「イシュヴァールの歴史」「あなたは宗教に何を求めるか」「自由と平等の権利」「他民族の介入がもたらす弊害」「軍人の支配の抑圧、我々は何を求めるか」
本のタイトルを見て、本当にいいのかと言いたげな顔でマルコーはラストを見た。
「彼女ね、街中でイシュヴァール人に間違えられるの、でも、あの肌色だし、傷の男みたいな褐色だったらいいけど、相手も興味を抱くのよ、何処の国の人間かって」
最低限の知識を知っておいた方がいいと思わないと言われて確かにとマルコーは思った。
診療所と村を行き来するだけの単調な生活では必要なかったが、ここは違う、先の事を考えると知識はあった方がいいにこしたことはない、というか彼女自身も心強いだろう。
「そうか、しかし少しは娯楽的なものも」
「だったら料理本は、イシュヴァールの料理、お菓子とか、帰ったら作って貰ったらいいんじゃない」
選択を間違えたと思った、本を読み聞かせながら、時折、ベッドで寝ている彼女を見ると難しい顔、いや、真剣な顔だ、額に皺まで寄せている、しかも手にはメモとペンを持ち、時折、大事な部分をメモしている。
寝ながら仰向けでという体勢でだ、途中で腕が疲れるのか、体を横向きにしたり、正直、器用な事をやるものだと感心するが、読んでいる途中で、今の所もう一度と言われる。
「近年、移民が増えてきた為か、純粋なイシュヴァール人の存在は珍しくなってきた、その為、移民同士での争いも珍しくはない」
なるほどと呟く彼女はメモを取る、だが、気になって時計を見ると遅い時間だ、今日は、ここまでにしようかと声をかけた。
「美夜、夜は、ちゃんと寝ているかね」
「も、勿論ですよ」
返事はいい、だが、顔を見れば目は少し腫れぼったい、時折、あくびをかみ殺している。
最近、遅くまで部屋に灯りがついているので、部屋を覗いてみれば熱心に、スカーに聞くと昼間も熱心に本を読んでいるらしい。
「今夜は、もう寝なさい、この本は預かっておく、遅くまで起きているだろう、風邪は治りかけが大事なんだ」
医者の言葉と言いつけは守らなければというと困った顔をする、大人だろうと言うと返す言葉がないのか、はいと頷いた。
「週末までに治れば、外出もできるだろう」
意外だったのか驚きの顔になった彼女に一冊の雑誌を手渡した、赤い丸で囲まれた部分を見なさいと言葉かける、それはケーキバイキングの記事だ。
「も、もしかして連れてってくれるんですか」
「風邪が治ったらね」
やったーと両手を上げてばんざいをすると、先生も一緒ですよねと言われてマルコーは断りたいと思いつつも頷いた、本音を言えば正直、遠慮したいところだ。
「こういうときはね、ご褒美よ、じっと寝ているだけでは駄目よ」
先日、始まったデザートブッフェはどうと言われて、だったら金は自分が払うから彼女と二人で行けばいいとマルコーはラストに頼んだ、ところが彼女は首を振った、そして、ここを見てと記事を指さした。
「百名限定でカップルだと半額になるの」
マルコーの表情がわずかに曇った。
「ドクター、ここのバイキングはね、最近、人気のパティシェが手がけていて値段も高いのよ、代金を払うのは、あなたよ、彼女はタダで無料なら遠慮なしというタイプなのかしら」
それはとマルコーは言葉に詰まった。
「うまくいけば半額、もし、駄目でもあなたも一緒なら、気持も少しは軽くなるでしょ」
言われたマルコーは雑誌を見た、確かに値段は安くはない、写真のデザートも美味しそうだ。
「しかし、こういうところは若い女性が多いと思うが」
自分みたいな男、しかも年寄りは場違いというか、絶対浮いているのではというとラストは、ふうっと小さな溜息を漏らした。
「男でも甘い物を食べるでしょう、弱気になる事ないわよ、一人じゃないんだし」
「それは、いや、まあ」
「まさか、傷の男に頼もうなんて考えてないわよね、元が取れるまで食べそうね、視線が集中砲火、間違いなしね」
ここまで言われては諦めるしかなかった。
鏡に映る女の顔は別人だ、それを見てラストは思った完璧だわ、自分の顔にメイクをするのは慣れているから短時間で素早くできるが、他人の顔にするのは初めてだ、最初は、うまくできるだろうかと思ったが、バイト先の本屋で初めてのメイク術、今、流行のメイク術と化粧品紹介などの雑誌を見て調べて研究したのだ。
ケーキバイキングに行くのにと最初は難色を示した彼女にラストは、駄目よと首を振った。
「この店は軍の官舎にも近いからドクターを知っている人間だっているかもしれないでしょ、連れている女がくたびれた、おばさん丸出しの女なら、どう」
言葉に詰まる彼女にラストは分かっているのねと頷いた。
「こういうところは女に視線が集まるし、見られるのよ」
あたしの服とアクセも貸してあげるからとラストは言葉を続けた。
「ドクターに恥をかかせないようにしなくてはね」
店内に立ちこめる甘い匂いで一杯だ、女性が多いと思っていたが、そうではなかった。
内心ほっとする自分に座っていてくださいケーキを取ってきますと言われてマルコーは店内を見回した。
女性達は皆、必死だ、正直、あの中に入ってケーキを取ってくるなど自分はできそうにないというか遠慮したい思った。
待っているとワゴンを押した店員が飲み物はいかがですかと声をかけてきた。
甘いケーキを食べるのだから、飲み物はさっぱりしたものがいいだろう、紅茶を二つ頼むと彼女が戻ってきた、トレイの上のケーキは決して大きくはない、だが、数が多い。
「二人で半分ずつ食べれば制覇できますよ、全種はちょっと無理かもしれないけど」
マルコーは一瞬、絶句した。
「ケーキは二〇種、他にムースやババロア、キッシュもありますからね」
「そんなに食べられるのかね」
「風邪も治りましたからね、大丈夫です」
食べ過ぎて今度は腹を壊さなければいいが、そんな事を思っていると目の前の皿に半分に切られたケーキが並べられる。
「はい、どうぞ」
突然、口を開けてと言わんばかりに目の前にケーキが出てくると、慌ててマルコーは首を振った、だが。
「風邪のときは食べさせて貰いましたからね、さあ」
人に見られでもしたら、すると皆、ケーキに夢中で他人の事なんか見てませんよと言われて思わず周りを見てしまう。
「美味しいですよ」
これは食べなければいけないのか、仕方なく口を開けたときだ。
「マルコー先生ではありませんか」
名前を呼ばれて、ぎくりとした。