光が溢れ、その眩しさにオーレリーは目を瞬かせた。
誰かが自分を見ている。輪郭がぼやけてはっきりしないが、彼女にはそれが一瞬ジョシュアの顔に見えた。
「馬鹿…。逃げなさいって言ったでしょ…」
そう言いかけている最中に光のもやは薄れ、自分を覗き込んでいるのが誰なのか、オーレリーはその正体に気づいた。
エリオット…?
なぜ息子が自分の側にいるのか、彼女にはわからなかった。
「母さん…。気づいたんだね…」
エリオットの、警戒水域ぎりぎりにまで溜まっていた涙は、その言葉とともに堤防の一部が決壊し、濁流となってオーレリーの頬に少なからぬ被害を与えた。
「馬鹿だね、男の子が泣くんじゃないよ」
息子の頬を撫でようとしたオーレリーだったが、右腕はギブスで固定され、左腕も彼女の言うことをを聞こうとはしなかった。
ようやくそこで彼女は自分が病院のベッドに寝かしつけられているという現在の状況を理解した。
それでもやはりエリオットがいる理由がわからなかった。
「どうして、あなたがここに?」
エリオットは鼻をすすりながら答えた。
「母さんが撃たれたって聞いて、飛んで来たんじゃないか」
息子の言葉にオーレリーは胸の中に長い間つかえていたわだかまりが溶ける思いだった。
それは、あの日夫のダニエルから突然離婚を切り出されてから、その理由は彼女よりも二十歳近く若い愛人の、サリーだか、シャーリーだかと一緒に暮らしたいというもので、迂闊にもオーレリーは愛人の存在にまったく気づかなかったのだが、ずっと彼女の心を支配してきた。
離婚をしたいという自分の意思をしどろもどろになって伝えようとする夫に、オーレリーは未練を持てなかった。
もういい、これからの人生、息子のエリオットと二人で生きていこう、彼女はそう決心した。
家庭裁判所は、夫婦が離婚をする際、子供を父親と母親のどちらが引き取るかについて、一定年齢に達している場合、子供の意思を尊重する傾向にあった。
オーレリーとしてもそれに異存はなかった。
何しろ今回の一件で彼女に非はないのだから。浮気をしたのも離婚を切り出したのも自分ではなく、またエリオットとの関係も良好であったから(少なくとも彼女はそう信じていた)、当然息子は
母親についてくるものと思っていた。そう信じて疑っていなかった。
だが、実際に息子が選んだのは母親との新生活ではなかった。父親と愛人と三人で暮らすことを彼は望んだのだった。
オーレリーはそれからというもの心の奥底に澱を抱えたままだった。
自分にどんな非があったというのか。妻として、母として、そして警官としてそのどれもを完璧にこなしてきたはずなのに…。
その思いが彼女から眠りを奪ったのだった。
自分は馬鹿だ、オーレリーは心の中で呟いた。母親と父親、そのどちらかを選ぶという残酷な選択を強いておきながら、いざ自分の側につかなかったからといって息子のことを逆恨みするは…。依怙地になって、もう二度とエリオットとは会うまいとさえ思っていた自分が恥ずかしくもある。
オーレリーの頬を伝う涙を見て、痛むのかい、とエリオットは尋ねた。彼女は半分照れながら、少しね、と答えた。
「でも、このことは内緒だからね。刑事が、怪我が痛くて泣いてたなんて知られたら、特にマフィアなんかに知られたら、おまんまの喰いっぱぐれになるからね」
二人は目を合わせ笑った。それからエリオットは顔を強張らせた。
「母さん、煙草の匂いがするけど、まさかまた吸ってたんじゃないだろうね」
エリオットの糾弾の言葉に、オーレリーは素直に白旗を掲げた。息子のお節介が、なぜだか今は無性に嬉しかった。
「ごめんなさい、あなたに会えなくて、何だか寂しくてね」
「もう吸わないって約束したじゃないか」
「ああ、約束するよ」
「本当だね」
エリオットがしつこく念を押す。
「今度こそ、本当だよ。これ以上嘘をついたら、嘘つきは警官の始まりって言われちゃいそうだからねぇ」
オーレリーの下手くそなジョークに、二人は声を立てて笑った。
笑いながら、オーレリーは大事なことを聞き忘れていたことを思い出した。
「そういえば、ジョシュアは?ジョシュア・リーヴェはどうしている?」
母親の質問にエリオットは逆に聞き返した。
「ジョシュア?ああ、母さんを撃った、あの少年のこと?」
「何ですって!!」
オーレリーは思わず声を荒げた。
「でも警察はそう言ってるよ」
エリオットは怪訝そうに母親の顔を見た。オーレリーは痛みを堪え、ベッドの上で半身起き上がった。
「お願い、エリオット。誰でもいいわ。警察を呼んで」
一時間ほどして二人の男が病室を訪れた。警察手帳を提示したが、両名ともオーレリーの知らない名前だった。
