このところ3日続きの雨で、今日もまた肌寒く最高気温は15.7℃(平年21.0℃)と、昨日の15.8℃(平年21.1℃)に続いて、今シーズン一番寒い日となった。
前回の第二講に続いて、本日は今年度最終回の第三講で「大政奉還の真意」と題し、水戸史学会会長宮田正彦氏の講義だった。
この徳川慶喜による「大政奉還」の意図については、色々の人々が述べている:
①慶喜摂政説:京都の慶喜政権が提出した権道の策
(幕閣が江戸と京都分裂しており、江戸の猛然と反慶喜的空気が盛り上がった)
②天皇を大君とし大君制国家の創設
(大政奉還しても朝廷は「もてあくみ」天皇は再び政権を慶喜に委任するだろうことを狙った幕権回復策)
③幕府の相対化拒否(徳川単一政権)を狙う(大政奉還1・2ヶ月前頃には危ないと思い始める)
などがある。
一方、松平慶永等の書、慶喜の言動書などより、一意皇室を思い国家を憂えた至誠から出たものであり、維新の大業の一半は慶喜公の至誠に帰せざるを得ないし、公をしてそのようにならしめたその一半はまた祖宗の遺徳である。
明治34年大磯より汽車で帰京する折、伊藤博文に会った渋沢榮一は伊藤公より聞いた話として以下のように言っている(徳川慶喜公傳 四(逸事)):
(以下、( )内は説明のため小生が記入)
公爵(伊藤博文公)余(渋沢栄一)に語りて、「足下は常によく慶喜公を稱讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の𨪙𨪙(そうそう)たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非凡なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、
「一昨日有栖川宮にて、西班牙(スペイン)國の王族を饗應せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり。公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりてのお尋ねながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓(家の教え)を守りしに過ぎず。ご承知の如く、水戸は義公(水戸光圀公)以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人(徳川斉昭公)も同様の志にて、常々諭さるゝやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らむとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るゝこと勿れ、萬一の為に諭置くなりと教えられき。されども幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は變化常なし、此末如何に成り行くらん心もとなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき。此言常に心に銘したれば、唯それに從ひたるのみなりと申されき。如何に奥ゆかしき答えならずや、公は果たして常人にあらざりけり」といへり。
これが、徳川慶喜公の「大政奉還の真意」と思う。
前回の第二講に続いて、本日は今年度最終回の第三講で「大政奉還の真意」と題し、水戸史学会会長宮田正彦氏の講義だった。
この徳川慶喜による「大政奉還」の意図については、色々の人々が述べている:
①慶喜摂政説:京都の慶喜政権が提出した権道の策
(幕閣が江戸と京都分裂しており、江戸の猛然と反慶喜的空気が盛り上がった)
②天皇を大君とし大君制国家の創設
(大政奉還しても朝廷は「もてあくみ」天皇は再び政権を慶喜に委任するだろうことを狙った幕権回復策)
③幕府の相対化拒否(徳川単一政権)を狙う(大政奉還1・2ヶ月前頃には危ないと思い始める)
などがある。
一方、松平慶永等の書、慶喜の言動書などより、一意皇室を思い国家を憂えた至誠から出たものであり、維新の大業の一半は慶喜公の至誠に帰せざるを得ないし、公をしてそのようにならしめたその一半はまた祖宗の遺徳である。
明治34年大磯より汽車で帰京する折、伊藤博文に会った渋沢榮一は伊藤公より聞いた話として以下のように言っている(徳川慶喜公傳 四(逸事)):
(以下、( )内は説明のため小生が記入)
公爵(伊藤博文公)余(渋沢栄一)に語りて、「足下は常によく慶喜公を稱讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の𨪙𨪙(そうそう)たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非凡なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、
「一昨日有栖川宮にて、西班牙(スペイン)國の王族を饗應せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり。公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりてのお尋ねながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓(家の教え)を守りしに過ぎず。ご承知の如く、水戸は義公(水戸光圀公)以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人(徳川斉昭公)も同様の志にて、常々諭さるゝやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らむとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るゝこと勿れ、萬一の為に諭置くなりと教えられき。されども幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は變化常なし、此末如何に成り行くらん心もとなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき。此言常に心に銘したれば、唯それに從ひたるのみなりと申されき。如何に奥ゆかしき答えならずや、公は果たして常人にあらざりけり」といへり。
これが、徳川慶喜公の「大政奉還の真意」と思う。