愚息が帰省して10日、今日は荷物もあることから仙台まで送っていった。
正月休みも終わりなので高速道路の混雑が心配であったが、2時間とちょっとで仙台に到達。アパートに荷物を下ろし、早速、昼飯を食しに街中へ。
入学式の時にいった「揚次」、そば屋ではあるが、ここの中華が旨い。
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夜は用事があるとのことで、愚息をアパートの送っていき、前々から行きたかった瑞鳳殿へ。伊達政宗の墓所である。
カーナビを設定し、目的地へ。坂道を少し上がると、瑞鳳寺の山門。正宗の菩提を弔うため、二代忠宗が建立した寺。
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その先は長い階段が続く。瑞鳳殿は国宝であったが、戦災で消失。1970年代に墓所の発掘調査を行い、遺骨を鑑定。慎重約160cm弱で、顔は面長、現代風の顔つきであったとのこと。資料館では、伊達三代の墓所の発掘状況を放映していた。
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拝殿が復元される前までは、墓室の上に墓標が立っていたそうだ。どうとらえていいのか分からないが、拝殿が焼失し、これを復元するために墓所の発掘調査が行われた。埋葬方法、副葬品など、諸々解明できたことも確かである。ただ、戦争が多くの文化財を葬り去ってしまったのも確かである。例えば、芝・増上寺の徳川家の墓所もそうである。秀忠や江の拝殿も国宝、それが一瞬で喪失してしまう。
歴史のロマンをどこに求めればいいのだろうか。
ちなみに、伊達家の拝殿は三代まで。四代目以降は拝殿を止め、墓石にしたとのこと。更に興味を持ったのが、明治維新後の藩主は仏式から神式に埋葬法が変わったとのこと。そういえば、徳川慶喜の墓も神式だったし、盛岡の南部公の新しい墓所には鳥居があった。
廃仏毀釈の影響もあったのだろう、明治維新後、天皇に恭順の意を示すために仏式から神式に変えた事例も、それなりにあるのかもしれない。
正月休みも終わりなので高速道路の混雑が心配であったが、2時間とちょっとで仙台に到達。アパートに荷物を下ろし、早速、昼飯を食しに街中へ。
入学式の時にいった「揚次」、そば屋ではあるが、ここの中華が旨い。
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夜は用事があるとのことで、愚息をアパートの送っていき、前々から行きたかった瑞鳳殿へ。伊達政宗の墓所である。
カーナビを設定し、目的地へ。坂道を少し上がると、瑞鳳寺の山門。正宗の菩提を弔うため、二代忠宗が建立した寺。
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その先は長い階段が続く。瑞鳳殿は国宝であったが、戦災で消失。1970年代に墓所の発掘調査を行い、遺骨を鑑定。慎重約160cm弱で、顔は面長、現代風の顔つきであったとのこと。資料館では、伊達三代の墓所の発掘状況を放映していた。
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拝殿が復元される前までは、墓室の上に墓標が立っていたそうだ。どうとらえていいのか分からないが、拝殿が焼失し、これを復元するために墓所の発掘調査が行われた。埋葬方法、副葬品など、諸々解明できたことも確かである。ただ、戦争が多くの文化財を葬り去ってしまったのも確かである。例えば、芝・増上寺の徳川家の墓所もそうである。秀忠や江の拝殿も国宝、それが一瞬で喪失してしまう。
歴史のロマンをどこに求めればいいのだろうか。
ちなみに、伊達家の拝殿は三代まで。四代目以降は拝殿を止め、墓石にしたとのこと。更に興味を持ったのが、明治維新後の藩主は仏式から神式に埋葬法が変わったとのこと。そういえば、徳川慶喜の墓も神式だったし、盛岡の南部公の新しい墓所には鳥居があった。
廃仏毀釈の影響もあったのだろう、明治維新後、天皇に恭順の意を示すために仏式から神式に変えた事例も、それなりにあるのかもしれない。