彼女は二人に自分の知りうる限りの真相を語って聞かせた。
特にエドワード・マクマーナンを殺害したのはマーク・ハプスコット刑事であること、自分を撃ったのもジョシュアではなくハプスコット刑事であること、ハプスコット刑事はどうやらモンツェリーニファミリーの始末屋であったらしいこと、ハプスコット刑事を殺したのはジョシュアであるが、それも正当防衛であることなどを何度も繰り返し強調した。
男たちはあらかた話を聞き終えると、捜査は自分たちが引き継ぐので、オーレリーには病院で療養に努めるようにと言葉を残し、病室を後にした。
だが一日が過ぎ、二日が過ぎても、事態は何も変わらなかった。オーレリー・ローシェルという生き証人がいて、多くの証拠も残されているにも関わらず、警察は当初の公式見解を変えようとはしなかった。
すなわち、ウォルター・マードック、エドワード・マクマーナン、マーク・ハプスコット、この三名を殺害した容疑者として、彼が未成年であるにもかかわらず、ジョシュア・リーヴェを正式に指名手配した。
上層部はマーク・ハプスコットがマフィアの手下であったことを認めることが出来ないらしい。
くだらないプライドだとオーレリーは唾棄した。本当のプライドとは何より職務に忠実であることではないのか。病室のベッドの上で彼女は自分の無力さを呪った。
ジョシュアは、警察とマフィア、双方から追われているにもかかわらず、その行方は杳として知れなかった。無責任なマスコミは、少年がどこか人知れぬ土地で命を絶ったのではないかと勝手な憶測を立てていたが、オーレリーはそれだけはありえないと思っていた。
退院の日を迎え、病院の玄関の外に出たオーレリーは大きく深呼吸した。体はまだ満足に動いてはくれず、杖なしでは歩行も儘ならない。
だが澄み切った初冬の空を見上げて、そこに鳶だろうか、一羽の鳥が大きく悠然と弧を描くのを認め、彼女は会心の笑みを浮かべた。
どこまでも、どこまでも、この高く澄んだ空を飛ぶあの鳥のように自由に羽ばたくがいい。
迎えに来てくれたエリオットに向かって手を振りながら、オーレリーは心の中でジョシュアにそう呼びかけていた。
*『空のない街』/エピローグ に続く
誰かが自分を見ている。輪郭がぼやけてはっきりしないが、彼女にはそれが一瞬ジョシュアの顔に見えた。
「馬鹿…。逃げなさいって言ったでしょ…」
そう言いかけている最中に光のもやは薄れ、自分を覗き込んでいるのが誰なのか、オーレリーはその正体に気づいた。
エリオット…?
なぜ息子が自分の側にいるのか、彼女にはわからなかった。
「母さん…。気づいたんだね…」
エリオットの、警戒水域ぎりぎりにまで溜まっていた涙は、その言葉とともに堤防の一部が決壊し、濁流となってオーレリーの頬に少なからぬ被害を与えた。
「馬鹿だね、男の子が泣くんじゃないよ」
息子の頬を撫でようとしたオーレリーだったが、右腕はギブスで固定され、左腕も彼女の言うことをを聞こうとはしなかった。
ようやくそこで彼女は自分が病院のベッドに寝かしつけられているという現在の状況を理解した。
それでもやはりエリオットがいる理由がわからなかった。
「どうして、あなたがここに?」
エリオットは鼻をすすりながら答えた。
「母さんが撃たれたって聞いて、飛んで来たんじゃないか」
息子の言葉にオーレリーは胸の中に長い間つかえていたわだかまりが溶ける思いだった。
それは、あの日夫のダニエルから突然離婚を切り出されてから、その理由は彼女よりも二十歳近く若い愛人の、サリーだか、シャーリーだかと一緒に暮らしたいというもので、迂闊にもオーレリーは愛人の存在にまったく気づかなかったのだが、ずっと彼女の心を支配してきた。
離婚をしたいという自分の意思をしどろもどろになって伝えようとする夫に、オーレリーは未練を持てなかった。
もういい、これからの人生、息子のエリオットと二人で生きていこう、彼女はそう決心した。
家庭裁判所は、夫婦が離婚をする際、子供を父親と母親のどちらが引き取るかについて、一定年齢に達している場合、子供の意思を尊重する傾向にあった。
オーレリーとしてもそれに異存はなかった。
何しろ今回の一件で彼女に非はないのだから。浮気をしたのも離婚を切り出したのも自分ではなく、またエリオットとの関係も良好であったから(少なくとも彼女はそう信じていた)、当然息子は
母親についてくるものと思っていた。そう信じて疑っていなかった。
だが、実際に息子が選んだのは母親との新生活ではなかった。父親と愛人と三人で暮らすことを彼は望んだのだった。
