続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

M『赤いモデル』

2022-03-08 07:33:11 | 美術ノート

   『赤いモデル』

 石壁の前の土の道に一足の革靴が置かれている。
 皮であり、人肉であり、足である。履いていないが、履いているが如く足先が人の皮膚である。
 人間の不在、にもかかわらず明らかに人に密接にかかわり、一体にすらなっている。地面との密着、即ち(労働)である。

 人間不在、精神の欠如、労働=足であり、単位(人数)である。全く同じものの増殖、平等とは言い難い物質化した生命の根拠はあまりにも野蛮で淋しい。
 赤、共産主義の律を単純化した仮説で提示している作品からは悲鳴が聞こえる。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『幕の宮殿』

2022-03-03 05:59:52 | 美術ノート

   『幕の宮殿』

 宮殿の幕なら分かる、しかし、幕の宮殿である。幕=宮殿ということだろうか。
 変形のパネルが六枚それぞれ孤立しているのか連結しているのかは不明だが、重なりつつも並列の態である。幕というものは一枚の布であり何かを被うものである。

 この場合、何を被っているのだろう、被いきれない室内の壁が露呈しており、壁も床もほぼ同色である。
 殿というものは大きな建物を指し、皇帝の御殿である。(あるいは神殿)
 建屋の一室に収まる凸凹のパネル一連が宮殿なのだろうか。殿は空間であり平面ではないが、あえてそう名付けているのだろうか。

 馬の鈴(伝説、口伝etc)、雲を浮かべた青空、緑の林・・・その三枚の前後に黒いパネル。いずれも時空を推しはかれないほどの巨きさを所有する、無限、果てないほどの地上を被うものである。黒い画面が夜であるならば、各三枚は昼である。
 見えるものと見えないもの。
 縮小された画面の持つ無限の広がりを持つ世界。
 被われたものは被うものをはるかに超越するという視覚の誤読。

 この差異の変遷、ひどく居心地の悪い不可解。これが幕の宮殿であり、決して宮殿の幕ではあり得ないものである。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『大潮』

2022-03-02 07:18:40 | 美術ノート

   『大潮』

 大潮とは潮の干満が最大になる時をいう。そしてこの絵が『大潮』だとマグリットが提示する。

 額装された青空が描かれた絵、雲のまにまに馬の鈴(伝説・風評・声etc)が青空に同化している。
 額装された絵の周囲(世界)は暗黒であり、やはり黒い岩石が散在しており、額縁の上部を抑えてもいる。

 この石は何だろう。中空に漂い、抑える威力さえも持っている無言の石。この暗黒(不明・あるいは不思議・あるいは幻想)は青空(宇宙の真理)を抑え、所有しているかのようである。

 石は何か巨きなものの媒体ではないか。例えば、(主なる神はとこしえの巖だからである「イザヤ書」)を想起させる。
 伝説は伝説を越え、世界を掌握する。生きる糧は自然と精神的な自然(例えば宗教の教え)の落差の中に存在しているのではないか。
 是非を問わず、静かな達観を複雑な思いを持って提示している。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『光の帝国』

2022-03-01 09:15:14 | 美術ノート

   『光の帝国』

 光の帝国であって、帝国の光ではない。
 画面は光(空/自然)と帝国(皇帝の統治する国家)が半々に占める構図になっている。
 夜の景色である帝国には薄明かり(人工)が見える。大自然(宇宙)の中で人が権力を握る世界は、光をも我が物とする人智の構築である。

 大いなる光(太陽)は世界を照らして止まないが、帝国はもろくも崩れゆく運命を担っているのは史実が物語っている。

 しかし、人智における国造りは強大であり、人々は順列に従い約束は厳守される。自由・解放は天(空)の下で閉塞されている。帝国の守りと呪縛は世紀を超えて人々を支配し、掟を破るものは力をもって制圧を余儀なくされる。


 帝国の幻、否、現実は光(宇宙)の中では笑止の薄暗闇に過ぎない、と、マグリットは呟く。しかし、正しく私たちは、この中で生きている。抗うべくもなく一枚の絵の中でわたし(マグリット)は秘かに呟いている。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『即自的イメージ』

2022-02-28 06:22:37 | 美術ノート

   『即自的イメージ』

 テーブル(床?)の上に高台付き皿? ガラスケースの中にケーキ、ではなく額縁に入ったケーキの絵があり、背景はわずかに混色のムラがあるモーブ。

 一見関連があるように見えて、これらはそこに在るがままであり、意味を見いだせない。(故に)という理由が存在せず、ただ在るがままである。

 即自、Itself、そのもの自身であるしかない。
 
 しかしそれを説明しようとイメージ化したマグリット自身は自身の描いたものに対峙しており、対自を認識しているわけである。
 客観的に(即自)をイメージする。対象物は確かに各々の対象物であるが、存在理由の欠如に於いて(即自)であるしかない。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『絶対の声』

2022-02-24 09:16:42 | 美術ノート

   『絶対の声』

 画面の中に薔薇一輪、Une 薔薇の絵 Dans L'univers roseを薔薇の絵に差し替えている。
 背景は薔薇のピンクと葉の青が微妙に混濁した紫色、そして何気に動きを感じる。

