まにあっく懐パチ・懐スロ

古いパチンコ・パチスロ、思い出のパチンコ店を懐古する
(90年代のパチンコ・パチスロ情報がメイン)

ハッピーカクテル(高尾、デジパチ)

2014-04-23 05:03:04 | 現金機デジパチ

1993年(平成5年)に高尾から登場した新要件デジパチ「ハッピーカクテル」

★賞球…7&15

★大当り確率…1/240

★16ラウンド機

★平均出玉…2300個

★図柄…0~9、グラス(1)、グラス(2)、ジョッキ、苺、チェリー(計15種類)

★天下ワープゾーン搭載

★小デジタルの確変機能搭載

・全15図柄中、「1、3、5、7、9」の奇数で当ると確変突入(「0、2、4、6、8」の偶数当りで終了)
→突入率1/3、継続率2/3
・確変突入後は、小デジタル確率が10/100→99/100にアップ
(確変表示→メインデジタル上のランプ点滅でお知らせ)
・ヘソ両脇の「PASS」チャッカー通過で、メインデジタル下の小デジ変動。「77」で小デジ当選。
・電チュー開放時間は3秒。但し、元ゲージが悪く、電チューの拾いはかなり悪い。
(確変中の玉減りは当たり前、途中で玉が尽きて買い足す事も…)
・確変中、メイン確率のアップはなかった模様(→調査継続中)

★通常図柄、確変図柄を問わず、保留玉での強力な連チャン性アリ(保連率…20%程度?)
→但し、連チャンシステムは全く不明(→調査継続中)

 

…まぁ、こんな感じで情報未確認な部分も多く、私にとっては、いまだに「謎」が残る機種だ。

(解析データをお持ちの方は、ぜひ情報提供を…)

資料不足で、詳細な解析データを提供する事もできないので、当時の思い出話などを少し。


 

 

本機に出会ったのは、確か1994年(平成6年)5月頃だ。「プチ旅打ち」と称して、埼玉のJR大宮駅界隈のパチ屋に出向いた時である。

大宮には、過去に何度か遠征をしていた。最も記憶に残るのは1990年(平成2年)の夏休み。青森に住む母親の知人の子供(高3&浪人)に大学受験の勉強を教える為、短期の家庭教師を請け負った時である。ちょうど大学1年の時だ。

無事に役目を終え、幾ばくかのバイト料を貰い、嬉々として東京に帰る途中であった。東北新幹線で大宮まで来ると、そのまま地元に戻るのが勿体なく感じて、途中下車を決意。新幹線側の出口(西口)を出ると、すぐ近くのパチ屋で平和の旧要件ハネモノ「たぬき丼」を打った。ホールの名前は失念していたが、その後の情報収集により、どうやら「ことぶき」という店だった模様。これが、記念すべき最初の大宮遠征、そして、「たぬき丼」の初打ちであった。

だが、私の座った台は、ナキは良いがVをとことん嫌う「クセ悪」で、打つほどにジワジワと回収されていった。時たま大当りしても、役物のクセが悪くパンクばかり。ヘタに鳴くので、途中で台を変われぬままに、封筒に入れてあったバイト料が1000円、2000円と減っていく。気づけば、「8000円」がたぬき丼に吸い込まれていた。

今となっては「たった8000円」かもしれないが、当時の私にとっては貴重な資金であった。それなりに苦労して得たバイト料が、旅先のちょっとした「油断」で大きく目減りしてしまった訳だ。大宮に着いた時のウキウキ感はどこへやら、店を出る時は後悔と疲労感でいっぱいだった(ハネモノへの過剰投資を反省できたのは、大きな収穫だったが…)。

 