オーレリーはそれからというもの心の奥底に澱を抱えたままだった。
自分にどんな非があったというのか。妻として、母として、そして警官としてそのどれもを完璧にこなしてきたはずなのに…。
その思いが彼女から眠りを奪ったのだった。
自分は馬鹿だ、オーレリーは心の中で呟いた。母親と父親、そのどちらかを選ぶという残酷な選択を強いておきながら、いざ自分の側につかなかったからといって息子のことを逆恨みするは…。依怙地になって、もう二度とエリオットとは会うまいとさえ思っていた自分が恥ずかしくもある。
オーレリーの頬を伝う涙を見て、痛むのかい、とエリオットは尋ねた。彼女は半分照れながら、少しね、と答えた。
「でも、このことは内緒だからね。刑事が、怪我が痛くて泣いてたなんて知られたら、特にマフィアなんかに知られたら、おまんまの喰いっぱぐれになるからね」
二人は目を合わせ笑った。それからエリオットは顔を強張らせた。
「母さん、煙草の匂いがするけど、まさかまた吸ってたんじゃないだろうね」
エリオットの糾弾の言葉に、オーレリーは素直に白旗を掲げた。息子のお節介が、なぜだか今は無性に嬉しかった。
「ごめんなさい、あなたに会えなくて、何だか寂しくてね」
「もう吸わないって約束したじゃないか」
「ああ、約束するよ」
「本当だね」
エリオットがしつこく念を押す。
「今度こそ、本当だよ。これ以上嘘をついたら、嘘つきは警官の始まりって言われちゃいそうだからねぇ」
オーレリーの下手くそなジョークに、二人は声を立てて笑った。
笑いながら、オーレリーは大事なことを聞き忘れていたことを思い出した。
「そういえば、ジョシュアは?ジョシュア・リーヴェはどうしている?」
母親の質問にエリオットは逆に聞き返した。
「ジョシュア?ああ、母さんを撃った、あの少年のこと?」
「何ですって!!」
オーレリーは思わず声を荒げた。
「でも警察はそう言ってるよ」
エリオットは怪訝そうに母親の顔を見た。オーレリーは痛みを堪え、ベッドの上で半身起き上がった。
「お願い、エリオット。誰でもいいわ。警察を呼んで」
一時間ほどして二人の男が病室を訪れた。警察手帳を提示したが、両名ともオーレリーの知らない名前だった。
彼女は二人に自分の知りうる限りの真相を語って聞かせた。
特にエドワード・マクマーナンを殺害したのはマーク・ハプスコット刑事であること、自分を撃ったのもジョシュアではなくハプスコット刑事であること、ハプスコット刑事はどうやらモンツェリーニファミリーの始末屋であったらしいこと、ハプスコット刑事を殺したのはジョシュアであるが、それも正当防衛であることなどを何度も繰り返し強調した。
男たちはあらかた話を聞き終えると、捜査は自分たちが引き継ぐので、オーレリーには病院で療養に努めるようにと言葉を残し、病室を後にした。
だが一日が過ぎ、二日が過ぎても、事態は何も変わらなかった。オーレリー・ローシェルという生き証人がいて、多くの証拠も残されているにも関わらず、警察は当初の公式見解を変えようとはしなかった。
すなわち、ウォルター・マードック、エドワード・マクマーナン、マーク・ハプスコット、この三名を殺害した容疑者として、彼が未成年であるにもかかわらず、ジョシュア・リーヴェを正式に指名手配した。
上層部はマーク・ハプスコットがマフィアの手下であったことを認めることが出来ないらしい。
くだらないプライドだとオーレリーは唾棄した。本当のプライドとは何より職務に忠実であることではないのか。病室のベッドの上で彼女は自分の無力さを呪った。
ジョシュアは、警察とマフィア、双方から追われているにもかかわらず、その行方は杳として知れなかった。無責任なマスコミは、少年がどこか人知れぬ土地で命を絶ったのではないかと勝手な憶測を立てていたが、オーレリーはそれだけはありえないと思っていた。
退院の日を迎え、病院の玄関の外に出たオーレリーは大きく深呼吸した。体はまだ満足に動いてはくれず、杖なしでは歩行も儘ならない。
だが澄み切った初冬の空を見上げて、そこに鳶だろうか、一羽の鳥が大きく悠然と弧を描くのを認め、彼女は会心の笑みを浮かべた。
どこまでも、どこまでも、この高く澄んだ空を飛ぶあの鳥のように自由に羽ばたくがいい。
迎えに来てくれたエリオットに向かって手を振りながら、オーレリーは心の中でジョシュアにそう呼びかけていた。
*『空のない街』/エピローグ に続く
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