな目で見つめながら言葉を続けた。
「大佐は、そのような矮小で懐の狭い人間ではないと思っているのだが」
「も、勿論だ、私は」
譲歩はするつもりだというマスタングの言葉に美女は笑みを浮かべた、それは、まさに氷の女と呼ばれるに相応しい笑顔だった。
やはり行かなければならない状況に追い込まれているとマルコーはカップの中のコーヒーを飲み干した、気分が落ち着かず、どうしても忙しない、なんとか回避できないものかと思ったが、怪我人がいると聞いては正直、気持ちは落ち着かない。
そんな自分を見かねたのかもしれない、割り切ってブリックス行きを期間限定で決めたらどうですかと美夜に言われて、そうだなと腹を据えて決めようとしていたときにだ。
いい方法があるわとラストが助け船を出した。
戸籍、つまるところ出生証明書を用意させる、それも偽造ではなく本物をという条件でだ。
役所を通すのだから簡単な事ではない、ティム・マルコーという人間は金では動かないと匂わせる為だ、もし通ったとしても、そのときは儲けものだと考えればいい、だが、もう一つ保険をかけようといわれた。
ティム・マルコー医師はシン国の王族に呼ばれているという話を聞いたアームストロング・オリヴィエは驚いた、皇族関係の人間が病気らしい、何故、自国の医者に診て貰わないのかという疑問がでてきた。
すると、メイ・チャンという少女、皇族の一人がドクター・マルコーならと声をかけたらしい、知り合いらしく、少女の頼みを無下に断る事はできないというのが答えだ。
シン国といえば決して小さな国ではない、メイ・チャンとは面識もあるのでマルコーとしては正直、断るのも心苦しい、だがブリックス行きもだ。
両天秤にかけて簡単に答えを出すのは難しい、だが、条件をのんでくれたら譲歩するとマルコーはオリヴィエに伝えた。
勿論、事情を話してメイには協力してもらってだ。
「イシュヴァール人しての戸籍証明になるが、あれば、これから先、色々と助かることもある」
今の自分は立場はスラムの住民、出生不明、どこの国かも分からない流浪の民という立場と言われて美夜は、うーむと唸った、日本なら大変な事になっていたかもしれない、だが、ここでもやはりそういうのは大切なのかと思って納得した。
「役所と軍は中が悪いとかあるんですか」
「どうだろう、私も正直、詳しくは分からない、だが、この話を申し出たとき、少尉は、あまりいい顔はしなかったな」
思い出しながら、マルコーはカップを手に取るとゆっくりと紅茶を味わい、ほっと息をついた、どちらにしても、あと数日で診療所に、ようやく戻ることができる。
今はブリックスの返事を待っているところだ。
「あたしの証明書より、先生の得になるような条件を出したほうが良かったんじゃないですか」
この質問にマルコーは、まあ、良いじゃないかと笑った。
「そうしたいが、軍の人間なら私の事は知っているし性格も読まれているだろう、病人、怪我人がいてと強気で出られたら断りづらい、だが、君の出生証明書は、正直、向こうにとっては予想もしなかった筈だ、少しは時間が稼げる」
空になったカップにお代わりの紅茶を注ぎながら、先生、苦労してますね、あたしのせいですかと言葉が続きマルコーは驚いた。
「だって、普通なら診療所で地元の病人を診ていただけなのに、ここに来たのだって、あたしが誘拐されたせいですし」
「まあ、生きていれば色々とあるさ」
また、落ち込んでいると思いながら、マルコーはカップに口をつけた。
「それに困った事になっても、なんとか切り抜けている、楽しんでいるよ、セントラルに来る事なんてことは、もうないだろうと思っていたし、ケーキバイキングも初めての体験だよ」
「楽しかったですか」
「緊張したよ」
「そう、なんですか、ケーキを食べさせてくれたし」
思い出したのか、マルコーは思わず顔を赤くした。
「ラストには感謝ですね、戸籍なんて思いつかなかったし、こういうのって悪知恵ですかね、今度、お礼をしなくては」
だが、その言葉は翌日、予想もしない形でマルコーが支払う事となった。
もうすぐ、イシュヴァールに診療所に帰る事ができる、宿の食事も悪くないが、たまには自分で料理をしてみたい、宿の厨房を借りて何か作ろうとマルコーは街に出た、そんなとき、街中でラストに出会った。
「ドクター、助けてくれない」
いつもとは様子が違う、しかも助けてくれという言葉にマルコーは驚いた、もしかして怪我でもしたのか、だが、ホムンクルスと治癒能力があるはずだ。
「少し付きあって、お願いよ」
いきなり、ラストは腕を組んできた、そのまま、歩いてと小声で囁いてくる、誰かに追われているのか、マルコーは振り返ろうとしてやめた。
「あそこの喫茶店に入らない」
「大丈夫なのか」
「勿論、ああ、しつこいのって嫌いなのよ」
辟易、いや、うんざりとした口調だ。
それにしても腕を組むのはいいとして、ぐいぐいと胸を押しつけてくるのは、どうにかならないかと思ったのも無理はない、肩は剥き出しの真っ赤なトップドレス、しかもナイスバディなので、いつ、胸がポロリと落ち、いや、落ちないかと焦ってしまう。
だが、そんな自分の気持ちなどお構いなく、店に入るとラストはお茶とケーキを頼んだ。
席に着いてお茶とケーキが運ばれてくるが食べる気分にはなれない、というのも視線を感じるのだ、しかも、自分達から少し離れた所に座っている一人の男が、こちらを見ているのだ。
「あの男、しつこいったらないわ、一度デートしたからって」
小声で呟く彼女の言葉にマルコーは、それは分かったが何故、自分がここで一緒にケーキを食べなければ行けないのかと不可解な顔になった。
「ちゃんとした理由がいるのよ、あの男、自分はモテルと思っているんだけど」
ラストはケーキをフォークで一口食べて、残りの一切れをフォークに刺すとマルコーの前に差し出した、そして意味ありげに、にっこりと微笑む、嫌な予感がした。
「ブリックスは、どう、多分、出してくるわよ、時間はかかるかもしれないけどね」
「ああ、ところで、あの男、こちらを見ている、その、君よりも私を、か」
何故と言う顔でマルコーは美女に尋ねた。
「私の恋人だからよ」
はっ、今、なんて言った、無理だ、恋人だと、すぐに嘘だとばれると言いかけたがラストは、にっこりと笑った。
「何を言ってるの、適任でしょ、しかも、軍医で地位と名誉もある人間」
「馬鹿なことを、昔の事だ、それに今の私は、ただの町医者だぞ」
と言いかけたときケーキが口の中に押し込まれた。
「ねっ、美味しいでしょ」