 これきりである、これが『絶対の声』だと。
 言葉と物、薔薇と薔薇の絵に相違はあるか? 脳で感知するイメージは学習されたデータの集積により一つの物に集約される。ゆえに薔薇は薔薇であり比べる必要もなく何の制約も不必要であり、無条件に《薔薇》なのである。

 絶対とは(必ずそうなると決まっている知覚の働き)である。
 薔薇という文字の代りに薔薇の絵を描いても必ずイメージはぶれることなく《薔薇》という答えを導き出し、比較・対立を超えてあるものが《絶対》である。

 ただ『絶対の声』という響きには、本当に絶対であるのか?という客観的な眼差しが潜んでいる。《絶対》を俯瞰するもう一つの声が聞こえる。

 写真は『マグリット』展・図録より 


M『心臓への一撃』

2022-02-17 06:28:05 | 美術ノート

   『心臓への一撃』

 地面というより岩盤の上に突出した薔薇一輪、あたかも枝から生え出たような鋭い刃の短剣が薔薇と一体になっている。
 背景は曇天、水平線が認められる他は何もない景色である。

 美しい薔薇は何の象徴だろうか・・・《愛》そのものの危うさと高貴(誇り)。

《愛》を傷つける刃、否、守る刃だろうか。精神と凶器(物)の相反する関係は、むしろ密接に結びついているものかもしれない。愛の先に見える暴力的なまでの裏切り、建国に対する造反、嫉妬・憎悪の負の感情、完成された美は常に滅びの運命を担っている。

『心臓への一撃』、大いなる愛を常に脅かす一撃は表裏一体、離れがたく結びついている。接触の予感、瞬間は、嵐を呼ぶ不気味な空模様に違いない。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『美しい言葉』

2022-02-16 06:24:01 | 美術ノート

   『美しい言葉』

 美しい言葉とは何だったのか。
 画面は美しいと思われる薔薇一輪が描かれ、その上方に煙か霧状の薔薇が拡散したように描かれている。香りと受け取るべきか、霧散する気体状の薔薇の形状である。

 その上の方には三日月が、南中している。いったいこの時空はどう捉えればいいのか…背景のブルーは海と空なのか、区別を暗示する線状は水平線の違いない。

 三日月の南中は太陽と重なり見えないのではないか。
 要するにこの三日月は嘘である。

『美しい言葉』とは、存在するが、霧散するような実態の無いもある。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『自然の驚異』

2022-02-15 05:59:48 | 美術ノート

   『自然の驚異』

 浜辺の石の台座に座る石化した男女、上半身は魚、下半身は人間である。
 海の彼方には海水で模られた帆船が見える。

 ありふれた景色の中の驚くべき質感を持った事物の景色。自然の法則、物理的条件をことごとく外した帆船と男女の存在。

『自然の驚異』というより、自然への反逆、自然への冒涜である。絶対にあり得ない変化、水は水のみで形を留めることは不可能だという絶対条件がある、水は三態に姿を変えるが意志をもって創造物に化身する術を持たず、水であるしかないのである。

 石という鉱物も然り。地殻変動で形を変えることはあるが、意志をもって形を他のものに模ることは絶対にあり得ず、人という有機物が魚に融合することもない。
 魚になるというのは、〇〇であったならという空想の範囲を出ることのない不条理であり、まして下半身だけが人間の足として模られるなどと言うことは、単にセイレーンという寓話を模したに過ぎない。要するに想像の妙に手を加えたともいえる人智におけるデータの捏造である。

 総ては《否定》から出来ている。可能性の全否定であり、絶対に無い風景を肯定的に描くことで絶対的な自然の条件を逆説的に明確にしている。
《自然》はかくも強固な特異性あるいは単一性を固持するものであるという証明かもしれない『自然の驚異』とは。

 写真は『マグリット』展・図録より
 


M『会話術』

2022-02-14 06:06:21 | 美術ノート

   『会話術』

 室内から望む景色である。海・陸地・空の境界がEspana(スペイン)のスペルによって混濁している。鮮明なのは闘牛の瀕死の牛だけであり、頭部にナイフ、血の流出、悲し気な眼差し、被せられた布地(マント)がリアルに描かれている。

 スペインの文字…共通認識に基ずくスペインということだろうか。動物愛護の面から見て残酷なシーンはむしろ非難されるべきもので、スペインの誇り、輝かしい面とは言い難い。
 遠くに白い建物(アルハンブラ宮殿? サグラダ・ファミリア?)が見えるが、牛の圧倒的な残酷に対して印象は薄い。
 室内の開口は馬蹄形アーチだろうか、スペイン建築の特徴というより一般的に思える。

『会話術』、会話とは何か。一つの命題に対して多くを言及するツールかもしれない。綿々と続く問題提議・・・状況に対する発言、心理の術である。
『会話術』の三作品を見て思うのは、会話とは対・人との関係の間に《物・状況》の介在が必須であるということである。

 写真は『マグリット』展・図録より