そして、1993年(平成5年)秋の大宮遠征も思い出深い。この時に訪れた店は、東口の「セントラルホール」「リオPART1」。最初に入った「セントラルホール」では、ニューギンのドラム機「エキサイトグランパス2」を初打ちした。新台から間もなかったのか、そこそこに釘は甘く、いつもの都内、神奈川に比べると良く回る印象を受けた。ただ、単発の大当りは数回かけたものの、プラス2回の当り確定&保1連チャンの「横並び7」は、ここでは引けなかった(確か、向ヶ丘遊園「銀座ホール」で最初の確変を引いた記憶アリ)。収支もチョイ勝ち程度だった。

次に入った「リオPART1」では、西陣の爆裂CRデジパチ「CR花満開」と遭遇。その時のシマの「鉄火場」状態がすさまじく、どの客も目の色を変えてハンドルを握り、そこらじゅうにドル箱の山積みが出来ていた。あまりの熱気に押されて、結局は見物しただけで帰ってしまったが…(その後、CR花満は遊園や新百合ヶ丘で追った)。

 

そんな過去幾度かのプチ旅打ちを経て、’94年5月頃の大宮遠征で訪れたのが、やはり東口「セントラルホール」だった。だが、この時、E・グランパス2の姿は既になかった。あれから一年足らずで入れ替えられたところを見ると、客付きはあまり良くなかったようだ。

そして、この店で大宮恒例(?)の「初打ち」を果たしたのが、実は「ハッピーカクテル」だったのだ。

ドットデジタルが好物の私にとって、未知なるドット機との遭遇は、即「座って打つ」事を意味した。マルホンのドットとは少々毛色の違う、独特のカラフルさが印象的だった。

最初の大当りには手こずった記憶があるが、いきなり保留玉で連チャンが来てビックリした。

’94年当時は、「ダービー物語事件」(1993年)などの影響もあり、現金機に対する連チャン規制が強まっていた時期である(CR機ばかり優遇されていた)。そんな時、初打ちの台でいきなり保留連が来れば、「??」と面喰らうのも当然だろう。

「たまたま自力連チャンした?」とも思ったが、周りの客も、結構な勢いでダブルをかけている。

その様子を見る限り、本機は明らかに「保留連チャン機」そのものだった。しかも、割と強力な…。

因みに、この時のルールは「7は無制限、その他の奇数は継続、残りは1回交換」。「奇数で確変」との説明書きもあったので、最初に奇数3つ揃いが来た時は「ヨッシャ!」と喜んだのだが…。

どうにも、確変中の玉の拾いが良くないのだ。電チューは開くが空振りも多く、現状維持すら難しい状況である。止め打ちで対応できたかもしれないが、遠征で少々舞い上がっていたのか、そうした知恵も働かなかった。結局、初当りで得た玉を半分以上飲まれてから、ようやく次が来た。

ただ、そんな「辛い確変」でも、相変わらず大当り後の保留連チャンは健在だった。もはや、これが仕込まれた連チャンである事は明らかで、「こんなご時世に、凄い機種が出たものだ」と、期待せずにはいられなかった。シマの端では、トリプルまで伸ばしている客もいる。この日は半日タップリ打って、3万近いプラス収支で終えた。性悪タヌキに化かされた数年前に思いを馳せつつ、充実感タップリに帰りの埼京線に乗り込んだ。

 

その後、新宿などの馴染みのホールで、本機が導入された記憶はない。巣鴨「ラッキーセブン」や、代々木「ムサシ」など設置ホールは点在したが、いずれもたまにいく程度のエリアで、打ち込む事はなかった。また、初打ちで快勝した大宮でも、本機と再戦する機会は二度と訪れなかった。 

一体、あの香ばしい連チャンは、どういった「カラクリ」で起きていたのだろう。どこかの攻略誌に、「ROMに貼られたラベルがペラペラの紙で怪しい」なんて書かれていたが、真相はどうだったのか。「モーニング疑惑」も一時期あったが、朝一から打ったことがないので判らない。考えれば考える程、この機種への謎は深まるばかり。何が情報をお持ちの方は、ぜひ教えて下さいね。