続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

奈良美智(1)。

2012-07-22 07:28:17 | 美術ノート
 NHKの高校講座「美術」で青森の高校生の授業を担当したのを見ていて、基本「自由」と「凝視の眼差し」の作家だと思ったことがある。

 パンフレット、写真でしか見たことのなかった奈良美智の作品は、やはり本物を見ての「奈良美智」である。
 横浜美術館で開催されている『君や 僕に ちょっと 似ている』

 入場すると、いきなり大きな白色の作品が・・・美しくもなく可愛いというのでもなくただそこに在るように置かれている。鑑賞者はまるで上手い具合の背景のようにしてその前で写真を撮っている、そういう人が後を絶たないほど、そういう行動に駆られる物体(作品)。

 存在しているけれど、存在していない。誰かに似ているようだけれど、実は誰にも似ていない。似ることを拒否するような白であり金であり、その大きさなのである。時として手足も胴体すらもない巨大な頭部は、彫刻家が創る像とはまったく異なる意図による作家の精神(魂)の具現化である。

 一見酷似しているように見える女の子らしき顔、姿。曖昧模糊とした思いから具現化される顔という象徴は作家の中の律というにすぎない。曖昧であることの定着・・・女の子に見えることさえ一つの現象にすぎず、強いて言えば、観念的なものの未熟という意味での女の子なのだと思う。犬猫のほうがむしろ適していたかもしれないが、単一に昇華する形というものを探しきれないほど犬猫は案外複雑だったのではないか。

 女の子に見える形態は、感情を露にしている。その意味では分かりやすいが元来の絵の持つ美とは無縁である。哀しみ、怒り、皮肉、喪失、告発・・・沈黙は時に気付く人にだけという限定でメッセージを書き込んでいる。

 そこに在るように在る。けれど、元来そこに在るはずのない作品は、京急上大岡駅のビル内に幾つか秘かに、吹き抜けの梁に佇んでいる(設置されている)。


 存在と非存在(消失)の不思議なせめぎあい・・・奈良美智の世界は馴染みやすいが遠い作品であり、鑑賞者はその距離を測ることによって自分の立っている今を知ることになる。


(とにー先生、丁寧なツアー、本当にありがとうございました。すごく楽しかったです)

『城』890。

2012-07-22 06:41:34 | カフカ覚書
しかし、そういうやりかたこそ、間違っていたでしょう。わたしはね、この人物のことでは、たとえあなたのこころのなかだけであっても汚点を残しておきたくないのです。手落ちの可能性などまったく考慮に入れない、というのが伯爵府の執務上の原則なのです。

 汚点/Makel→Macht/権力。
 istein→ist Ahn/存在、先祖。
 伯爵府(役所)/Behorde→beforden/追い払う。
 手落ち/Fehler→fallen/(判決を)下す。

☆まさに間違っていたのです。この人物のことでは単にあなたの想像だけであっても権力として留まってほしくないのです。判決を下す可能性などまったくなく、先祖の存在は追い払われた不在証明というのが原則なのです。